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鹿鳴館に来た中国人
江戸東京博物館に鹿鳴館の模型がありますが、 2階のバルコニーに8人?の人物が立っています。 左の二人は、中国服を着た男性です。 また、芥川の「舞踏会」には、“辮髪を垂れし支那の大官”というフレーズが出てきます。 これらのことから鹿鳴館には中国の要人たちが来たと思いますが、 誰が来たのか、名前は分かっているのでしょうか。 よろしくお願いします。 江戸東京博物館の鹿鳴館の模型 http://www.miadd.com/meijinotokyo/img/rokumeikan_top2.jpg
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既に御見識のある回答がなされていますので、二番煎じに過ぎませんが… 作家ピエール・ロチー<Pierre Loti/Louis Marie-Julien Viaud>は1885年(明治18年)、 35歳のとき、フランス海軍「トリファント号」艦長(大尉)として日本を訪問、 同年7月から12月中旬まで滞在、その間の明治18年11月3日天長節には鹿鳴館に招待され、 当時の事は「江戸の舞踏會」(『陸眼八目/ピエール・ロチー著/春陽堂/1895(明28).12』) などに翻訳刊行されましたが、芥川龍之介がそこから「舞踏会」 (『「新潮」1920(大正9)年1月』)の題材を得たことでも知られています。 「江戸の舞踏會」の記述中には、 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/896715/36 <36/139>(54・55頁) 十時………支那公使の御入りなり、秀麗なる一行十三人、…(中略)… ………今彼等支那人の一行は、いづこ如何なる場所にても其國衣國帽を離さず、 彼等が固有の光輝ある絹服に縫飾りせる長衣を着し、八の字ならぬ鼻下髭は 真直ぐに下げて口を掩ひ、剃り上げたる頭の中央より豚尾様の長髪を背面に下げ、 チヨト瞥見すれば如何にも異風に異様に見ゆれども、… 上記の記述を信ずれば、1885(明治18)年11月3日天長節当日は、 駐日清国公使(館)御一行様が辮髪の出で立ちで参加していたことになります。 あと「一行十三人」の記述の真偽も定かではありませんが、仮に正しいとすれば、 …1885年11月3日時点の清国公使館(第3代公使・徐承租)の館員数も不明とは言え… 1877(明治10)年12月初代公使団(初代公使・何如璋)40名を基準に考えれば、 清国公使館員の3割程度が参加した計算になります。 「徐承租」以外の当日の参加館員名となると殆ど霧の中ですが、 例えば「1885年(明治18)年1月2日清国新任特命全権(第3代)公使・徐承租の来着時、 陳明遠等随員3人を率いて参内し、皇帝の命を奏し、国書を捧呈」にも登場、 「麹町区永田町一丁目…松林某方相對借家 仝(明治)十八年」(11月、12月記録)にも 登場=在籍していた清國公使館参賛官「陳明遠」などは鹿鳴館(1885年11月3日天長節) 参加組の可能性が高いように思います。 また、天長節などの催し物や招待状の有無に関わらず、鹿鳴館内の一部に「東京倶楽部」が 設置されて、本邦駐在各国公使や滞在中の来航外国貴賓には名誉会員資格が与えられ、 一定の条件のもとで比較的自由に出入り出来たようです。 (※なお上記のうち典拠不詳部分は、アジア歴史資料センター、近代デジタルライブラリー、 『外務省調査月報 2012/No.1』(37-62頁)研究ノート「明治時代の東京にあった外国公館(2)」、 『明治天皇紀』(孫引き)、他論文、書籍解説などに基づきますが、 『外務省調査月報』など明らかに日付を丸一年誤っている記述箇所もあり、 私自身も未整理状態につき、誠に勝手ながら典拠を省略させていただきました) 以上 二番煎じの dayone でした^^
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- PopoAmin
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鹿鳴館へ来たに違いないと思われるのは清国の駐日公使でしょうね。 「黎 庶昌」この人は1981年に着任し1884年にいったん帰国して 次の公使である「徐 承祖」と交代しましたが、 1887年にまた駐日公使に復帰しています。鹿鳴館が1883年に落成していますから 「黎 庶昌」と「徐 承祖」の二人はほぼ間違いなく来ていますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり、駐日公使ですか…。 “支那の大官”ですからね。
お礼
いつも詳細な回答をして下さって誠にありがとうございます。 よく解りました。 江戸東京博物館の模型の人物が、辮髪で清国の服装をしている異様さに興味を抱いて質問しました。 ピエール・ロティ著『江戸の舞踏会』に、 “剃り上げたる頭の中央より豚尾様の長髪を背面に下げ、チヨト瞥見すれば如何にも異風に異様に見ゆれども” という記述があることをdayone様の回答で知って、「やっぱりそうなんだ」と合点しています。 鹿鳴館を訪れた中国服の人物は駐日清国公使である、と確信しました。