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こんな教会ありますか?クリスチャンの方に質問です
こんにちは。前回、哲学のカテに似たような質問をしたのですが、私の説明が長すぎたのか、あまり多くの回答をいただくことができませんでした。そこで、もう一度質問させていただきます。 プロテスタントの教会に通って約一ヶ月経ちましたが、以下の点が気になります。気にし過ぎでしょうか。 どなたか教会選びに詳しい方がいらっしゃる場合、アドバイスをお願いします。 • 専属の牧師がいない •教会の代表者がいない • 聖書の勉強会がない •礼拝の終わりに報告会があるが、その際、信者が自分自身の身体の不調、病気や怪我の話になり、「今日は早く帰らないといけないので、皆さん私のために今、祈ってください」と祈りを強要する •献金が少なすぎるとあからさまに嫌な顔をされる→少ないとは300円くらい •ある信者が災難にあったようで、その人のために献金袋が毎回まわってくる •礼拝そのものよりその後のお茶会を楽しみに教会に来ている人が多い •とにかくプライベートな話ばかりする •教会の活動内容が良く分からない 教会で自分のために祈ってほしいと言われた場合、その人のことを良く知らなくても、祈るべきでしょうか?「痛みが酷いんです、私が帰る前に皆さん、祈って下さい」って感じです。
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- puregrape
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初めの人になるアダムは神様を象って造られました。しかし、罪を犯すことによって神様の形を失ってしまいました。私達は神様の形を失ったアダムに象って生まれるのです。だから、全ての人は罪人です。全ての人は罪を犯します。罪がもたらす代価は死です。すなわち、私達の全ては死にます。単なる死ではありません。全ての人は地獄に行きます。光と闇の間に何も無いように、地獄と楽園の間にも何もありません。 旧約では律法を犯すと子羊を選び、傷や斑点が有るか無いか詳しく調べました。そして、傷や斑点が無いと自分が犯した罪の身代わりとして神様にささげて津を赦して貰いました。傷や斑点は罪の模型であり、子羊はイエス・キリストの模型でした。 だから、イエス・キリストがこの世に来られた時に沈礼人ヨハネはイエス・キリストを見て"見よ、世の罪を取り除く神様の子羊です。"と証拠したのです。 旧約の律法は沈礼人ヨハネまでだと言われました。それは、イエス・キリストが世の全ての罪を取り除く為に来られたからです。 そして、子羊になる主・イエス・キリストは私達の罪だけでは無く、世の全ての罪を背負い、十字架の上で処刑されました。イエス・キリストは世の罪、すなわち私の過去、現在、未来の全ての罪を背負い、十字架の上で処刑されたのです。イエス・キリストが私の全ての罪の身代わりになられ死なれたから、私が犯した罪による刑罰は無くなりました。当然、罪が無いので死ぬこともありません。 だから、イエス・キリストは十字架の上で最後に"全てを成し遂げた"と言われたのです。 だから、イエス・キリストは"私を信じる者は死んでも生きるのであり、生きて私を信じる者は永遠に死にません"と言われたのです。イエス・キリストが再び来られる時に信じて死んだ人は復活され、生きたままに信じている人は死ぬことが無しに楽園に引き上げられて行きます。これを説明しているのがデサロニケ前4:13-18です。そして、それが実現されるのがヨハネ啓示録4章1節です。 私達が現在住んでいる所はヨハネ啓示録4章1節の手前になるラオデケア教会です。ラオデケア教会は1900年頃から始まった最後の教会です。ラオデケア教会の特徴は救われた人がほとんどいないことです。だから、イエス・キリストが教会の中にいません。もしも、イエス・キリストを探し求める人がいるなら、イエス・キリストが教会の外で門を叩いて彼を呼び出し御言葉を教えて上げる状況下に置かれています。それが今のラオデケア教会の現実です。そして、天から"ここに上って来なさい"と言われると救われた人は楽園に引き上げられて行きます。 主・イエス・キリストが自分が受けるべき罪の身代わりになられ死なれたから自分が受けるべき罪は無くなった。罪が無いので死ぬことも無い。死んでも復活されると信じる人は救われた人です。彼は聖経が言われる真のキリスト人です。 今の時代、すなわち、ラオデケア教会の時代、すなわち、最後の時代にこのように救われた人はほとんどいません。救われた人がいない世は悪魔から見ると理想的ですが、神様から見ると意味がありません。その模型がソドムとコモラだと聖経は言われます。 貴方がここに書かれたことを信じるならば、貴方は聖経が言われる真のキリスト人になります。貴方が真のキリスト人であるならば、彼等にここに書かれてあることを教えて上げて下さい。
答えられる点だけ回答させてもらいますね。 >教会で自分のために祈ってほしいと言われた場合、その人のことを良く知らなくても、祈るべきでしょうか? 先の震災で多くの方がボランティアとして現地入りしましたよね。 東北に縁もゆかりもない人もたくさんいました。 それと同じと考えるのは無理がありますか? >• 専属の牧師がいない 牧師不足ですから、大きな教団の地方教会でも兼牧というケースがけっこうあります。 >•教会の代表者がいない どこの教会にも信徒会はあると思います。 その会長が一応代表となっているのではないでしょうか? ただ、高齢だったりして教会には顔を出せていない場合もあるようです。 >• 聖書の勉強会がない 教会は祈りの場ですので、勉強会のない教会もあると思います。 >•ある信者が災難にあったようで、その人のために献金袋が毎回まわってくる おそらく、どこの教会でも普通に行われていると思われます。 教会によっては片手で足りない数の献金袋が回ってきます。 >•献金が少なすぎるとあからさまに嫌な顔をされる→少ないとは300円くらい 私の知る限り、礼拝時の献金額がハッキリわかるような集め方をしている教会は珍しく思います。 すみません。 この程度のことしか答えられません。 参考になれば。
- nami-to-taiyo
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私はプロテスタントではないので、プロテスタントの教会のことはよくわかりません。 でも質問内容から、かなりその教会のあり方に疑問を持っているのは感じます。 そのもやもやを持ったまま活動を続けるのはよくないと思うので、別の教会に行ってみるのはいかがでしょうか? プロテスタントは教会もしくは宗派によってずいぶん違うという話を聞きます。 またよく聖書を読んで勉強されている方が多いとも聞きます。 ご自分が納得される所に通うのが一番良いことだと思います。
お礼
アドバイスありがとうございます。 確かにモヤモヤを持ったまま活動するのは良くないですよね。 皆さん良い方々ですが、ちょっと親密過ぎますし やはり活動内容や専属牧師がいないことからも 別の教会を探してみます。
お礼
アドバイスありがとうございました。 色々と考えた上、違う教会に行くことにしました。 牧師不足とは思ってもみなかった考えですが、私自身、やはり専属の牧師がいて下さると安心できる気がしています。