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鹿鳴館切り込み事件
明治19年、壮士数名が鹿鳴館の夜会へ斬り込みましたが、警備の剣術の達人が一人で、これを防ぎ、撃退したと読んだ記憶があります。この事件の詳細ならびに参考図書についてご教示頂ければ幸いです。 中村 聰
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- fumkum
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こんにちは 以前に、同じような話を読んだような記憶があって、簡単に分かるかと思って調べたのですが、結論から言うと、鹿鳴館斬り込み事件は無かったのだろうと思います。無いことを証明するのは、悪魔の証明ですから、証明しきることはできないとは思いますが。 ともかく、地元の図書館にある明治期に関する書籍について調べられるだけ調べてみました。鹿鳴館・壮士・志士・自由民権運動・条約改正などについては特に念入りに調べてみましたが、ありません。最後に毎日コミュニケーションズが刊行した、『明治ニュース事典III 明治16年/明治20年』(丁度鹿鳴館時代がすっぽりと入っています)で確認しても出ていません。 『明治ニュース事典』は毎日新聞社の前身の東京日日新聞の記事を中心に、適宜他紙の記事も採録して、項目ごとに掲載する形式になっています。その『III』の「鹿鳴館」の項目は、明治16年9月17日の「(鹿鳴館の)開館準備進む」との郵便報知の記事に始まり、明治16年11月29日の「(28日の)鹿鳴館の開館式」の東京日々の記事を経て、明治20年6月10日の「(鹿鳴館での)今後、舞踏会は中止か」との東京日々の記事までとなっています。この中に、壮士の襲撃に関する記事は19年以外にもありません。特に、明治19年11月5日の東京日々の「天長節の大夜会、華やかに挙行」の記事は、11月3日の天長節(*明治天皇の誕生日記念日)の夜会について書かれた記事で、東京日々新聞の記者が招待されて実見した記事であったことが明示されています。この夜会は、NO1の方が挙げられている三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』で扱った夜会ですが、壮士の襲撃に関しては一言もなく、記事は「歓楽もまた極まりなきようにて、稀なる盛会好宴なりき。さしもに広き鹿鳴館も、一昨夜は殊更に狭きを覚えたり。」で結ばれていて、混乱や襲撃があったようには全然みられません。なお、ウィキィでも「天長節夜会当日の1886年(明治19年)11月3日に、この作品内で起こるような事件は起こっていない。」と明示しています。 ところで、壮士は自由民権運動の連動し、活発に活動するのは、明治16年頃からで、その最盛期は明治23年前後で、その後明治憲法体制が固まると衰退します。『明治ニュース事典IV 明治21年/明治25年』の中に、中外電報の明治24年4月10日の記事に次のようなものがあります。 「町村会議場に壮士が白刃を閃かし突入」 -前略-満面朱をそそぎ頭髪逆立ちたる一個の草士(*壮士)、二尺に余る白刃を閃かせて会場に突入し、汝田谷孫三郎みだりに権勢を貪りて議長席に在るぞ奇怪なる。汝のごとき腸の腐敗したる奴は、この山本又一が刃に掛けてくれんずと、議長目掛けて飛び掛り、アワヤ田谷氏は電光石火の下に両断せられんとせしが、この時傍に控えたる酒井郡書記が、椅子を以ってこれを支え、互いに押しつ押されて揉み合える際に、田谷氏は後をも見ずして駈け出し、奥便所に逃げ入りて、ようやく虎口を逃れたり。-中略-警察官の出張あり、難なく山本氏を拘引し去りたりとか。右は去る一日午後四時ごろ、目下輪島公会堂に開きある鳳至郡連合町村会場に於いて湧出したる珍事なり。その原因は未だ詳らかならざれども、田谷氏が或る者の言を信じ、山本を擯斥(ひんせき*のけものにする)したるにより起りたることなるべしと、去る六日の北陸新報に見ゆ。 以上は、石川県の鳳至郡連合町村会場に壮士が斬り込んだ事件の記事ですが、地方の、それも政治性も薄そうな記事でも壮士の斬り込み事件が採録されています。これがもし、井上馨外相の進める欧化政策・条約改正案の象徴たる鹿鳴館を壮士が襲撃したとなると、その影響・意義は上記の記事の比ではないでしょう。当然、新聞の記事として取り上げられるでしょうし、その後の歴史書・戦後の教科書等に、欧化政策・条約改正案反対運動の一つの用例として、記載されているはずだと思います。しかし、調べても跡も形もないので、鹿鳴館に斬り込んだ壮士の話は、事実としてはなく、架空の小説・戯曲などの中の話ではないでしょうか。 最初に書いたように、無いことを証明するのは、悪魔の証明ですし、もしかして政府側の箝口令が敷かれ、しばらくの間事実が伏せられていたとしても、天長節の夜会でも1600人からの人間が参会し、外国の外交官も多数参加しています。人の口に戸は立てられないと言いますが、斬り込み事件が事実であれば、その痕跡でも残るものと思います。 以上、参考まで。
- drmuraberg
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もしそれが歴史上の事実ならば回答が沢山付くはずです。 三島由紀夫の「鹿鳴館」の内容が、ご質問の件と 酷似していると思います。 Wikiを見てください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8_(%E6%88%AF%E6%9B%B2) <(明治19年11月3日の天長節)華やかな舞踏会が始まった。 やがて給仕が朝子へ壮志の乱入を知らせた。朝子は階段の上で 凛として立ちはだかり、これを阻止する。> 剣術の達人ではなく、朝子さんの様です。 <諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は眼で殺す>と言いますから 朝子さんの眼の一撃で撃退されたと推察しますがいかがでしょうか。
お礼
ご教示ありがとうございます。私が承知したいのは、戯曲ではなく、史実と典拠です。