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坊さんの修行って意味ある?
宗派によっては 厳しい修行をするところや 逆に 修行が足りないところもある と昨日テレビでやっていました お釈迦様は 荒行に意味がナイト さとった らしいですね 確かに 生きていて辛い時に あの時に比べれば まだ頑張れると言う 基準にはなるかもしれませんが 荒業 修行 自体に意味はあると思いますか?
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その番組で、阿川さんが伝え聞いたエピソードを言ってたじゃないですか。 「知り合いの僧侶が修行で、食うにも困るようなもう倒れこむまで自分を追い込んでみたとき、はいつくばった自分の前に、何の変哲もない草が、華麗なユリの花の横になんの引け目もなく並んで生えている姿に、人間が競い合うエゴや肩書きの虚しさを学んだ」 みたいなことを。 釈迦も、最初は荒行というより単なる世俗を離れた生活を試みたが、あまりの空腹に女性スジャータから牛乳をもらって脱落した経験があったわけです。それは、荒行に意味がないのではなく、やみくもに自分を痛めつけるだけでは効果がないから、しかるべき方法を通して自分を見つめるべきだ、という方向性を見出しただけなのです。 荒行で、「自分が最底辺の生活をするから、他人の苦労がわかる」なんていう薄っぺらいものではありません。「限界の状態に追い込むことで、人間の深層にある本能が研ぎ澄まされて、現世のあらゆる生物に通じる真理を見出す瞬間がくる」というようなシステムを、釈迦の弟子たちが各宗派で生んでいっただけなのです。
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- ways
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体の能力が高まったり、精神力が強くなったりします。人や自然に感謝する心が持てたり、視野が広くなったり、大きな心が持てたり。仏教の教えは、当たり前にしていることを丁寧にやる、ということ。 1日24時間あって、どうせ過ごすのなら、自分を高めたい、という積極的な方が修行します。 ブッダは、極端な断食のような命を落としかねない修行にはあまり意味を見いだせない、と判断しました。人には必要な欲もある、と。ですが、旅をしたりして、自分を磨いてきたんです。
それは勿論、大きな意味があるでしょう。 意義でなく、意味が。 何故なら、自分が何を求めて宗教に身を置き、 自分の中の何を取捨選択するかを自らに問い詰めるとき、 おのずとそれはいらないもの、邪魔となるもの---多くは 欲望や迷いというものを捨て去り、心や思考の盲目を 剋目して(済みません、字が出ません)自分が思う所の 「純粋」や「高み」に至ろうとする、自分について不要な 部分、邪魔な部分を削り落とす作業なのですから。 厳しさは、己と対話する、一種の言語だと思います。 他人や社会の評価を求めて行うものではなくて、 「己」を捨て去るプロセスとして自ら選択し、自らに 課すもの、自分本位の行動なのですから。 修行が荒いかどうか、というより、より自分の生物的な 弱さ、欲求や本能的感情とつぶさに向かい合うための 近道として、その方法を取っている。 そう考えればこれから千年経っても荒行に身を投じる 宗教的スタンスは変わらないものと思います。 でも、あくまでも他人や社会から高い存在だと 思われたいという欲望の延長でしか修行する僧を 観ることが出来ないならば、お釈迦様の言う 「荒行には意味が無い」という言葉も、考え無しに 鵜呑みにしてしまうのではないかと懸念します。 お釈迦様がおっしゃったのは、荒行などやる価値が 無い、という意味ではなくて、荒行が悟りに達する道、 ということではないよ、ということだと思います。 悟りを得るということは、自分は他人とは違う高い存在だと 思いたがる人にとっては単なる超人願望、それを具現化する 手法、などと捉えられがちです。 それ自体が人間の ドロドロした欲望に他ならないということには、気づかない。 あるがままに観よ、という意味も、全て、無為のものなど 存在しないし、存在する・しないということも人の決めた 目前の問題に過ぎない・・・言葉にすればどれもこれも わかったつもりになれますし、判ったように振舞うことも 出来るものです。 でも、現在では修行する僧というものが本来は尊敬を求め 社会の地位や賞賛を求めてのものではないのですから、 自らを捨て去り、その向こうに広がる超越を、永遠を、 自分なりの理解を得て、自分の生かし方と死なせ方を 「覚悟」するための・・・極めて個人的なものだと。 そのように考えればよいと思うのです。 ただ、荒行を完遂することで宗教界でのステータスを 上げて、出世する道になっていることは皮肉な話かも 知れないと思って見ています。 高い地位、というものも我々衆生が価値と認める、 そういう世の中を作り上げてしまったのだし、そこに 身を置かざるを得ないことも、真実を見出そうと する者にとっては避けて通れない、人間の実相だから。 本来の意味からずれていることを自ら知りながら、 ステイタスとしての荒行をこなす、という「覚悟」も あるのだろうと思います。 衆生を救うために、と声高らかに宗教儀式を行う 高そうな袈裟に身を包んだ高僧は、いつの時代も 破帽弊衣の流浪の修行僧を目の敵に致します。 本物を目の前にすれば、偽者は居心地が悪いでしょう。 上から目線で卑しき者と見下し、放逐しようとイライラする。 鵜呑みにしただけの知識の量が、他人を屈服させられる 「悟りへの実力」のように錯覚しているから、薀蓄を 厳かに語ることで相手を否定しようという自らの「虚」に 気づかないまま、悪意をその心に宿す。 世のため人のためにボランティアなどで無償の奉仕を 捧げる者は尊いですが、純粋に自分と世界について 真理を求めて「修行する」という言語を使って思索する、 彼らは肉体派の哲学者だ、と 私は見ています。 無論、全ての荒行に身を投じる僧が、そのことを 理解しているはずだとは思いませんが。 いくらやっても自らの何が煩悩なのか、理解できぬまま やっている者もいるはずだからです。 偉くなれると信じて、老体に冷水を浴びせている 「愚僧」も少なからずいるでしょう。 不動産収益が多い都市圏の大寺の住職の中には、 喜寿近くになっても駐車場の収益で稼ぎながら、 性産業に賃貸するビル用地を物色しながら 孫ほどの若い娘の口移しで般若湯を飲み、 長生きの秘薬だなどと嘯くものもいますよ。 開いた口がふさがらないとんでもないお腐れ様です。 荒行に身を置くだけでも、その姿勢は尊敬できます。 悟りに至るのがどうかというのはあくまで当人の問題。 生臭坊主のテープレコーダーのお経を聞けば、修行に 励むその姿は、やはり綺麗で美しいと感じます。 長々とした文章を読んで意味をつかむのも、大変 ストレスを与えてしまったかも知れません。 小さな荒行と思し召し、お許しください。 それでは、お疲れ様でした。 どうぞご参考までに。
- hekiyu
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西洋では、デカルトの心身二元論的考えが 強いのです。 これによれば、心と肉体は全くの別物です。 肉体は魂の入れ物に過ぎない ということになります。 だから、頭脳、つまり理詰めで徹底的に考え抜く ということになります。 しかし、東洋では心身は別物ではなくて、 一体的なモノであると理解します。 だから、修行をするのです。 修行して肉体を高めれば、同時に精神も高まる と考えるのです。 つまり、意味があるかどうか、というのは 客観的に意味があるか、ということでは ないのです。 意味がある、という思想なのです。
- disciple777
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精神力を鍛えるとか、尊敬を得るという意味合いで発達したものでしょうね。 本来宗教は人の悩みに回答を与えるのが使命です。 継続的に行うには本人自体に強い精神力と、人を救いうる智恵が必要です。 体を鍛えたり苦難に耐えることで、煩悩から離れて視野が広くなる(千里眼や他心通を得る場合があり、それを目的にしている宗教もあります)、忍耐力が身に付くといったことがありますが、最後は知恵の勝負になります。 どこまで人の安寧を願えるか、諸問題を考えることができるか、反省できるか、正しい教えを広げることができるか、ということが大切だと思います。 身体的修行は必要ですが、人民救済まで至らない宗教は使命を果たしていないと思います。
- urigadai2013
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仏教の僧侶は社会に「寄生」して、みずからは労働せず、労働するものから、喜捨を受けて贅沢な暮らしをしているんだから、せめてテレビで、こんな厳しい修行をしているんですよ、と宣伝しないわけには行かない。 ちょうど江戸時代の武士が、武士道とかで理論武装して、みずからを律し、それで庶民から、農民から税を無理やり徴収して食っていたのと同じ。 労働をせず、社会の生産力の発展にぜんぜん貢献せずに、「寄生」しているだけの人間は、そうやってみずからに厳しい訓練をしているんですよ、と宣伝し、見せなかったら、何のために、高いお布施を取ったり、高い戒名料を取ったりしているのか、その説明がつかない。 ふだんは、酒も飲むし、女も抱くし、クラブ通いもするし、高級車を乗り回したりするし、ゴルフもやるし、ただの葬祭業者にしか過ぎないのに、なまじ鎌倉時代に高僧が輩出して、日本仏教に対する尊敬を一般の人々が抱いていることを良いことに、変な僧侶に対する幻想を持っていて、死後の世界の安心をもたらしてくれる呪術者のように思いなして、高いお金を払っている。 そうして今の僧侶は贅沢三昧、一般の人々の通念に乗っかって、儲けている。 私も日本テレビの番組を見て、笑っちゃった。 日本テレビともあろうものが、僧侶の片棒を担ぐなんて、とんでもないテレビ局だと思ったね。 この間、私の母親が死んだときに戒名料や念仏料をめぐって、さんざん喧嘩したよ。 母親が生前戒名をもらって、すでに戒名料を支払っているのに、住職が代替わりしたので、生前の戒名料は無効です、改めて戒名料をいただきます、と言われた。 頭に来たね。 そのくせ、戒名料はどのくらい支払えばいいですか、と聞いたら、お心持で結構です、というから50万円を包んで出したら、後でカンカンになって怒って、それではとうてい足りません、と言ってきた。 すったもんだで交渉して、結局、100万円を取られた。 坊主丸儲け、というけれど、何も労働したわけでもなく、しがない庶民から金を巻き上げて、それで贅沢をしている奴らだと思って、怒りが止まらなかった。 その上、初7日、49日、納骨式、一周忌と、何度もお経をあげて、その度に20万、30万とお経料を取られた。 まるでぶったくりだった。 ようするに、私たちの仏教や僧侶に対する変な幻想があるから、みんな渋々金を出している、そしてその通念に乗っかって、仏教界や僧侶が贅沢な生活をしているというわけだ。 修行しています、というのはそのための宣伝だよ。 ブッダがどうこうというような話ではない。
- MAROU2678
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私も若い頃は仏門修行ではないですが武道修行を してましたが、苦行する人は心にやましい所が 有ってそれを浄化したい為におこなう人が 多いでしょうね。まあ真面目な人ですが もう1つはこれだけ苦行すれば将来良いことが 自分の身に起こるのではないかとか、そういう 理由でやる人もいるでしょうし、本当に純粋に やれる人は少ないでしょう、大抵は下心が 有ると思いますが。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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免許皆伝のための武者修行だよ。 そんな彼らを面白がって、金を与える者もいる。 私の代わりに頑張ってください。 そんな金だ。 ところが修行僧は、自らのみが到達する。 身代わりでなく自らのみが頑張ったんだ。 そして君達応援団は無益な散財に気がつくだろう。 君は彼らを役者に見立て、自らには何ら実りのない舞台を傍観するだけだ。 自から悟ろうとするなら、死の戒めは避けて通れない。 君達の頑張ってくださいと言う金銭的契約を伴った激励に彼らは死ぬ。 そして自ら死ななければならないと、君自身も失望するのだ。 そのように、彼らの永遠の屍が君達を絶望させつずける。 そんな舞台に踊る人形が、釈迦でありイエスだ。
- titelist1
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修行と荒行は別物です。少なくとも若い時に修行としてお経を読まないと覚えられません。僧侶はまずはお経を上手く読むのが仕事です。学校の勉強でも覚えたことがその時に理解できなくても、大人になれば理解できることがあります。若い頃の修行は僧侶に限らす必要なものです。 私は荒行には批判的ですが、1000日行を行なう僧侶のテレビで見たのですが、心を打たれる思いでした。その精神力と体力には敬服する。
お礼
確かに そういう行で感動するものがありますよね やってる人の心がけ によるものなのでしょうか そうかもしれません回答ありがとうございました
- k-a-r-a-p-a-n-a
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マラソンはスタートしたところから ぐるりと回ってまたスタート地点に戻ります おなじところに戻って何か意味があるのという 質問とおなじです それは順位に関係なく走った人だけの勝利で まわりで応援している人々には関係のないことです 荒行 修行を行ってからもう一度 たとえば私には意味がなかったのに なぜこんなことをやるのかというような質問されると もっとおもしろい回答がくると思います
- marbleshit
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人類益という観点からは全く以って無意味な所業です。
お礼
この回答が 一番真実に近いものだと私は思いました しかし 荒行に反対してか ものの言い方が 少し尊大だからかはわかりませんが どういう風に結構マイナスがついているのが意外でした 結局どんな答えであれ 全てに支持されるということもなく というのは悲しいですね 何か寂しい気持ちになりました 回答ありがとうございました