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理性と現実

「理性的なものは現実的であり現実的なものは理性的である」 ヘーゲルの言葉らしいのですが文脈とか意味を教えてください。 理性批判とか、この世界は幻影とかいっているときに、 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」 とかいわれると、驚きがあります。 観察することもできない、経験を超えてしまった、いわば理性の暴走や無駄遣いですら 現実なのでしょうか?

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回答No.1

http://philosophy.hix05.com/Hegel/hegel10.reason.html この人は こう取ってるが 俺は ヘーゲルが言い方を間違えたか ドイツ語から日本語に訳された時に間違ったか・・としか思えない

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 リンク先参考にしてみます。 ヘーゲルが言い方を間違っていたり、翻訳の問題だとすると 難しいですね。

その他の回答 (6)

  • unname1
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回答No.7

何が正しいか間違っているかを証明するのは歴史だと考えたようです。 一方、何が正しいかは相対的なもので時代背景(歴史)に左右されるということにも着目していた ということではないでしょうか。 ある考えが永遠に正しいなんてことはいえないと考えています。 ソクラテスの時代には奴隷制度の是非は考慮されない時代だった、中世では森を切り開き自然を開 拓し人々が生活できる環境を拡大することすることはすばらしいことであった。しかし、いずれも いまは人権問題で許されないことであったり、環境破壊であり無制限に許されるものではない。 歴史というモノサシで計られているということです。 現実的なものが理性的なものとして正しいものとして残るともいえるし、残っているものが正しい ものであり理性的なものと考えているのではないでしょうか。

回答No.6

 これはつまり「思索のレベルでも合理的で普遍的なものは目指すべき理想として現実的であるし、世の中の現状というものは人間が理性でもがいた先の結果である」ということが言いたいのではないでしょうか。

  • kurinal
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回答No.5

>「「理性」は人間の創造物なのですか。」 たぶん。名前を付けたんでしょ。

回答No.4

歴史的に、量子論以前は(アインシュタインでさえ)決定論的 世界像が主流であり、認識から主観的要素を除けば、意識の 外の外的対象の“実体”は得られる、という考えであった(絶対 時間、絶対空間の先入化)。 量子論以前の、いわゆる哲学は、もはや古典であり歴史的 研究上の価値しかない。

  • kurinal
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回答No.3

kazamidori365様、こんにちは。 >「観察することもできない、経験を超えてしまった、いわば理性の暴走や無駄遣いですら 現実なのでしょうか?」 「理性」とは、人間の創造物である以上、、、 (また、「観察することもできない、経験を超えてしまった」も) ・・・現実でしょう。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「理性」は人間の創造物なのですか。

回答No.2

 歴史という時間を導入してみてはどうでしょうか。  あるいは《現実》は 《事実 + 想像(または虚構)》というふうに幅を広げてみては どうでしょう。  《理性》というのは そのような歴史時間性と現実性の理解に立てば 人間の想像しうるのぞみやそのイメージを当てはめた《理念》といった幅を持ち得ます。  そこで われわれが考え思い描く理性的なものは現実的であり すでに成っておりその上にさらに描かれた現実的なものは理性的である。  たとえば 民主制といった理念をタトエに持ち出せばよろしいかと。おおむね人類の歴史は この理性的なものが現実となるようにあゆんで来ている。のではないでしょうか。  

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 言葉の定義の問題ということでしょうか。 理性にしろ、現実にしろ、意味に幅がある、と。 さらに時間を導入してみたり。 今まで、意志の否定とか肯定とかやってきて さらには世界は幻影とか無とかいって 聖者たちのニヒリズムを考察してきたのに、 理性とか現実とかいわれてもという状態です。

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