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平安遷都
自治体主催による徒然草の四日にわたるシニア講演で、長岡京から平安遷都を行う時にこの平安京にいた渡来人を移動させたという内容のお話がありました。 【質問】 1. 渡来人と呼称する以上は、遷都してくる朝廷の人たちよりも後にこの日本列島に渡来したのだと判断してよろしいでしょうか? 2. どこから渡来したのでしょう? 3. 平安京都に単に住んでいただけで、統治機構とかはなかったのでしょうか? 4. 遷都して来る朝廷の人たちは何時頃、どこからこの日本列島に渡来したのでしょう。 遷都して来る朝廷の人たちと前からいた平安京都の渡来人とは民族的に異なる人たちでしょうか?
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>遷都してくる朝廷の人たちよりも後にこの日本列島に渡来したのだと判断してよろしいでしょうか? その通りに、理解して下さい。 >どこから渡来したのでしょう? 他にも回答がありますが、多くは中国・朝鮮系の方々です。 ※琉球は、東南アジアの島々から。小笠原は、南洋系の島々から移住。 大化の改新で有名になった「中臣鎌足」は、滅亡した百済国の皇太子(豊璋)との説もあります。(国王本人との説も有り) 当時、外交を担っていた蘇我入鹿を暗殺しましたよね。 蘇我一族は、どこの国にも加担しない「全方位外交」を目指していました。 が、百済国復興を目指していた中臣鎌足としては、日本軍を百済救援部隊として派兵したかったのです。 ところが、蘇我一族が強硬に派兵に反対。 結局、次期天皇にする事を中大兄皇子(後の天智天皇)と密約して派兵反対派を暗殺します。 白江村の戦いで日本軍は惨敗しますが、この戦争前後には「中臣鎌足は、行方不明」となっています。 日本書紀など古文書の記録から、突然消えています。 歴史学者などは、朝鮮へ帰還して百済軍を再集結し戦場を駆け回った!との記録もあります。 まぁ、古代から中国・朝鮮半島系の渡来人が行き来していたのは確実でしようね。 >平安京都に単に住んでいただけで、統治機構とかはなかったのでしょうか? 政治機構というよりも、現在の市町村単位での政治機能は持っていた様です。 奈良盆地には、多くの渡来系氏神を祀った神社が多いですよね。 氏としては、平群・葛城・巨勢・蘇我・耳成・三輪などが渡来系として有名です。 蘇我なんか、始皇帝の子孫と称する時代もありました。^^; 京都盆地にも、太秦など渡来系の一族が拠点を構えていましたよ。 >遷都して来る朝廷の人たちは何時頃、どこからこの日本列島に渡来したのでしょう。 先に書いた通り、中国・朝鮮からの亡命者一族が多い様です。 単純に、(今と異なって)海は「国境と言う概念が薄い」ので自由な往来があったのです。 ですから、日本に夢を求めて自らの意思で移住した方々も多いのです。 >遷都して来る朝廷の人たちと前からいた平安京都の渡来人とは民族的に異なる人たちでしょうか? アジア人は「モンゴル系」ですよね。 民族的には、大きな違いはありません。 今でも、戦前から日本に住んで居る中国人・朝鮮人と戦後に来日した中国人・朝鮮人は仲良く生活を行っていますよね。 同胞意識は、日本人社会よりも強いのです。当時も、同じでしようね。 例外的に、戦争終結でも意図的に祖国に帰還しない一部の外国人が「反日」を叫んで活動していますが・・・。 ※生まれながらに、無職でベンツに乗る特権を持つ方々です。 阪急京都線沿線には、反日政府系在日反日団体の本部が存在します。
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- kitsunetoneko
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(1),(4)現在の日本の皇室,今上天皇は,いわゆる 渡来人ではなく,日本人(日本民族,大和民族)という認識が,一般的ですが,今上天皇の,遠いご先祖様の,桓武天皇の母親や,飛鳥・奈良時代の天皇の後宮や,貴族(宮廷官吏)に,百済の○○など,ご先祖が,もともと,朝鮮半島などの出身者と思われる氏族や一族が存在するようです..桓武天皇の母親の,白壁王の愛妾の,高野新笠氏なども,いわゆる,親族などは,日本への帰化人だと思われるので,日本古代の,飛鳥・奈良時代などに,日本に渡って来て,後に定住した朝鮮半島系の人々のことなどを,主に,渡来系豪族などと,呼んでいるようですが,渡来人自体は,縄文・弥生時代を含む古代から日本に渡って来ており,特に,A.D.700年代には,日本に居た新羅人は,関東へ移送され,百済人は,近江(滋賀県)などの西日本に移送されたり,多く定住したようです..日本の朝廷は,当時の高句麗(コグリョ)や百済(ペクチェ),新羅(シルラ)などの国々の,宗主国になっていたこともあり,朝鮮半島や,中国東北部あたりの人々とは,交流などが盛んにあったようですし,卑弥呼の時代には,高句麗が,中国に近づいて,離脱しますが,百済などの国々は,けっこう長い間,日本と友好関係にあり,高句麗人を含め,多くの,新羅人や百済人が,日本に渡って来たようです..鑑真和尚なんかは,中華王朝の末裔かなんかだと言われていますが,古代日本の,東北地方に存在したとされる,日高見国の王,阿弖流為などは,高句麗人の末裔などという説もあるようで,高句麗の人々が,狩猟民族だったことなどから来ているのでしょうか‥平安時代などに流行った,高麗・狛(こま)楽などの雅楽は,飛鳥・奈良時代などに,朝鮮半島や,中国東北部あたりから,日本に伝来したようですし,高麗(こま)や新羅(しらき)などの言葉は,日本の地名などにも,見られるようです.. (2)基本的に,渡来人とは,古代日本に,当時の朝鮮半島や,中国東北部あたりから渡って来た人々のことを指すと思います..戦国時代の山陰地方(兵庫県朝来市か)の赤松氏と交流があった,李氏朝鮮時代の儒者の姜某氏や,江戸時代の長州藩家臣の李家氏,豊臣秀吉氏の朝鮮征伐の間に,日本に渡って来た陶工の方なども多く,現在でも,九州に,子孫の方が,商売をされているそうです.. (3)平安京辺りに住んでいたのは,初耳ですが,サンカなどのことですか?
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ありがとうございました。
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サンカの話との関連は存じませんが、ともかく自治体の講演会の講師が出した言葉です。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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渡来人 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA 私が子供の頃、飛鳥時代、国づくりのために大陸(中国や朝鮮半島)から渡って来た技術者たちで、一部を除いて〇部など「部」が付く姓は渡来人の子孫だと教わりました。 また、始皇帝の子孫が秦氏→長宗我部氏になったとも聞いたことがあります。 アイヌや薩摩隼人、琉球などを除いた殆どの朝廷及び日本人の祖先は縄文末期くらいから渡ってきたりしたものだと、縄文人と弥生人の骨格を比べて考えられるようです。 上記に挙げたWikipediaではそんな弥生人も渡来人とされているように捉えられますが、やっぱり飛鳥時代の方がしっくりときますね。 弥生時代初期あたりではまだ同じかそのものでしたでしょうけど、飛鳥時代あたりともなると別の文化を持つ別の民族と言っていいでしょう。
お礼
素晴らしいご回答をありがとうございます。 今後ともどうぞお導きのほどを。
- SPS700
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僕はこういうことにある程度の興味はあるのですが、ど素人です。ですからかなり割引して聞いてください。 1と2。日本の地形はアジア大陸の外側で朝鮮半島が渡って来る陸橋のように見えます。中国は革命の国で、指導者が変わるごとに前の関係者は逃げ出しました。 それも一度や二度ではなく、順路も違い、順押しに将棋倒しのように避難民を出しています。行き着いた日本列島から先は太平洋ですから行き先がない。 「渡来人」と言っても、出発点、到着経路、到着の年代で多種あり、また避難民の背景で、平民から王様まで、持って来た知識や技術も千差万別だと思います。 奈良では既に、法隆寺のような国立大学や、薬師寺という鑑真のような外国人を学長にもつ、国立の医科薬科大学もあり、中国式の都市計画がありました。 3。したがって、指導者が死ぬたびに遷都する、という土着の形式から、恒久的な役所を建て簡単には動けない首都構想の平安京遷都になったものと思われます。 4。で京都には、南都の奈良から移動した官僚、に加えてアジア大陸からの移民がその特技を買われて入って来たと思われます。 『新撰姓氏録』(下記)などに、新旧入り交った構成要素の雑多さがうかがわれます。 http://www.eonet.ne.jp/~temb/7/shoziroku.htm
お礼
いつも素晴らしいご回答をありがとうございます。
- あずき なな(@azuki-7)
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1 遷都前に来た人も渡来人です 言うなら奈良時代に日本に来た鑑真も渡来人 2 一般的には中国(唐)か朝鮮半島がメイン 3 役職についてた人もいる 奈良で有名な役人の吉備真備も渡来人と言われてるし 平安遷都の立役者 和気清麻呂も渡来人と言う説があります 当時渡来人は技術人集団と言う意味合いが強かった気がします
お礼
ありがとうございました。
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ありがとうございました。
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