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無からはなにも生じませんか?
無からは何も生じませんか? 無からは何も生じなければ この世の始まりは無からではなく、有となります。 つまり元々すべてがあった訳で 有る、ということが物事の基本ベースとなります。 私達は無が物事の基本ベースであり そこに何かを付け足すことで有になる、 と考えがちですがそれは錯覚であり、 物事の始まりなど存在せず、 有が基本ベースだというアンリ・ベルクソンの考えに賛同です。 どう思いますか?
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補足します まず、変化があるということは変化する前と変化した後があるということで、差別があるということです。 ところが時間が無限だということは無差別・一様だということです。 だから、無限であることと変化は両立しません。 つぎに原因と結果に関してですが、結果だけあって原因がないというのは因果律に矛盾しますから、ある出来事が結果だとすれば、その原因がなければなりません。 しかし、その原因も原因の原因の結果であるはずです。 つまり、原因は結果でもあり、結果はまた原因でもなければなりません。 もし、宇宙が誕生したならば、それも結果であり、原因がなければなりませんが、原因があっても、それもまた結果であったはずであり、かくて原因の探究は無限遡行に陥ります。 時間は有限であっても、無限であっても、二律背反に陥ります。 もし、時間が有限だったならば、時間の始まる前には何があったのか? という疑問を免れません。 それに何かが始まるには充足理由がなければなりません。 時間があるとき突然始まったということは、それ以前に時間のない空虚が続いていたことになり、その空虚がずっと続いていても良かったはずであり、時間が突然始まったことの理由がありません。 今から138億年前に宇宙が誕生したならば、なぜ200億年前でなくて、138億年前だったのか、その理由がなければなりませんが、138億年前に誕生した理由がありません。 また、時間が無限だったならば、今もその無限の過程の中にあるはずであり、何事も始まらず、宇宙も誕生せず、何らの変化もなかったはずです。 誕生するということは変化ですから。 しかし、私たちは宇宙が現に存在していることを知っているし、変化があるのも知っています。 これは矛盾です。 変化がありつつ、宇宙が無限だということはあり得ません。 宇宙が無限だということは時間的にも、空間的にも、宇宙は無限だということです。 そして時間が無限だということは無差別・一様だということですから、変化はないことになり、私たちの観察の事実に矛盾します。 変化があるということは無差別ではない、一様ではない、ということです。 変化は変化する前と変化した後という「差異」がなければなりません。 時間が無限だということは「差異」がないということですから、変化とは相容れません。 有は無があって、その「差異」として有があるのですから、有が基本ベースにあるとは言えません。 つまり、無があって初めて有があるということは、有は無に依存しているということです。 他に依存するものは相対的なものであって、基本とは言えません。 基本というのだったら、有と無の以前でなければなりません。 だから、ベルグソンはそれを純粋持続と言ったのです。 純粋持続の「差異」として、有があり、無があります。 しかし、ベルグソンの純粋持続は、形而上学であって、それがあることを確かめることはできません。 ベルグソンは「直観」によって知ることができる、といい、物事の内部に入ることを「直観」と言っていますが、どのようにして物事を外から観察するのでなく、内部に入ることができるのか、そのことを何ら説明していません。 私にはベルグソンのいう「直観」は意味不明です。
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- stmim
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totetsumonaiさんの言われる「この世の始まり」というのが自然科学での宇宙の始まりということであるなら、哲学で考えても解決しない問題でしょう。天文学関係の本を読むのがよいと思います。 例えば、 クラウス,ローレンス著「宇宙が始まる前には何があったのか? 」 この本の著者は無からはじまったと考えています。 天文学的な結論として無からはじまったと断言できるところまでは行っていないと思います。 ただ、今から過去にさかのぼっていけば、その前の状態はどうだったのか?さらにその前は?と考えていくと、やはり最初は無ということになるのじゃないかな?と私は思います。
- kurinal
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totetsumonai様、こんばんは。 「人権」とは、隔世の話、ですね。
お礼
意味が分かりません
- hekiyu
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全面的に賛同します。 無、というのは全く、全然、何もない、という ことではありません。 そんなモノは人間の頭の中にあるだけです。 つまり概念です。 現実の世界、宇宙の無は有なのです。 無という言葉に欺されているだけです。 最新のインフレ宇宙論も、こういう考えが基本と なっています。
お礼
ありがとうございます! 私も回答者様と全く同じ意見です。 しっくり来ます。
自分何がしたいん???って大阪弁ですね(#^.^#) でも 自分って 普通は 自身の事です・・まっ そんな事は置いといて・・・ 要は「堕落性本性」を取り除けば 全ての事が判ります・・・ そして あなたも 何れは 堕落性本性を 取り除く事になります・・・ 早いか 遅いか の 違いだけ・・・
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
もし、「無だ」と感じるならば、「無だと感じる何者か」が 先入する訳だから、それは真の無ではない。 逆に言えば、「無だとは感じられない」状況の中に、ある 形式で真の無は存在する。 「ある形式」とは; 1.認識性(自我仮説(記憶=過去=超光速)=時間軸)と、 その環境性(空間仮説=空間軸)の相補分化。 即ち量子的な相補的不確定性に基づく時空。 2.その「相補分化」における非本質性。 本質的(超弦)に光速に還元される本質を、階層現象 性(認識体(脳)>細胞>分子>原子>素粒子>クォーク >超弦(量子定常波))を表面的に(いい加減に)捉える 事で仮想的に派生する非光速性に依拠した『分化』(超 光速=虚数エネルギー=自乗でマイナス=現在(潜在的認識 可能性=感受表面=光速)からの過去と未来への相補分化)。 3.物理とは、不完全な認識に於て、その自我成立のための 必要として派生した環境性を無に還元する=「何かある んじゃないの」という疑問として生じた宇宙を「本当は 無いんだけどね」と「無に還元する」ものなのだ。 無いとは分からない事が有。 4.最新の量子論的世界像において、我々の目にする有限な 存在は、絶対確定化において無限不確定に発散する相補 的不確定性を、いい加減に捉える事でによって生じる= 経験的(異なる時点=プランク定数hの収束(物体収縮= 宇宙膨張)の時系列化)に表面的に捉える事で可能に なっている事が明らかとなっている。 5.全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限 に詰め込むと存在確率の山が重なって平らになり、無と 等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」に於て、その無限の闇に、 認識体の仮定断面(認識可能性)の運動(:プランク 定数hの収束(物体収縮)の時系列化=宇宙膨張)を想定 すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光 (量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的 不確定性を伴う)としての宇宙を認識するのだ。
お礼
ありがとうございます! とても深いことを書かれているのだと思いますが 頭の悪い私には、難しくて読み解くことが出来ませんでした。。 つまり科学における「無」の定義が 私達が直感的に考える「無」とはかなりかけ離れているんだよ、 ということでしょうか? 科学における「無」の定義がされていないことも その解明途中段階であることも予想できます。 無が定義されて無ければ、当然話が進まないのも分かります。
- amenhotep2000
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totetsumonaiさん こんばんは このベルクソンの言葉を遡ると、西洋において哲学を最初に、始めたいう伝説があるギリシア時代の、タレスの自然哲学に至ると思います。 つまり、元からあり、変化を通じて変化しない原質(アルケー)が、いろいろな哲学者により追及され、それまでの神話の神々を追放しました。 その特徴の自然観や宇宙観の特質は「物質」自身の活動によって宇宙が形成され、あらゆる構造や機能が生じたとする。語弊があるかもしれませんが、現在の科学の唯物論につながる考えだと私は認識してます。 タレスは水がアルケーとしましたが、諸説あるかと思いますが、ギリシアの自然哲学の完成者は、現在の化学の元素に通じる、これ以上分割できないアルケーである、原子(アトム)を唱えたデモクリトスとされてます。 このデモクリトスをその後の哲学者や評論家はどのように称したか言えば、プルタルコス偽書には 「デモクリトスは宇宙は何ものによっても創造されないから、無限であるとした・・現に起こっているものの原因には始まりがなく、在った、在り、そして在るだろう。一切のものは必然性のなかに含まれている」 と書かれ、ギリシア哲学者列伝を書いた、ディオゲネス・ラエルティオスは 「何も無から創造され得ず、また破壊されて無に帰することはありえぬ。」 と評しているようです。 この考えには、キリスト教の神は、たちは入れませんし、有の思想ですから、無の思想の仏教もたち入れません。 私は、日本人として西田幾多郎の理解や、習ってませんが、茶の湯に興味があり、仏教の禅宗の考えもかじった程度に、お勉強してます。 仏教の無とは、なにも無いのでなくて形がないことであり。また0でなく1でもなく、「ある・なし」のどちらもとらわれないのが禅の精神だそうです。 私の回答に対し、totetsumonaiさん の考えをお礼にていただければ幸いと思い、また、仏教の見地で回答される方により、totetsumonaiさん の投稿がいろいろな意見で発展することを望みます。
お礼
ありがとうございます! そうですね、まさにデモクリトスが言ってることは、私が言いたいことと同じかもしれません。非常にしっくり来ます。 「無」というのは人間の概念上の発明であり、物質世界には存在しないのではないかと考えています。真空だって、すくなくとも空間と時間は有るわけですし。。 私は仏教には詳しくないですが、釈迦は好きで勉強しています。 >> 無の思想の仏教もたち入れません。 仏教が無の思想なのかは分からないですが、釈迦はむしろデモクリトスと言ってることが近いと感じました。 ・世の中の全ては変化する ・そのルールの中で苦しまないためには無我になるといいよ 釈迦が言ってるのはつまりこういうことなんですが、 この場合の無我とは「物理的な無」ではなくて、 己の執着や欲を絶つという意味の「精神的な無」だと思います。 従って、「物理的なこの世の解釈」においてはデモクリトスと釈迦の主張は似てると思いました。それを受けての精神的な対応は、また違うと思いますが。 >> また、仏教の見地で回答される方により、 >> totetsumonaiさん の投稿がいろいろな意見で発展することを望みます。 私も仏教には興味が有るのですが、 私のこの質問は 物理的・化学的・客観的な意味での「無」と 非物理的・精神的・主観的な意味での「無」を 分けて考えないといけないと思っています。 そして私がこの質問で知りたいのは 物理的・化学的・客観的な意味での「無」です。
- urigadai2013
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カントは「純粋理性批判」の第二部の弁証論の「純粋理性の二律背反」で、宇宙は、始まりがあるか、無いか、有限か、無限かを論じ、背理法を使って論証し、どちらも成り立つから、人間理性にはどちらとも決定できないと言っています。 まず、始まりがあるとしましょう。 ということは時間もそこで始まったことになります。 それ以前は空虚な時間が流れていたことになります。 空虚ということは一様だということ。 無差別だということ。 たとえば、今から150億年前に宇宙が誕生して、始まったとしましょう。 どうして今から200億年前でなく、また今から100億年前でなく、まさしく150億年前なのでしょうか? 理由がありません。 それに、始まるがあるということは原因だけあって、結果がないことになり、因果律に矛盾します。 もし、始まりが結果だとすれば、原因がなければならず、その原因が見つかったとしてもそれも結果であり、さらに原因があるはずであり、原因は無限にさかのぼらざるを得ません。 原因が無限にさかのぼるということは原因がないというのに等しく、これは背理です。 したがって、始まりがあるというのは否定されます。 では、今度は始まりがないとしましょう。 始まりがないということは時間は無限だということですから、今もその無限の過程にあってもいいことになり、何ものも始まらなかったはずです。 つまり、宇宙は存在しなかったというべきですが、実際は宇宙は存在します。 これは背理です。 したがって、始まりがないという考えも否定されます。 こうして宇宙に始まりがあるという考えも、始まりがないという考えも、背理に落ち込みます。 キリスト教は神が世界を無から創造したと言っています。 それに対して聖アウグスティヌスだったか(?)、「では世界を作る前には神はいったい何をしていたのか?」と皮肉りました。 手持無沙汰で、ヒマだったから、退屈しのぎに神は世界を創造したんですかね? 江戸時代の新井白石は江戸城にキリシタン宣教師、シドッティを招いて問答をし、その中で質問しました、「神が世界を創造したのならば、その神は一体だれが作ったのか?」と。 シドッティは答えられなかったと言います。 白石の「西洋紀聞」にそれが載っています。 この間テレビの科学番組を見ていたら、宇宙が1個の素粒子のビッグ・バンによって誕生する前に、ダーク・マターという暗黒物質が先行して存在し、その中に1個の素粒子が誕生したので、私たちの宇宙は無から誕生したのではない、と言っていました。 今でも、宇宙はものすごく希薄だけど、ダーク・マターはもっと希薄で、ほとんど何もない、スカスカだったと言っていました。 私たちの知っている宇宙というのは全体の5%くらいで、残りの95%はまだ知られていないのだ、とも。 となると、私たちの宇宙も始まりがないのかもしれない。 無から有が生じるというのは、考えるのがひじように難しいです。 無からは無しか生じない、有からは有しか生じない。 ただし、非存在は別です。 無と非存在は違うから。 存在の否定である非存在ならば考えることができます。 だけど、ハイデガーは「無は無化する」と言っています。 つまり無というのはこの世界のどこにも無い。 ベルグソンが「物事の始まりなど存在せず、有が基本ベースだ」というようなことを言いましたかね? 持続が、運動が基本であって、始まりとか、終わりというのは停止なんだから、それは副次的なこと、派生的なことで、基本は持続・運動と言ったのではないですか? ベルグソンは時間は「純粋持続」と言ったわけですよね? つまり、始まりもない、終わりもない、というのが持続であり、運動だから。 しかし、カントのいうように始まりもない、終わりもないというのは矛盾になるのではないですか? だったら、宇宙は存在しないはずです。 持続が・運動がずっと続いていたならば、何ものも誕生しなかったはずです。 何ものかが誕生するということは始まりがあるということであり、運動の停止があったということです。 ベルグソンの言っていることは矛盾に落ち込みます。 それとも、宇宙には始まりがなく、変化もなく、無限のかなたからずっと今の姿で存在していたということですか? 変化があるということは変化しない前と変化した後があることであり、持続・運動に矛盾します。 なぜならば、持続が・運動があるということは無差別・一様だということであり、「差異」がないことだからです。 そして変化は「差異」だからです。 だから私はベルグソンに賛成できません。 ベルグソンは「時間と自由・意識に直接に与えられたもの」という本で、時間を空間と区別して、私たちのいう時間は実際は空間なんだといい、時間は純粋持続だと言いましたが、私たちは時間を空間で測っているので、時間と空間は不可分離なのです。 現代の相対論でも、時空と言って一体のものと考えられています。 ベルグソンはその時間から空間を排除するために、純粋持続なんてことを言いだしたのです。 だったら、その純粋持続の時間をどうやって測定したらよいというのか? 時間を測定するには空間が必要なんです。 ベルグソンは私たちの知性は静止しているもの、固定しているものは知ることはできるが、運動しているもの、持続しているものは直観によってしか知ることはできない、という。 そしてその直観について、何も説明しない。 ただ、直感はありますと繰り返すだけ、あたかも小保方晴子さんが「スタッブ細胞はあります」と連呼したように。
お礼
ありがとうございます! とてもいろいろ参考になります。 ただいくつか分からないところがあります。 ご回答者様のおっしゃる 無 = 空虚 = 一様 = 無差別 始まりがない = 時間は無限 は納得できます。 しかし 時間は無限 = 変化がない というのは違和感を覚えます。 無限に変化が続く、という状態も あり得ると思うのですがどうでしょうか。 >> それに、始まるがあるということは原因だけあって、結果がないことになり、因果律に矛盾します。 何を結果とするかは、観測地点で変わるのではないでしょうか?結果は観測者がいて初めて決定され、しかもどの時点を結果とするかも観測者の任意となりませんか? つまり結果があるかないかは観測者次第と思うのですが、どうでしょうか。 >> では、今度は始まりがないとしましょう。 始まりがないということは時間は無限だということですから、今もその無限の過程にあってもいいことになり、何ものも始まらなかったはずです。 始まりは無くとも変化がある、ということはあり得るのではないでしょうか?現にこの世界は変化しています。それは誰の目にも明らかな客観的な事実ですよね? でも、この変化に始まりがあったか、終りがあるのか、については人々が直感的に「あるような気がしている」だけのような気がするんです。 でもそう思うのは、私達生命に寿命があることからくる、勘違いではないかと。 もしも人間の寿命が永遠だったとしたら、永遠に対してしっくり来ると思うんですよ。 でも死ぬから、生まれた時が始まり、死んだら終わり、みたいに考えてしまう。 でも本当は変化しているだけ(万物は流転)で、ずっと続いているということもありえるのではないでしょうか。 始まりや終わりがある」と考えると、 どうしても無限後退が生じてしまいますが 「元々変化し続ける全てがあった、 そしてこれには始まりも終わりもなく永遠である」 と考えると、しっくりきやすいのんです。 しっくりきやすいって、かなりいい加減な結論ですが(苦笑)
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
あの世のことを無いと思えば無い。有ると思えば有る。この世はすべて心で出来ている。心が無ければすべてが無いのと同じ。何も無くても心があれば有るのと同じ。無から何も生じないのではなく、無からも心は生じるのです。そしてその心も空なのです。この考え方は般若心経の「色即是空」「空即是色」の教えです。西洋の唯物史観とは異なるものです。 この宇宙の始まりは天文学で解明されつつあります。ビックバンと言うのが始まりと言われていますが、それは我々の住んでいる宇宙で、別の宇宙が別の場所でも生まれているのです。それらの宇宙の大元が大宇宙に存在していると言うのです。ならばその大宇宙は一つなのかたくさんあるのかとなるとそれは分りません。おそらく大宇宙もいくつもあるのでしょう。この唯物史観からは物事の始まりは有なのです。
お礼
ありがとうございます! 上段では「精神的・主観的」な立場から無を話していて 下段では「物理的・客観的」な立場から無を話していいますよね。 当然わかりますよ。心で感じるので、主観的な話であれば「無いと思えばないしあると思えば有る」。当たり前の話ですよね。 >> 無から何も生じないのではなく、無からも心は生じるのです。 この無は、心の無を言うのか、物理的な無を言うのかイマイチわかりません。おそらく心の無を言ってるのだと思いますが、それだと単なる言い回しの妙ね。 >> この唯物史観からは物事の始まりは有なのです。 これが回答者様の意見ですね。分かりました。 私もそう思います。
やはり そっち方向に行きましたか(笑) まっ 何処から勉強しても 究極まで探れば 神になるので アニメからでも究極まで探究して下さいね・・ じゃバイ菌
お礼
自分何がしたいん? アイデアがないなら答えないでいいんやで。
簡単に説明すると 人間で実験出来ますよ・・・ エネルギーを最大限にする為に 力一杯 力んで下さい・・拳を握り締めて 頭の中でも力を込めて・・・ そうすれば 熱が発生し体温は上がります・・顔等 そのせいで 真っ赤になります・・・ これが 「無の力」です・・・ これの 神版が ビッグバンです・・・神のエネルギーを極限まで延ばし 一点に集中させる事に拠り 熱から発生した 様々な原子・・これを組み合わせたら 宇宙の出来上がり・・・ まっ 簡単にしたので 伝わらなければm( _ _ )m
お礼
かめはめ波は悟空がいなければ出ないです。 悟空は無だとおっしゃるのですか!
お礼
ありがとうございます! >> やはり最初は無ということになるのじゃないかな?と私は思います。 つまり、無から有が生み出される、という立場ですね。 無から有は生み出すことが可能、ということであれば納得できます。 あとはどうやって無から有を生み出せるかの科学の解明を待つだけですね。