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節句・平安時代の11月11日について
- 平安時代において11月11日を祭る習慣があったかどうかについて調査しています。
- 江戸時代には5つの節句が定められましたが、その中に11月11日の節句はなかったようです。
- 日本以外の~時代・王朝の中国では、11月11日を祭る習慣があるかどうかも調査しています。
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同じような質問が下記のように過去にあって、「ない」と言うのがベストアンサーでした。 http://okwave.jp/qa/q496949.html 11月11日が節句でない理由には少なくとも二つ考えられます。 1。 節句はもともと仕事を休むためにあったので、収穫が終わると、その必要が無い、と言う理由があったと言うことも考えられます。「節句働き」というのは、仕事をしない怠け者に限って、というむすびつきからも、こういった可能性はあるのではないかと思います。 2。 中国のような十進数の文化では、「十一」と言う数字は、「番外」というか「余分」と考えられたのではないか、と言うことです。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 11月11日は、中国でも日本でも祝日とはされていません。 長月(九月)九日は重陽(ちょうよう)の日で菊の節句とも呼ばれる五節句の一つであったことは、すでに、あなたの述べる通り祝日でした。 そして、重陽とは中国の陰陽思想によると「九」は陽の数字で、一桁の数字では一番重いといわれ、九と九の重い数字が重なり、さらには、陽と陽とが重なることから、重陽という吉日とされた。 従って、中国の陰陽思想では、「10」は、単なる「1」と「0」が組み合わされたもので、逆に、「1」という「一番軽い数字」と「0」という「無」の組み合わせと考えられ、同じく「11」は「1」と「1」が組み合わされた「弱」の数との考えから、10月以降は同じ数字が重なっても特に祝日扱いはされませんでした。 江戸時代の「重陽の日」には、千代田城では、表では総登城が行われ、公方さまへ祝辞を述べ、各種の祝いの品々が献上された。 一通りの祝辞などが終わると、公方さまは大奥の御小座敷の間に入られ、御台所さまと長寿を願う黄菊の花びらを浮かべた菊酒を楽しまれました。 江戸時代、江戸城とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。 一方、大奥では御台所さまから御目見得以上のお女中には酒と料理の詰め合わせ、御目見得以下の千人ともいわれるお女中には丸餅が下されました。 宮中でも「重陽の日」には、公卿たちが集まって「菊酒」などを呑んで菊談義に華を咲かせましたが、10月以降の祝日はありませんでした。 まあ、しいて言えば9月以降の宮中や千代田城でも行われた行事としては、 ★「玄猪」(げんちょ)・・・10月の初亥の日に、 宮中では天皇から姫君に、将軍家でも公方さまより姫君に「玄猪餅」が配られ、姫君たちは夜五ツ半(亥の刻・午後10時)頃食べる習慣がありました。 これは、猪の多産にあやかって「多産」や「子孫繁栄」を願う行事でした。 ★11月の冬至の日・・・千代田城の大奥では、御目見得以上には御台所さまより「刺身」や「うどん」、「唐ナスの揚げ物」などが下賜され、御目見得以下には、御年寄衆が共同で購入した同じ物が下されました。 これは、昼が一番短く夜が長くなることから、栄養をつけてもらう意味合いがありました。 宮中では、平安時代頃から「朔旦冬至」(さくたんとうじ)という祝宴を催していたようです。 なお、冬至にカホチャを食べる風習は江戸時代後期から始まったと言われています。 カボチャは夏野菜ですが日持ちも良く、冬に野菜の採取ができなくなった時の栄養補給として考え出された。 と言う説と、 南瓜(なんきん)で「ん」が2つつく運盛りからという理由。 陰陽思想では冬は陰、夏は陽とされるため、陰の極まる日に陽の季節のものを食べて陽の気を補なうということですね。また、カボチャは南瓜と書くように南方から来た野菜であることや、少し赤味がかった色をしているからとする説もあります。 これも陰陽思想ですが、色や季節や方位を陰陽にわけると、玄(黒)—冬—北—陰、朱(赤)—夏—南—陽となります。 したがって、南方から来た夏野菜で赤味がかったカボチャは陽の気を補なうのに最適というわけです。 さらに、「ゆず湯」については、「冬至」は「湯治」通じる。「ゆず」は「融通」に通じる、と言うダジャレから始まったとされています。
お礼
回答、ありがとうございます。
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