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日本人の心のふるさとは平安時代なのか?
現在折々に触れる伝統行事や事物で、一番感じる時代というのは何時代なのでしょうか?たとえば、端午の節句のよろい飾りなどは、あれはやはり平安時代の大鎧のような大げさなものが多くないでしょうか。戦国江戸の戦闘機能的なやつは、実はあまりなかったりしないでしょうか?百人一首にしても、やはり平安を懐かしむかのような装いです。伝統芸能や祭事も、やはり、江戸近世の装いというよりは、古代中世の趣を大事にしているように思われます。 こう考えると、すでに江戸時代というのは、われわれの時代と同じく、平安の昔を模範においていた、みやびの様式は今(江戸時代)でなく、7百年か前の平安朝であったということにならないでしょうか? やはり、事物装束様式すべて「絵」になる要素があります。 しかし、なぜ古代はみやびな装いや振る舞いがあったのでしょうか。普通古代より近世のほうがより豪勢になる気がするのですが(欧州王朝など) そういうわけで、よりみやびなものを感じる古代、特に平安朝辺りに、日本人は知らず知らずdnaの発祥を感じているのでしょうか、あるいは製品化伝統かされているのでしょうか?
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奈良時代の大宝律令の頃から宮中で行われるようになった端午の節句や節分・正月行事などの形式が、定まったのが平安時代頃だと思います。 それは、宮中の様々な行事の幹事のような役割を、公家が持ちまわりで行っていて、次に役が回って来る時に、息子や親戚が失敗しないように、自分の経験を日記に書き残すようになったからだと言われています。 そんな宮中の行事を参考に、明治の始めに、国民の祝日が定められたので、様々な行事が平安時代の面影を残しているのだと思います。 衣食住の、食と住は、室町時代ではないでしょうか? 床の間や書院、日本庭園のわび・さび、そして一日三食も室町からです。 衣は、明治に洋装になるのは除外して、着物で考えると、やはり江戸時代でしょうね。 様々な伝統模様や、独身女性の振袖なんかも生まれていますし・・・。
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- IXTYS
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● 平安朝辺りに、日本人は知らず知らずdnaの発祥を感じているのでしょうか。 『ナラ』という言葉はハングルでは『国』を意味し、百済(くだら)は『クンナラ』(意味は偉大な国)という古代の朝鮮語の訛ったものであると聞いたことがあります。 710年に平城京を都にした統一国家が百年もしないうちに都とを今の京都に移したのには大きな理由があったと思われます。 東大寺に大仏を建立しています。 全身金箔を貼り付けたこの大仏ですが、当時どれほどの水銀公害を起し、どれほどの人が亡くなったことでしょう。 本来なら現在の奈良が日本国の都であるべきですが、水銀公害によって荒れ廃れ、平安京への遷都となったもの。 ですから、日本国が平安京から再出発したと考えるべきでしょう。 事実、9世紀の始めに派遣された遣唐使が持ち帰った情報によって、平安京が築かれています。 朝廷の宮中行事もこの遣唐使の情報がベースとなっています。 日本が国家として宋(中国)と貿易を始めたのが平清盛の統治した12世紀の末。 そして14世紀の後半に入り、足利義満が室町幕府の権威を確立し、勘合貿易によって、明から大量の銅銭を輸入し、貨幣経済を確立します。 義満が明の使者を迎えた折、日本国が如何に伝統に則った立派な国家であることを示す必要がありました。 そのため、宮中にあった行事を集大成し、国家行事に格上げしたものです。 その多くは9世紀に遣唐使が持ち帰った仏教行事が発端となっています。 正式の国家行事として権威づけられたのは室町時代であっても、その際遡って平安時代から綿々と続いて来たようにしたものが多かったと思われます。 越天楽は宮中に長く伝わる雅楽ですが、これは遣唐使空海が持ち帰ったグレゴリオ聖歌です。 日本音階には越天楽にあるような伸びやかな長調の音階はありません。 平安京に人が大量に集まり、都としての繁栄を示し始めたのは銅銭が輸入され、商工業が盛んになった頃からです。
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水銀公害ですか?初耳です。文明と言うのは政治に大きな影響をお呼びしますね。特に人災あるいは天災など。平安に人工的にでも権威を持たせたいと言う歴史もあったのだと知りました。
- googahaku
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平安時代の文化は、特権階級の文化、いわゆる「貴族文化」で、庶民にはなじみの薄いものであったようです。衣装などの雅も然りです。但し、それまでの中国や朝鮮から習う文化から、日本独自のもを生み出してきた点では、日本文化の発祥といえそうです。 歴史とは連続的なものではありますが、江戸時代まで下ると、支配階級の「武士社会」よりも商人・町人 にまでいたる 庶民文化 が開花し、我々庶民には親しみがもてます。 いよいよ日本の独自色も強まってきました。国全体の文化程度は、矢張り平安時代よりは相当高まってでしょう。歌舞伎・芝居・絵画 等々。 何にもまして、世界に冠たる 平和国家 だったことが嬉しい。 私は、江戸時代が、日本が世界に誇れる文化を築いた時代と思っています。
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質量とも充実したのが江戸期以降であったと思います。そして、行事とか祭事のようなものは、やはり、より古いところに起源と伝統を放っていると言うことなのかと思いました。
- hakusyon1
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個人的な見解ですが。。。 平安時代に突如としてあらわれたものが現代まで残っていて、それが日本人の精神性に影響しているというよりも、太古から培ってきたもののように感じられてなりません。 私自身の精神的な部分では、東山文化あたりに端を発する「侘び・寂び」や化政文化あたりの「町人文化」の方に懐かしさを感じます。東山文化あたりに端を発するもので、現在の日本人の伝統文化になっているものも多いですよね?一概に、こころの故郷やDNA云々が平安だというわけでもないような気もします。 平安時代の行事が現在も残っている理由としては、国風文化の影響が過分にあるかとおもいます。国風文化をどのように捉えるかによるかとは思いますが、私は太古から日本独自で培ってきたものと大陸からやってきたものがふるいにかけられて、日本独特のもの(大陸のものが捨てられたというのではなく、大陸的なものも残しつつ)が生まれ、それが日本人の正しい風習のような形で残ったということだと思います。そういう意味では、平安時代のものが残っていて当然かなぁと思います。 >すでに江戸時代というのは、われわれの時代と同じく、平安の昔を模においていた、みやびの様式は今(江戸時代)でなく、7百年か前の平安朝であったということにならないでしょうか? 江戸時代の何と比べられたのかはわかりませんが、内裏・宮中であれば、平安期はむろんのことそれ以前の朝廷の流れをくむので、当然かとお思いますが。。。現在も皇室の行事などもそうではないでしょうか? >なぜ古代はみやびな装いや振る舞いがあったのでしょうか。普通古代より近世のほうがより豪勢になる気がするのですが(欧州王朝など) 平安に雅な装いなどがあったのは、大陸の影響もあるだろうし、それまでの文化が大成したというのもあるかと思われます。何をもって古代の方が豪勢なのかが分かりませんが、たとえば桃山文化などは充分豪勢ではないでしょうか?
お礼
国風文化は大きいんだと思います。結局洋風と言うものは根付きません。流行で終わってしまいます。 ご指摘のように、室町とかあるいはその前後もまた、伝統の記憶になっていると言うことはありますね。
お礼
ご指摘のように、さまざまな時代から継承している文化があるものだと思いました。そしてやはり、祭事とか強いのが平安なのかなと言う気がしました。