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京都が千年栄えたわけ
平安京遷都から東京奠都までの約1000年、なぜ京都はこんな長い間日本の都として栄えてこられたのでしょうか? 詳しい歴史を知らないので、できればわかりやすくお願いします。
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- bismarks05
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参考程度の話としてですが 京都が地形的に糞尿処理が行いやすい環境だったから、だと思っています。 日本は平安京を除いて都の耐久年数が短いケースが多いですが、それらの短命の都は大変、衛生環境が悪かったことが分かってきています。 遷都の理由が、糞尿・衛生問題だったという可能性が考古学的に考えられるようになっています。 京都は糞尿・排泄の問題を解決した唯一の都だった・・・従って、京都に繁栄し続けたのでしょう。 政治的理由で京都があり続けたのではなく、物理的に京都で安定してしまった、他の都市では糞尿処理が出来なかった・・・・ というのが現実かと思います。 詳しくは、参考文献のURL書籍でも参照してくれると面白いです。 実は、日本は中世から人口が多い国で人口過密の状況が多発することが多いようです。 上下水道の整備ができるようになってから、大都市が世界的に広がりますし、都市の運命は衛生環境に従属する可能性は高そうです。
- toshineko
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京都がずっと千年の間栄えていたわけではありません。衰退と繁栄を繰り返していました。 有名なところでは、平清盛による福原遷都、南北朝期の戦乱、応仁・文明の乱などにおいては、都市圏が縮小したと思われます。 現在は数百万の人口を抱えており、神社仏閣等文化財の多い盆地周辺部まで都市圏が広がっており、これらの防災対策(火災等による延焼防止)が問題となっています。 本来これらの建物は都市郊外にあったもので、市街地からの延焼とは無関係であったものですが近代の人口爆発によって都市圏に組み込まれてしまいました。 ではなぜ遷都しなかったのか。 (1)天皇家に遷都する金・収入が無かった。 (2)政治の中心が天皇家・公家階級に無かったので、遷都する必要が無かった。 (3)遷都する土地が無かった。勝手にここに移るといわれても地主が困るだけ。 というところが主な理由だと思います。
- tanuki4u
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瀬戸内海交易ルートと、日本海交易ルートの中間地点にあたったから。 古代から日本の主要交易ルートは上記の二つです。瀬戸内海の東の到達点が、淀川河口部であり、淀川によって、京都まで船で行き来できます。 巨椋池が埋め立てられたので、ウッカリするのですが、京都市伏見は「伏見港」でありました。また、琵琶湖を経由して、日本海側の交易ルートと陸路で一番短いのが京都となります。 この交易ルート結節点が長く栄えるというのは京都だけの話ではありません。 中国の洛陽 ここは、大河黄河の中で、渡りやすい地点のそばに立地します。黄河では洛陽の東ですと、殷の首都があったという鄭州市まで黄河は渡河できないそうです。つまり黄河の北と黄河の南の交易の結節点。 中国の北京 ここは、北方の遊牧民と南方の農耕民の居住境界域で、交易の結節点となっております。 バグダード チグリス川とユーフラテス川が近づいている場所。そのチグリス川沿いにあります。それぞれの河川交易を利用しやすい場所にあります。 無論、水の供給が十分にあることも必要です。 京都盆地は大昔、琵琶湖の兄弟関係にあるような湖があり、その地下水がまだ豊富にあるそうです。 政治的には、将軍が実権だけ持って、鎌倉や江戸に行っても、天皇を京都に残したというのもあります。 ただ、足利氏が京都に幕府を開いたのは、南北朝時代として、北朝の天皇を近くに確保しつつ、正統性を主張するために京都を離れられなかったという理由もありつつ、発達した京都中心経済の中央部を押さえておく必要があったとも言われております。