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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:奈良と京都)

奈良と京都の日本史における表舞台との違い

このQ&Aのポイント
  • 奈良が平安京遷都以降、日本史の表舞台に立たなかった理由や変化について知りたい。
  • 奈良で起こった平安時代以降の出来事や南北朝時代に関連することについて教えて欲しい。
  • 奈良と京都の違いや地勢・文化・地域性などが奈良の表舞台不在に関係しているのか知りたい。

質問者が選んだベストアンサー

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  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7995/21381)
回答No.2

(1)奈良は、遷都以降、単なる田舎になりました。田んぼしかない状態が 冗談抜きに戦後まで続いたんです。ただ、奈良はポツポツと残ったお寺の 「寺社領」が多く、年貢の取り立てなどが厳しくなかったために、裕福な 小作農が多く、割と豊かな「田舎」であったことは確かです。 さらに言えば、市内を鴨川が貫流している京都に対し、奈良は盆地内に 目立った河川が無く、運搬や利水にも不便だったという問題があります。 だいたい、東大寺大仏殿造営に際して、大量の水銀が使われたために 下流に鉱毒が流れ、今でいう「公害」が発生していた可能性も十分に 考えられ、多数の住民を養うことができない場所であったことは確かです。 (2)南北朝の時代、南朝は奈良に逃れています。まあ、南朝は「亡命政権」 ですから、田舎の奈良に逃げ出した面もあって、「表舞台」とは言いにくい 面もありますけどね。実際南朝の御所があった場所は、どれもものすごい 山の中です。 (3)奈良は、流通的に「どん詰まり」であったから、と考えられます。京都は 古代~近世の高速道路であった瀬戸内海~淀川を経て、琵琶湖~ 日本海(太平洋は波が荒く、交通路としては不安定だった。不安定だった からこそ、紀伊国屋文左衛門の南回り航路が莫大な富を生んだ)という 流通路の中央にあったために、物資が循環したのに対して、奈良は奈良 までが大和川の急流を通る必要があったことと、奈良から先の交易路が 無かったことが発展を阻害したんです。 ちなみに、古代では大阪湾が今の生駒山の麓まで大きく湾入しており、 奈良-瀬戸内海が近かったのに、近世に向けてその部分が湿地帯化して 大型船舶が通れなくなったのに対し、京都は近世まで南部に「巨椋池」 という大きな湖があり、淀川も急流ではなく船舶での運搬に支障が無かった という「地形上の問題点」も留意しておく必要があります。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 私の疑問に、詳しく、また納得のいくご回答いただきましたことをお礼申し上げます。 今でこそ、「水運」というのは、ほとんど意識しませんが、動力のない時代に重要な役割を果たしていたのは、十分理解できます。ましてや急峻な地形の多い日本ですから。 ご回答に対して、一つ一つ記述はいたしませんが、大変勉強になりました。 逆に、ふと疑問が湧いてきたのは、何故、「京都に先立って、奈良に都が出来たのだろうか?」ということです。何だか底なし沼にはまりそうですから、この辺で納めておきます。

その他の回答 (3)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

1)薬子の変、平城天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A4%89 大同4年12月(810年1月または2月)、平城上皇は旧都である平城京へ移る。 長岡京遷都 784年 平安京遷都 794年 薬子の変  810年 長岡京遷都のあと、26年経った段階でも、上皇が居を構ええるだけの施設があった。副都として機能していたのではないかと言われている。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「薬子の変」……そういえば、こんなのありました。(*^_^*)もう、おおかた半世紀前になりますが、苦手な「日本史」に、男だか、女だか分からないような名前のついた事件があったことを、当時の日本史のテストの成績などを苦々しく思い出してしまいました。(*^_^*)

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.3

No.2の方の(3)にも言及されているように、全国規模の地上交通網、西日本と東日本の交通の結節点に京都は位置します。  日本海側の東北・北陸から、瀬戸内海経済圏へ抜ける時は、琵琶湖から京都を通って瀬戸内海へ抜けますし、東北の太平洋側・関東・東海や甲斐・信濃から西国へ行くときにも、京都を経由します。  つまり京都は、情報・人の流れ・物資の中継点としての地理的位置にあり、必然的に歴史の表舞台に立ち続けることとなりました。  反対に、奈良は情報・流通・経済の結節点としての性格を持たなかったため、歴史の中心から外れてしまいました。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 現在の交通網の状態からしても、奈良と京都では、地理的な条件の相違というのは当然あったのではないかという認識はありました。そして、「そのような認識が正しいのかということを確かめたい」ということが、この質問の趣旨の一つでもありました。

回答No.1

奈良は平安遷都以降は「南都」と呼ばれ 寺社勢力の本拠地です 寺町として栄えました 戦国時代に奈良がフューチャーされました 松永久秀の東大寺大仏殿焼き討ちです 南北朝は 南朝が「吉野」を本拠としましたので 正確には奈良ではありません(もっと南です) 都は色々と移っています 奈良の前には飛鳥宮(奈良県斑鳩村)、難波の津(大阪)、大津京(滋賀県大津市)、藤原京 長岡京(京都府長岡京市)など 色々都はあったのです それは皆 遷都後も普通の街として栄えて今に至っています 決して奈良が特別ではありません

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「寺社勢力の本拠地です」……私は、現在の観光地としての「奈良の寺社」しか知りませんが、仏教の聖地として相当発展したと思いますが、その後の京都だって、負けてはいないですよね。このことが、もやもやとしていて、質問のきっかけにもなりました。 「奈良が特別ではありません」……現在では、奈良と京というのは、本当に近いですよね。一度、京都から奈良まで電車に乗ってみました。その時の記憶が、「こんなに近いのに、何故、歴史の表舞台に出てこられなかったのだろうか?」という疑問につながったのだと思います。

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