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ハプスブルク家の埋葬方法
こんにちは。 ハプスブルク家の人々は代々、その遺体は皇帝納骨所へ、内臓はシュテファン大聖堂へ、そして心臓はアウグスティーナー教会へ埋葬(保管?)されてきたようですが、その理由はなんなのでしょうか。 大雑把な質問ですが、宜しくお願いいたします。
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こんばんは。 これは、分割埋葬といって、古代エジプトからある方法です。ミイラを作るときも、内臓は、カノプス壺というヒト形の臓器収蔵器に納められました。これがヨーロッパで広まり、17世紀にもっとも盛んになります。 理由はいくつかありますが、まず現実的な理由として、遺体保存の技術がなかった時代に、領主や君主が死んだあと、埋葬までに時間がかかるとき、傷みの速い内臓を先に埋葬する必要があったということがあります。特に、故郷から遠い地で死亡した場合などです。例えば、フリートリッヒ3世は、1493年にリンツで死亡し、丸1日リンツ城で遺体が公開され、それからウィーンのシュテファン大寺院に移送されましたが、心臓と内臓はその前にリンツに埋葬されました。 宗教的な意味としては、まず古代に、人の魂と性質は心臓に宿っているという考え方がありました。中世ヨーロッパでは、キリスト教の儀式の一環としてメモリアという死者追悼があり、これは、死は人生の終わりではなく、最後の審判の日に、キリストともに復活するという考えに基づきます。1311年に、フランスのリヨンに近い都市ヴィエンヌで行われたキリスト教の公会議で、魂は心臓だけではなく、体全体に宿るものという決定がなされたにもかかわらず、宗教的、政治的儀式としてさらに発展、中世後期から近代にかけて、特に位の高い人物の場合に行われるようになります。埋葬地の選択は、象徴的な行為であり、複数回の埋葬によって、複数の宗教機関との結びつきを証明し、そのそれぞれに魂の救済を請うことができました。 このような埋葬方法は、ドイツやフランスでも行われましたが、ウィーンのハプスブルク王宮では、フェルディナント4世(1654年没)が、1878年まで続く分割埋葬の伝統を築き、心臓はアウグスティーナー教会のロレット礼拝堂へ埋蔵されるようになります。それ以前は、心臓は遺体とともに同じ棺に納められ、シュテファン大聖堂に埋葬されていましたが、フェルディナント4世が生前、聖母マリアを非常に信仰しており、遺言として、心臓をマリアの足元であるアウグスティーナー教会のロレット礼拝堂に埋葬するように命じました。1754年成立の王宮の法律で、統治者の遺体は、ウィーンの三つの教会に分割埋葬することが定められました。それにより、君主とその近親者の遺体はカプツィーナー納骨堂へ、心臓はアウグスティーナー教会のロレット礼拝堂へ、内臓はシュテファン大聖堂のカタコンベへ埋葬されるようになりました。この方法で埋葬されたのは、フランツ・カール大公(1878年没)が最後です。なお、カプツィーナー納骨堂にも心臓が収められていますが、これは、そこに埋葬されたハプスブルク家の女性のものです。 これ以降にも、分割埋葬された例はありますが、遺体と心臓のみで、内臓は取り出されませんでした。1989年に、ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ(オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后)の遺体が、カプツィーナー納骨堂に、心臓がアウグスティーナー教会のロレット礼拝堂に、2010年にレギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン(オーストリア元皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの妻)の遺体がカプツィーナー納骨堂に、心臓がドイツのヘルデンブルク要塞に、2011年にオットー・フォン・ハプスブルクの遺体がカプツィーナー納骨堂に、心臓がハンガリー・パノーンハルマのベネディクト修道院にそれぞれ埋葬されています。 以上、御参考になれば幸いです。
お礼
お礼が遅れまして申し訳ございません。 丁寧なご説明、感謝いたします。 知らないことばかりで楽しく読ませていただきました。 勉強になりました、ありがとうございました。