遅くなりましてすみません。取り急ぎ。。。
> 現象とも物自体とも異なる仮像が、「>完成され、全体的・統合的」であるというのは、どのような視点からの表現でしょうか。
>「物自体」はおいといたとして、「現象」が悟性のカテゴリーによって客観的に認識された対象であるとすれば、人間の認識という範疇では、「>完成され、全体的・統合的」、あるいは普遍的であると言えるように思うわけです。
> 「>完成され、全体的・統合的」という要素を仮像が持っているならば、現象と差別化される要素とは何なのでしょうか。
アドルノはよく音楽を論じたのですが、そのとき、仮象とは楽曲の全体性のことでした。経験上は把握不可能なのですが、やはり、わたしたちがモーツァルトのトルコ行進曲なんてものを思うとき、健常な人はあまり混乱せずに「それ」として受け入れられます。出だしの音列とか、調子良い感じとか、全体的な雰囲気とか、サビ部分のズンチャッチャとか、ぐるっとごたまぜにしており、他人と話が通じる対象となり、楽譜や録音に値段が付きます。
また、絵画を見ますと、たとえば風景画では、水車があるなとか、羊飼いがいるなとか、空と雲と道だなとか、遠景に都市が書いてあるとか、眼は細部を確認しているわけですが、あとで「あの絵は見たことある」などといとも簡単に考えることができ、他人と「あの絵は綺麗で好きだな」と容易に話し合ったりできます。市場で絵の題と作者名だけで取引することもできます。
実際の風景でさえ、都庁でも通天閣でもマッターホルンでも、あ、わかる、と思う何かに成り変わっており、その何かとは、数分から数日かけて登らねば把握できない手合いのものではありません。
こういう何かが仮象であり、この仮象自体が社会や経済において「物象化している」と言えます。物象化して、物自体を覆い隠すように、人間社会に機能しているわけです。
ざっくりと、英語のアピアランス(=見かけ、うわべ)がこれにあたると考えることにしますと、アパリシオン(=出現)が現象という語であることも思い出すことになります。
認知や脳の障害がある方が音楽を聴いて、一音一音一打一打しかわからない、つながりがただの時間経過でしかない、という場合があります。音楽の現象とはたしかに一音や一打の連続で間違いなく、つながりも時間経過で間違いないのですから、この人は純然たるアパリシオンを経験しているのだと言えそうです。
しかし、美的とは程遠く無味乾燥な経験らしいので、どうもアピアランスと呼べるものは手に入れられずにいるのでしょう。
同じように、絵画を見て、頭の中で統合出来ない場合、あの絵と言われてもどの絵かわかりませんし、再現してと紙を渡されても、要素の記憶を配置できません。音楽と同じように目が時間をかけて印象の中に完成したものがあるべきなのですが、それがないわけです。このことから、経験する時間は現象に触れる時間であり、仮象を成型する時間でもあるのだとわかります。アピアランスにおいては部分というものが、全体を参照して存在していると同時に、全体というものが、部分を構成して存在しているという、部分と全体の妙な依存関係も見えてきます。それが、芸術を即自存在であると妄想するような恰好にさせているともいえます。
芸術の形象特性ということをアドルノは言うのですが、芸術は現象となること、出現することをとおして形象となり、ハコブルさんの言葉を借りれば「悟性のカテゴリーによって客観的に認識された対象」となろうとしながらモノ化していくわけです。そのことが客観的には物象を生み、主観的には仮象を生むのではないかなと思います。
アドルノの論調では、その過程で芸術は自己疎外を起こすことに力点がおかれており、たぶん、瞬間瞬間(経験上は細部か、構成要素)は自立した輝きであろうとしていて、すばやいカテゴライズから逃れ、全体と対になる束縛から逃れ、つまり客観化を撥ねつけるパワーなんだけれども、経験のうちに仮象へとりこまれて埋没してしまうという状況を論じているような気がします。何しろ難解(げんみつとばかりもいえない)。。。
カント批判に割かれた《主観対客観》の章が『美の理論』のなかにありますので図書館でパラパラしてみるのも一案かもしれません。そこに限らず随所から引用しようと思って2,3日眺めたのですが、切り取ると金言集みたいになりそうなのでやめました。では。
お礼
(たぶん)月光仮面な名無しさん、ご回答ありがとうございます。 お陰さまで、大分、理解がすすみました。 一度読んだはずなんですけど、何しろ鶏頭なもので・・・。(-_-;) 天体望遠鏡の精度があまり高くなかった頃、土星には2本の柄があると思われていた、ということですね。 以下、回答してくださったみなさんへの礼儀として、中山訳から抜粋してみます。 --------------------------------------------------------------- (「薔薇は赤い」が仮象でないのと同様に)~、[現象としての土星に2本の柄があると語っても]ここには仮象は存在しない。しかし、そうではなく、わたしが、薔薇そのものに赤さがあると語り、土星そのものに2本の柄があると語る場合、あるいはすべての外的な対象には<広がり>そのものがあると語る場合には、すなわちこれらの対象と主観との関係を規定されたものとして検討せず、私の判断を、この対象と主観との関係だけに制限しない場合に、初めて仮象が発生するのである。 --------------------------------------------------------------- ある対象を、(本質的存在としての)物自体として認識し得たと思うならば、それは仮象である、ということになるのでしょうかね。 mmky さんのおっしゃっていたことに当てはめれば、潜水服を着ていることに気づかないと、対象への認識は仮象になる・・・ということかな。 また、(人である以上)潜水服を脱ぐわけにはいかないから、潜水窓を通しての認識よりできない。 それが現象で、潜水窓を通さずに認識するということが不可能であるところの物自体とは区別される・・・。 これでいいのだろうか・・・。(-_-;) amaguappa さんや、nananisse さんのおっしゃる花火については、 花火自体が美しいと考えると仮象で、美しいという主観と関わるからこそ美しいと認識すれば現象。 花火の実体は当然、不可知、となりますかね・・・。 shift-2007さんの場合、「同一であるような自己とは仮像」というのは、昨日の私を主観的に認識することはできない、ということになるでしょうか。いや、違うか・・・。 仮象の意味が少し広がっているような気もしてくる。 以上、つぶやきつつ・・・。