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教会長が信者の遺骨を飲み込む?
このサイトで天理教の名前を出すのはよした方がいいと聞かされたので心配なのですが、天理教の教会長が信者の遺骨を納骨する前にその遺骨の欠片を飲み込んだと聞いて思わず言葉が出なくなり引きました。 しかし、それは遺族と教会長の問題なので関わる気は有りません。 しかし、その後自分の家族の遺骨を教会に預けていたのですがその遺骨も自分達遺族には無断で教会長が遺骨の欠片を飲み込んだからと事後承諾という形で聞かされました。 遺族に無断で遺骨の欠片を飲み込んだと聞いて気持ち悪いのと教会長に対する怒りで遺族全員怒りましたが当の教会長本人は何が悪い? 自分は当然の事をしたまでだとすました顔で返事を返して来ました。 事後承諾という形で教会長から遺骨の欠片を飲み込んだと聞かされただけで証拠は有りませんが遺族としては教会長が許せません。 こんな事なら遺骨を教会に預けなければよかったと後悔しています。 天理教には信者の遺骨の欠片を教会関係者が飲み込むという儀式や習慣があるのでしょうか? こういう場合他の人ならどうしますか? 後、このサイトで天理教の名前を出さない方がいいと言われましたが何か問題が有るんですか? 問題が有るなら理由が分かった時には遅いですが理由が分かり次第すぐに質問を締め切りアカウントを消したいのでお願いします。
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仏教徒です。「遺骨を飲み込む」は地方の習慣です。特に四国地方に多く残る習慣です。古来は死者の体の五体より少しずつ肉を採り、これを49個に分けて親族が食した。という風習から来ている習慣です。起源は飢えたライオンのために己の肉を分け与えたという釈迦の説法に起源しており、現在は火葬にするため一部のお骨を粉砕しこれを親族に分け与えます。(本来は飲みます)故人と親族との絆を忘れないためです。あくまでもこの行事は地方色が濃く、行わない地域の方が多いです。天理教では人間の肉体は親神から借りたもので、心だけが人間所有のものとして、親神の心を知ればどのような境遇でも心の持ち方一つで、陽気ぐらしが出来ると主張しています。しかし、心の持ち方一つで真の幸福など得られるはずもなく陽気ぎらしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、社会の安寧、また個々の将来は安泰でしょうか、それらを考える時、厳正な宗教教義では無い事が判ります。仏教は「神懸かり」「どじょう」と違い、道理に基づいた因果が説かれています。また「陽気ぐらし」と正反対の人間の苦悩を正面から見つめ、苦難を乗り越えて人生を全うし、社会の安寧を説かれた真実の教えなのです。