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平安時代の浜辺にある将門公の首塚の謎とは?
- 東京千代田区にある平将門公の首塚の話が最近またテレビなどで取り上げられました。平安中期になっても、京都王朝に屈しない関東王権の気概が残っており、将門の死の後も、関東の民衆はそれを支持していた。それが将門の首が京都より関東に飛んで帰ったという伝説となったなどと考えました。
- 東京の千代田区は浜辺に近い場所であり、平安時代には特別な意味を持っていた可能性があります。江戸城が存在しない時代であり、東京湾も埋め立てられていなかったため、その一帯は海の中や浅瀬だったと考えられます。なぜ伝説の場所がここになったのか、後世の作り話や謎の存在が関与している可能性もあります。
- 太田道潅が江戸城を建設する前に、千代田区の地には古代の城跡が残っていたのかもしれません。関東王権の城としての役割を果たしていたのかもしれません。また、東京自体が平安時代から特別な場所であり、それが後世の伝説につながった可能性も考えられます。いずれにせよ、千代田区に首塚がある謎は興味深いものです。
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将門とは直接関係が無い場所と言えば言えます。 ご指摘のように日比谷入江の海岸地帯でした。 現在首塚がある場所は武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれる寒村でした。 ここに天慶3年(940年)に将門の首を祀った津久戸明神として創建されたのが始まりです。 この地には古くから神田明神がありました。津久戸明神はこの神田明神の敷地内に建てられました。 神田というのは元々は伊勢神宮の荘園で伊勢神宮の田すなわち神田からきた地名です。 津久戸明神の神社は、太田道灌によって移転さぜられその後転々として第二次世界大戦後に現在地の地下鉄九段下駅近くに移り、現在に至っています。(現築土神社) 神田明神も江戸城拡張にともない現在の場所に移されてしまいました。 首塚の場所は幕府の重臣だった酒井家の屋敷の中に取り込まれ、江戸の町民とは余り縁がありませんでした。 江戸っ子と将門さんとのつながりは神田明神で充分でした。 つまり、江戸幕府の権威づけとは無関係です。 首塚が現在のような姿になった切っ掛けは関東大震災です。 関東大震災の後で、ここに大蔵省の建物を建てようとした際に事故が多発して将門怨霊伝説が復活しました。 第二次世界大戦後にGHQが区画整理をしようとして事故が多発して伝説を補強しました 鎌倉時代にこの地域の飢饉が将門の怨霊によるものとされて供養されたことから怨霊伝説が始まりました。 このときに板碑を建てたのが塚の始まりです。 この板碑は関東大震災で破損してしまいました。 現在のはその後に作られたものです。 この都市伝説がいまでも引き継がれています。 将門の首が戻ってきたことに因んで、左遷サラリーマンがお詣りしてカエルの置物を奉納すると無事に東京へ戻ってこれるという伝説もあり、今でもカエルの置物が沢山置いてあります。 飛んだ首が戻ってくるということですかネ。 直ぐ近くを本行とする三菱東京UFJ銀行には平将門という名義の口座があります。 ボランティアによる首塚の保存維持費用が入金されています。 首塚にお詣りしたら、成田山新勝寺へお参りしてはいけないことになっています。 成田山新勝寺は将門調伏を祈願したお寺です。 神田明神も元々の祭神は平将門でした。 明治になって朝廷に逆らった人物を祭神とするのは拙いということで、大黒様やえびす様をまつりました。 現在は主祭神として元に戻していますが、商売繁盛のえびす様もあることから営業成績の向上を願うサラリーマンのお詣りが盛んです。 松下幸之助が関東への進出に当たり奉納した神楽殿が今でもあります。 そもそも津久戸明神が建てられたときに祀ったとされる首は誰がどこから持ってきたのか、ということです。 なんせ、神社自称の故事来歴ですからその真偽は定かではありません。 将門伝説は関東の各地にありますが、皇居前の首塚もよってたかって権威づけられたようですね。 将門さんもなんのコッチャイと思っているかも知れません。
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- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
あの場所は海では無く 元々古墳があったらしい で 将門の首塚は何度も移動されかけました(再開発のため) しかし工事のたびに作業員が怪我をしたり不審死が相次いだため首塚はそのまま 今の位置に落ち着いたということです
お礼
お礼が遅れてすみません。 ありがとうございました。
- chiha2525
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元は古墳だったのか。 記憶によれば、いつだったか忘れたけど、途中で場所がわからなくなったので適当な場所に移されているはず。古墳の後か先かは分かりませんが。 まぁもともと首などないのだから、どこでも良いのです。
お礼
お礼が遅れてすみません。 ありがとうございました。
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
元は「古墳」だったようです。ですから将門の時代よりもはるか前から存在していたものと思われます。 その塚がいつの頃からか将門伝説と結び付けられて「首塚」と言われるようになったのでしょう。
お礼
お礼が遅れてすみません。 ありがとうございました。
お礼
詳しい説明ありがとうございました。