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大和朝廷と京都の渡来人

1. 渡来人と呼称する以上は、遷都してくる朝廷の人たちよりも後にこの日本列島に渡来したのだと判断してよろしいでしょうか? 2. どこから渡来したのでしょう? 3. 平安京都に単に住んでいただけで、統治機構とかはなかったのでしょうか? 4. 遷都して来る朝廷の人たちは何時頃、どこからこの日本列島に渡来したのでしょう。 遷都して来る朝廷の人たちと前からいた平安京都の渡来人とは民族的に異なる人たちでしょうか?

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回答No.1

 渡来人で有名なのは秦河勝ですね。飛鳥時代の人で河勝自身は日本で生まれましたが、それ以前から中国から朝鮮半島を経由して渡来しました。  京都太秦あたりや酒の神様松尾大社などは秦氏が住んでたり、建てたと言われています。  大阪の藤井寺市にある葛井寺も8世紀中旬に百済王の子孫である渡来人葛井氏により作られたと言われています。  色々なパターンがありますが、渡来人とは4世紀から7世紀にかけて中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々のことを言うので、平安京ができる794年より随分以前から日本にいるということです。  渡来人により大陸から稲作を始めとして漢字、仏教、寺院建築などの大陸文化は多くの日本文化の基礎を作ったといえるでしょう。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

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  • 92128bwsd
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回答No.2

雑談的な話なので回答になっていないかも知れませんが。 1. 私が小学校の頃は、渡来人とは言わずに帰化人と習いました。中国大陸や朝鮮半島から渡ってきて、日本人に”帰化して”定住した人達。その記録が残っているくらいだから日本と言う国や朝廷が出来上がった後に移ってきた人達のことを言っていたと思います。ところが”帰化”って言う言葉がおかしいので”渡来人”と言う様になると今度は定義が拡がって、記録が無く発掘された人骨や埋葬品から判断するようなところまで遡っているようです。その意味においては、京都には大昔から渡来人がいたと言う発掘調査による研究があります。 2. 主に中国大陸と朝鮮半島と思います。 3. 平安京の構築に渡来人である秦一族が大きな役割を果たしたことは記録にあるようですが、それ以上に特別に渡来人として統治管理されていたと言うはっきりしhた。ただ京都以外でも百済や高句麗の名前がついた寺や地名は多く、朝鮮半島からの渡来人が近隣に集まっていた場所はあったと思います。 http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO005896/20140303-OYT8T01392.html4. 埼玉県にある高句麗神社は朝廷が高句麗からの渡来人をその地に住まわせたことに由来するそうなので、その意味では管理されていたとも言えるのでしょう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE 4. 民族と言う言葉の捉え方は、世界の中でも日本独特だそうです。人の素性をわける言葉として、英語だとrace, ethnic group, nationalityの区別があるそうですが、日本人の言うところの民族は本来はethnic groupとnationality の中間くらいに位置するそうです。ところが日本が独特なのは何千年もの間、海に隔てられ大規模な人の行き来が限られ、そして史実が記録されるようになってからは天皇を頂点としてひとつの国体が守られてきているので、人種、民族、国籍が全部一体の様に考えることが多いと思います。人種ですら過去に区別されていたことと裏腹にDNA解析が進むとそんなに明確に別れていないことがわかりつつあります。おそらく5000年前から日本にいた人達と、2000年前に日本に渡ってきた人達のDNAを検査したところで統計的に違いは出てきても個人個人がはっきりとどちらに属すかと言うほど明確で無いと思います。最近では発掘された人骨の歯からDNAを抽出する技術が発達して、遺伝子考古学と言う新しい学問分野がうまれました。じゃあ日本人がどこから来て、中国人や韓国人とどこが違うのか一目瞭然かと言うと、そんな簡単なもんじゃないらしいです。と言うのも、そもそも日本人に限らず人類誰でも様々なDNAが混じり合っていて、それがどう言う経路で伝搬したのかを証明しようとすると、様々な年代の関連する場所で人骨を発掘しては解析して、一連の流れ、連続性を見出さないといけない。そんなことは労力やサンプル数から到底できないようです。遺伝子考古学の前は、発掘される人骨の骨格を見て判断していたのですが、生活様式や食べるものによって骨格は変化するので大胆な仮説の領域をでないと言うのが本当のところ。1.で京都には大昔から渡来人がいたらしいと書きましたが、それもそんな仮説の中の話です。 では本来民族は何かと言うと、歴史、居住地域、言語、文化を共有した同じグループの人達。平安京に遷都してきた朝廷の人達と、もともと京都に渡来してきた人達が民族的に違うかどうかは秦氏一族の様に明らかに渡来人だと双方認識がある例を除けば曖昧なものなのではないかと思います。それこそ、京都に住む渡来人が日本に渡ってきた頃の文化や風習、言葉、儀式を守り通していれば明らかに違う民族と言えると思いますが(先の埼玉の高句麗神社では、日韓友好と町おこしを兼ねて、古い伝統のお披露目をしているようですが)。 一つだけ良く引用されるのは、第50代で、平城京から長岡京、そして平安京に遷都をした桓武天皇の生母が百済からの渡来人であったと言うことくらい。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 じゃあ百済の民族って何?と言う話になると、今度は朝鮮半島側の民族論になってしまうのですが、こちらの方は政治的にも国民感情的にもとてもセンシティブな話題のようです。と言うのも朝鮮半島は中国王朝や中国北方の民族が入り交じる地点で、どの民族が朝鮮、韓国の民族の正統な祖先かと言う事が国のアイデンティティにも関わり一歩間違うと感情的な大論争になってしまうのです。ましてや古代の日本が朝鮮半島に影響力を持っていたことを示す史実に対しては敏感に激しく反論します。 逆にこんなことを言うと、今度は日本人の中に過敏に反応する人がいるかも知れませんが、私は長い間同じ国に住んで同じような顔をしていて同じ言葉と文化を共有しているんだったら朝廷にしても渡来人にしても同じ日本人で良いと思います。単に日本に来た時期が違うだけ。元からの日本人ですら外から日本に渡ってきた縄文人とその後で大陸から渡ってきたと言われる弥生人のミックスで、DNA的にはだいたい20:80 くらいで混ざっている事が最近のDNA研究でわかってきたらしく、縄文人は比較的に東アジアでDNAの系統が枝分かれする初期の遺伝子を持っているらしいですが弥生人は分岐が起こった後に大陸から渡ってきたらしいです。個人差もあります。この話に突っ込んでいくと話しは遺伝子のタイプの配合比率とそれの持つ意味の話になって収拾がつかなくなります。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。

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