※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学する人間は 触媒である。)
哲学する人間は触媒である
このQ&Aのポイント
哲学する人間は触媒となり、相手に化学反応を起こさせる存在です。
韓国人や中国人、欧米人など、異なる文化圏に触れることで、哲学は世界の人々に対して化学反応を促進する役割を果たします。
この役割は、自然の振る舞いと結びつき、人々を癒し、世界の認識を豊かにするものです。
以下を問います。
カタリストという言葉は 《壊す》という意味から来ているそうな。
あたかも《つるぎを投げ入れる》かのごとくに。
つまり哲学するという生き方は それぞれがあたかもちいさなキリストになることである。
相手がけっきょくわれに還ることをうながす。
そういう化学反応が その相手に起こる。
こちらは さして変わらない。
もしくは ミラーニューロン現象にて同じように振る舞うように成る。
化学反応が完成すれば こちらも何ごともなかったように元にもどる。
カタリスト=触媒である。
韓国人は 話が出来ないというきちがい状態に落ち入っている。
また 事大主義というのは アマテラス予備軍症候群である。
これに対して触媒たらざるを得ないと思う。
中国人は 覇者たらんとすることしか頭にない。
アマアガリ・シンドロームである。
これに対して 面と向かって話をすすめて行くカタリストたらざるを得ないではないか。
欧米人は ただ自分たちの世界認識の枠をよその人びとに向けて嵌めようとする。
宗教も倫理も科学も人格もみな 世界の模範であると思い込んでいる。
表向きウワベだけ《われに還る》かたちである。
生きたわれに立ち還るように 哲学の徒は 触媒となって癒してやらざるを得ない。
哲学が自然の振る舞いであるにほんじんが ほかのアジアの人びとと一緒に世界の人びとに向けて触媒となって化学反応を推し進めて行くのが これからのときである。
ときは満ちたであろうか。
お礼
どまうどまうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 時は選ばず、「今」だと思いますよ。 ☆ あぁ ちからづよいですね。 《何ごとにも ときがある。ときが満ちる》という基本とそして《ときを得ても得なくても〔前へすすめる〕》といった方針もあるように思います。 No.1のれくす33さんは 全体観に立つことが大事であるといった見方を示しておられます。 けれども 個別の場では すでに《ときは満ちている》かも分かりません。満ちていなくても コトをすすめる必要がある場合も考えられます。それは まさに《いま・ここで ほかの誰でもなくわたしが》なのでしょうね。 ★ 世界から見ると道徳的な日本人が、強い使命感を各人が持つことが非常に大事ですね! ☆ となりますね。 たぶんいぢわるぢぢいになるとすれば 《道徳》は――つまり規範は・そして規範でしばることは―― 屁の河童でしょう。何もハカラヒなどなく自然に振る舞っているだけだと思いますから。 使命感は 或る程度・そのコトに応じて必要となる場合があるでしょうね。 あとは たぶんふだん生活しているその姿で 相手に向けて触媒となる。ハカラヒなきがゆえに化学反応をうながすことになる。そういう日常性が大事なのでしょうね。 にほんじんのムラの生活をぜんぶ丸ごと 輸出してもよいのではないか。とさえ考えられて来ます。