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流れとして、哲学は懐疑論の方向へ向かっていますか?
こんにちは。 今日では至る所に「相対化」という文字があふれて、数学や哲学でもで「不完全性」であるとか「翻訳の不確定性」「理論の不確定性」などが言われています。 大きな流れとして哲学は、懐疑論の方向へ向かっているのでしょうか?
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私の感じている世界は、私が心の中に作り出した世界です。決して、心の外にある世界を直接に感じている訳ではありません。私の心の外に、実際に世界が広がっているか否か、私には知る術はありません。 例えば、光が直接脳内や心の中に差し込むことはありません。光が網膜を刺激し、その刺激が神経線維上をインパルスとして脳まで伝わり、脳内の一部の粒子が光として動き、その動きと言う刺激を感受性である私が光と感じているのです。 そうなると、私にとって、疑い得ない自明なことは一体何でしょうか。地球が本当にあるのでしょうか。私の妻や子は本当に居るのでしょうか。私の手は本当にあるのでしょうか。この様に疑い得るものを、本当に自明であるか否か疑うことを、方法的懐疑と言います。 その結果、デカルトは、疑うことの出来ない自明のことを1つだけ発見しました。「我思う故に我あり。」です。疑っている自分の存在だけは疑い得ないことに気が付きました。それ以外のことは、本当なのかどうなのか人間には分からないのです。 この様に、分からないことを分らないとすることが、「無知の知」です。しかし、自明のことしか信じないのであれば、それまでです。私の心は1+1=2に制約されています。心の中では、ものは消えたり生じたりします。従って、1+1=1でも、1+1=3でも構いません。しかし、物質は無から生じたり、消え去ったりすることはありません。従って、外界は1+1=2です。私の心が1+1=2であるのは、私の心の中の世界が外界に似せて作られているからです。外界に1+1=3を適用すると、誤った行動となり失敗します。私の心が1+1=2に制約されていること自体、外界の存在を示唆しています。私は外界の存在を信じ、それを支配する法則を研究します。 「無知の知」とは、方法的懐疑の過程を経ず、物事を盲目的に信じることを戒める言葉でもあります。 質問者さん、この様に、哲学とはものごとが本当に自明であるのか検証することから始まります。これを「方法的懐疑」と言います。懐疑論は哲学の始まりと言えるでしょう。 詳細は http://www42.tok2.com/home/catbird/mutinoti.html を参照下さい。
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- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆今日では至る所に「相対化」という文字があふれて… ◇「相対化」は時代の流れでしょうね~。 かつてのキリスト教のような絶対的な価値観が失われてしまいましたから、 あらゆるものは「相対的」にならざるを得ないでしょうね。 だからと言って、哲学などでいう「絶対」という考え方がまったく失われたとは思わないですけれどもね。 しかし、絶対や無限という概念は、相対や有限の否定としてしか、我々はとらえることができない。 人間という存在の限界ですね。 そして、おそらく、絶対や無限に至るためには、我々には超越や跳躍・JUMPが必要なんでしょうね。 これをできるかどうかはわかりませんけれども…。 ☆数学や哲学でもで「不完全性」であるとか… ◇何でもかんでも「不完全」というわけではないですよ。 数学でいうならば、整数論を含まないユークリッド幾何学の体系などは「完全」であることが知られている。 例えば、 ~~~~~~ 不完全性定理は「『自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾(ω無矛盾)であれば』~」という形の定理である。したがって、自然数論を含まない公理系や、帰納的に記述できない公理系が完全であっても、不完全性定理とは矛盾しない。 真の算術やペアノ算術の無矛盾完全拡大などは完全であるが、帰納的に記述できない。 プレスバーガー算術は完全である。プレスバーガー算術は加法しか含まない公理系であり、ゲーデル数などのテクニックを扱えない。そのため、不完全性定理は適用できない。また、実閉体の理論やユークリッド幾何学も完全であり、(直感に反して)算術を含まないため、不完全性定理は適用できない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86 ~~~~~~ それに、 ゲーデルの不完全性定理の言わんとしていることは、 「それが正しいかどうかわからない命題がある」 ということにすぎない。 この命題は取るに足りないものかもしれないし(^^ゞ ですから、 『何でもかんでもこの「不完全性定理」を引き合いに出すのは、ちょっとどうかな~』 と、私などは常日頃思っております。 量子力学の不確定原理もしかりですね~。 ☆大きな流れとして哲学は、懐疑論の方向へ向かっているのでしょうか? ◇懐疑論というよりも、 「理性や理性が司る論理などには限界があり、何から何まで人間がわかる、なんてのは間違いだ、 こうした考えは人間の思い上がりだ、 という方向ではないですかね。 この行き着く先は最終的には不可知論になると思いますけれども、 不可知の部分はやらないで、知る事のできる部分だけをやればよい、 という立場がありますかね。
- kanto-i
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もう一つを落としてましたね。 >或る一つの枠組みではどうしても証明できない事柄があるのであれば、経験的実験によって確かめる以外の方法があるでしょうか…? 枠組みを超えてしまったらいかがでしょうか? 法に触れなければ、いいんじゃないでしょうか。 経験的実験は、よい方法だと思いますが 実践が一番確実だと私は思います。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
No.4です。 補足請求、ありがとうございます。 ちなみに補足請求のみでしたら、連絡が来ませんから見落とす所でした。 >ますます哲学は自然科学に後れを取りませんか? なぜ、そのように導き出されるのでしょうか? それを明らかにして行くと、誰しも自ずと答えにたどり着くと思います。 自然科学(しぜんかがく、英語:natural science)とは、 自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問[1]。 wikiより だそうです。 自然科学も、『鵜呑みする「信じる」』か『疑ってかかる「信じない」』の 二者択一と言う極論だけに走らないで「確かめる」と言うことをやっているから法則性が明らかになります。 数学は、数字や記号に置き換えているので法則性の検証をやりやすくした形にしています。 計算で確かめています。 物理は、法則性を確かめるために出来る限り実験をします。 科学は基本的に確かめることで、再現性が成り立っているから 法則性があると言うことで学問として成立すると思います。 自然科学も再現性があるから、法則を明らかにできます。 私が考えるのは、人間も基本的に自然としての生き物ですから 内部の働きである「考え」や「反応」、その先にある行動も法則性があります。 哲学は、明らかにして確かめて行くことで、次のステップである選択が 自分にとってよりよいものを選べるという事に繋げて行けます。 そこで、積み重ねていくという事象になり、人生と言うものを作り上げて行くと思います。 最近見つけたのですが http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/ronri/ こんなのがあります。 分かりやすいので、使ってみて確かめる事に繋げやすいかなと思います。 外側の事象に対してが主ですが、内部に対しての事は 番組として作れるほど人類が成長していないのかもしれません。 根底は同じですけどね。 質問者様の、後れを取ると言う比較が私にはよく分かりませんので よろしければ、そこをお聞かせ願えたらと思います。
- kanto-i
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哲学は、『鵜呑みする「信じる」』か『疑ってかかる「信じない」』の 二者択一と言う極論だけに走らないために「確かめる」と言うことを 大昔から続けています。 不完全性は、それによって証明されたに過ぎません。 逆を言えば、、不完全だからこそ確認が必要だということの裏付けだと言うことです。 つまり、哲学としての哲学的批判(自分への問い)は、必要条件だと言うことになります。 古典哲学と言われる時代から、延々とやっていますし それがなければ哲学は、それ自体不完全になります。 そしてそれは、懐疑論ではありませんね。 確認をするのは、懐疑が生じないための必然的行為ですから。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 すべての思想や哲学は 《うたがい あるいは おどろき》から始めています。 そのあとの認識は 人間にあってはこれまたすべて《相対的な》ものです。《不完全》です。 《これこれについては 分かるか分からないかが人間には分からない》というナゾがあると想定されるからです。 《翻訳》も誤解からまぬかれません。(しかもその誤解が あらたな思想へとみちびくこともあるかと思います)。 《理論》は つねに仮説です。もともと世界認識について完全性をもとめることは無理です。ものごとの因果関係から自由であるわけには人間は行かないからです。因果関係の輪をまぬかれないということは 生きることも・考えることもすべて《時間的》であるということです。時間が経てば・そして情況が変われば またあたらしい・より良い内容の考えが生まれます。 《確実》なのも 未知であったことが分かるようになるまでのあいだだけです。 われわれは 試行錯誤の過程をたどるのだという前提で そのつど・その時代ごとに確実な内容についてひとまづ共同の主観(コモンセンス)としてこれを用いつつ 歴史をすすみます。 なお《確定》は 仮説としてでも・時代ごとの不完全なものとしてでも 理論としてそれなりに確定します。(相い対立する理論が並立する場合もあります)。 《懐疑論》は 結論として懐疑論に落ち入るというのなら それは阿呆です。思考停止したというに過ぎません。
- 雪中庵(@psytex)
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物理において、全ての存在性が量子(超弦)に還元され、 その量子が、時間軸(記憶=自我仮説)と空間軸(予測 =空間仮説)の相補分化の等距離点=相殺として得られ る事により、物理学とは現象表面的に派生した存在性を 無へ還元するものとなったように、哲学もまた、神や善 悪、正義といった外的権威を解体して、無へと還元する ものなのだ。 「懐疑」ではなく、何より確かに思えた存在そのものが 幻想(無だと分からない事が有)だったのだ。
補足
ありがとうございます。 論点がずれますが、だとすれば、ますます哲学は自然科学に後れを取りませんか? 或る一つの枠組みではどうしても証明できない事柄があるのであれば、経験的実験によって確かめる以外の方法があるでしょうか…?