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聖書は日本人には要らないか?
- 『聖書』は日本人に必要なのか、その意義を考えてみましょう。
- 『聖書』とクリスチャン信仰の違いや、教会との関係も考えるべきです。
- あなたは『聖書』をどのように位置づけていますか?その考えも伝えてください。
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バトルをちょっと眺めてみたよ。 あんたのもの言いは、そろばんではじいた様な以前の言い回しと違って、最近は心の潤いがある。 相手をいやす潤いでもある。 以前の瞬間湯沸かし器は、あんたの一人よがりだったが、当時そんな事を言えば沸騰どころか爆発していただろうな。 日蓮はあんたの反省でもあるのかもしれないな。
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- NemurinekoNya
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要らないわけがないでしょう。 西洋と西洋人、西洋の文化と歴史などを知るために、理解するために、聖書の知識は必要ですよ。 クリスチャンやイスラームの人とうまく付き合うためには、最低限、聖書に関する基本的な知識は必要ですよ。 まぁ、日本という狭い世界のなかで、しかも日本人だけを相手にするのならば、聖書は不必要かもしれませんが、 ですが、西洋から文化・文明を吸収する過程で間接的に、知らず知らずのうちに聖書やキリスト教の考え方を吸収し、それが私たち日本人の思考形式などに影響を与えているので、聖書を読む、勉強するということは、今の自分たちを知ることでもあるんですよね。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ヘンな問いですよね。 ◇ ですが、西洋から文化・文明を吸収する過程で間接的に、知らず知らずのうちに聖書やキリスト教の考え方を吸収し、それが私たち日本人の思考形式などに影響を与えているので、聖書を読む、勉強するということは、今の自分たちを知ることでもあるんですよね。 ☆ すでに 言ってみれば思想もグローバル化しているのでしょうね。 もっとも 何度も言いますが 現代の韓国人だけは あたかもブラック・ホールのようですが。 もう少し みなさんからの声を聞いてみます。
- kohichiro
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丸谷才一が「新約」聖書を”犯罪小説の嚆矢”と位置づける考えを書いていました。他面、どんなくだらない文学作品もそれなりの存在理由はあるはずですし、そういったものも人類の資産のひとつであり、一部の人間が珍重するのを否定はできません。個人の自由です。ですから外国の高名な古典作品が「日本人には不要なものである」と考えるのは焚書にも値する傲慢不遜なことだと私は思います。 私は若いころ新約聖書を面白い含蓄のある物語として楽しく読みました。他に読みたい本が今もたくさんあるので、再読したいとは思いませんが。 宗教としてのキリスト教の存在はまた別の問題だと思います。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ですから外国の高名な古典作品が「日本人には不要なものである」と考えるのは焚書にも値する傲慢不遜なことだと私は思います。 ☆ これが 原則ですね。そうですよね。 つまり 日本人には要らん! と言われたものですから いちどみなさんに聞いてみようと思ったという単純な質問ではありました。 ★ 丸谷才一が「新約」聖書を”犯罪小説の嚆矢”と位置づける考えを書いていました。 ☆ ほほお そうなんですか。日本語についてしゃべったものなどを読んだだけで 小説のほうも丸谷については残念ながら知りません。 《小説》の歴史としては それほど古くには遡りませんよね。けれども 《犯罪小説》は 新約聖書から始まるというのですか。ううーん。単純に反応すれば それなら旧約聖書からすでに始まっているかとは思いましたが 何か丸谷にしては思うところがあるのでしょうか。 ★ 宗教としてのキリスト教の存在はまた別の問題だと思います。 ☆ ええ。このことは おそらく考える人びとにとっては 共通の理解になっているかと考えます。そもそも宗教一般が よくないとわたしなどは思っています。 ★ 私は若いころ新約聖書を面白い含蓄のある物語として楽しく読みました。他に読みたい本が今もたくさんあるので、再読したいとは思いませんが。 ☆ そうですか。そういう位置づけになるということですね。 とにかく繰り返しますが 《日本人には要らんものだ》という見解は出て来ないようでひとまづ分かったような感じでいます。
- 山田 太郎(@f_a_007)
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Q、『聖書』は、日本人には要らないのか? A、うーん。 > 『聖書』は、あなたにとって必要で大切な一冊ですか? という問いならば、その答えは「否!」。でも、「日本人には要らないのか?」と問われても・・・。そりゃー、大切にしている人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうし。 でも、なーんで?「日本人には・・・」なんだろう。うーん。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ でも、なーんで?「日本人には・・・」なんだろう。うーん。 ☆ これはですね。はっきりしています。 或るわたしの質問で ◆ 私たちは日本人であり、東洋人であり、キリスト教の神なんか不要です。どうして聖書を知らなければお話にならないのか? ☆ という回答の中の文章をもらったからです。ですから あまりにも意外だったので いちどみなさんに聞いてみようと。 日本人にとって要らないとは言わないけれど ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ > 『聖書』は、あなたにとって必要で大切な一冊ですか? という問いならば、その答えは「否!」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですか。《大切な》が否定されたのか。それとも《必要》がか。あるいは 両方ともでしょうか。 なかなか なじみは薄いでしょうね 一般に。とは思います。 でも ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ Q、『聖書』は、日本人には要らないのか? A、うーん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とうなるほどの状態ではあるのですね。ありがとうございました。
要らないという結論にはしたくないです。 言論統制とか、思想弾圧ですから、思想の自由は欲しいです。 焚書坑儒とかよくないでしょう。 流行り廃りとか自然淘汰されることはあっても 人為的に要らないというのはどうでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 けっこう そういう意見が出るようなのです。要らないという。 ★ 人為的に要らないというのはどうでしょうか。 ☆ そういう消極的な理由だけでしょうか。
- raiden787
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娯楽小説としてはなかなか良くできてると思います。 暇つぶしの手段の一つとしては必要性はあるかもしれませんね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 けっこう長くて読みでがありますからね。
- 雪中庵(@psytex)
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聖書に限らず、もう宗教は役目を終えた。 (物理を学ばず日常的感覚に流されている素朴唯物論な人間を除き) 日本人に限らず、世界中に必要ない。 (むしろ宗教やお金といった自己チューな意識のまま社会性を補完する他律的システムが、もうグローバルに分業化=助け合っている世界に、拝金主義や民族的対立といった歪みを生じている)
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書に限らず、もう宗教は役目を終えた。 ☆ ということは やはり物言いがつくかと考えます。聖書は宗教だけの問題であるのか? という問い返しです。 ★ (むしろ宗教やお金といった自己チューな意識のまま社会性を補完する他律的システムが、もうグローバルに分業化=助け合っている世界に、拝金主義や民族的対立といった歪みを生じている) ☆ (あ) 《宗教》はいざ知らず 《お金》が《自己チューな意識》になるのですか? (い) 《社会性》と言うことですが すでにそれは《生活のさまざまな部分や側面をめぐっての専門化を経て 互いに社会的にも組織的にも分業=すなわち協業しているそういった経済行為関係の状態》に実現しているのではないのですか? (う) 《他律的システムが 社会性を補完する》とは どういうことでしょう? 社会性はすでに――前項に触れたごとく――成っているのではないですか? (え) 《もうグローバルに分業化=助け合っている世界》 これが 《社会性》のことではないのですか? (お) ならば もはや《それを補完するシステム》は 要らないと言っていることにひとしいはずです。 (か) すでに実現している社会性・しかも世界的に広がったそれに いったいどうして《歪みが生じる》のでしょう? (き) 繰り返しになるのですが 《もうグローバルに分業化=助け合っている世界》がどうして 《お金といった自己チューな意識》によって補完される必要がありますか? ★ 日本人に限らず、世界中に必要ない。 ☆ おそらく思想(生活態度)が聖書にもとづくならば 世界の宗教という組織宗教は要らないということが徹底されて やがて消えて行きましょう。
聖書を読む いやというほど文献学の話になる。 その後、仏典を読む。 聖書に倣って文献学を適用する。 そのようなことがありました。 先に仏典を読んでいたら、もっと 別の思想になっていたかもしれません。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 お言葉を返すようですが ★ 聖書を読む / いやというほど文献学の話になる。 ☆ ということは 聖書を開くと あとは文献学に行き着くコースしかないという意味でしょうか? そんなことはないはずでしょうね。 そういう意味では もう少しくわしいご事情が分かればさらに考えてみたいと思います。
- tzd78886
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私はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍という以上の価値を見出しません。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍という以上の価値を見出しません。 ☆ わたしには 《古事記や日本書紀の様に大昔に書かれた書籍というほどの価値を見出し》たのなら 非常に大きい位置を占めています。 生活態度としての思想が知られえます。 ★ ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒でもないので、 ☆ そうだということになります。 出発点が同じですが 行き先は違って来たでしょうか。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 そのままをありがたく受け留めていくのがよいのでしょう。 ただそれでは先行きに遅れた形で いやじつはこうこうであったとコトワリを入れなければならなくなる・そういうおそれがあるとすれば ひとこと 次のように言わば台所事情についてしるしておきます。 まだまだ 世の中の状態についての怒りはむしろ高まって来ているということです。 にゅうとらるという方が提起してわたしが自分の方式で引き継いだ主題として この《怒り》があります。あなたも参加しています。 ○ 【Q:《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8717498.html ○(趣旨説明欄) (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。 ☆ このように怒りは 根に持たない。《瞬間湯沸かし器》であり むしろそうでなくてはならない。そのあと: ○ ~~~~~~~~~~~~~~~ (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。 すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というようなそのあとの経過になると思われます。 怒りを根に持つ場合には 恨み辛みになる。世に言うルサンチマンなのでしょう。 心にもし潤いがあるとすれば この怒りのおかげでしょう。
補足
今回は単純に褒めてもらったので BA です。