なんらかの主張やテーマがあって、それを演劇というスタイルで表現するという作品もあれば、
自分が考えている芝居らしい芝居を思いっきり創り上げたいという立場があってもいいわけです。
それは演劇の面白さの共有をめざした作品の提供ですから、これ自体がりっぱな「思想」であり、
なんなら、これこそが作者の真の主張でありメイン・テーマであると言ってもいいくらいです。
三島由紀夫の『鹿鳴館』は、まさにそうした作品の一つではないでしょうか。
入手しやすい新潮文庫版では、第三者による恣意的な「解説」をきらって、
実際に上演されたときのプログラムを中心に、いくつかの短文が集められ「自作解題」としています。
三島氏は自己韜晦に長けていて、しばしば読者を煙にまいたりしますが、
その一方で、きわめて率直にものごとを語るひとでもありました。
この「自作解題」は正直に語られた例とみて間違いありません。
それによると、『この作品はとにかく、「お芝居」を書こうとしたものだ』と言い、
史実ではその日の天長節夜会は『ここに見られるような事件は絶対に起こらなかった』と明記しています。
また、なぜ鹿鳴館時代に材をとったかというと、
『ノスタルジアに彩られて、日本近代史上まれに見る花やかなロマンチックな時代』で、
『子供のころからあこがれを持っていた』からです。
作者にとって思いっきり想像のつばさを広げ、
面白くて花やかな芝居を作り上げるにうってつけな題材だったはずです。
三島の戯曲で根幹をなすのは言葉です。
ただにセリフが中心の芝居であるというだけでなく、言葉の喚起力にぜったいの信頼をおいています。
第一幕冒頭で、貴婦人たちが「遠めがね」をとおして観兵式を見ますが、
われわれ観客もおなじく「遠めがね」をとおして覗いて見ているような錯覚にとらわれます。
実際には彼女たちのおしゃべりを聞いているに過ぎないのですが。
言葉の贅を尽くし、気のきいたセリフまわしを駆使し、逆説や機知や論理の飛躍を多用して盛り上げる。
朝子が世間の顰蹙を買う行為とは、みずから夜会にデビューして「女主人の夜会」にしてしまうこと、
そしてそれが八方のわざわいを解消する手段であるときいて、花やかに驚かない観客はないでしょう。
朝子は芝居の前半では御殿風の豪華な和装、後半はローブデコルテの礼装となります。
きりりとした性格や才知ともあいまって、女性客はまるで自分も朝子の立場になったようにうっとり魅せられてしまうでしょう。
一方、夫の影山伯爵は、その絶大な権力と人心操作の巧みさによって女中頭やひたむきな青年をたぶらかし、
朝子の思惑をことごとく打ち砕いてしまいます。
ここは『オセロ』をはじめ、過去の傑作の例に事欠かない、芝居として見て最もスリリングな場面。
そしてその権謀術数が冷徹な「政治的判断」からではなく妻朝子への嫉妬からだというのが、
あるいは作者、三島が『セリフの緊張がゆるめば、通俗的なメロドラマしか残らない』と自己解説したゆえんなのかもしれません。
この芝居はあるイデオロギーを表明したのでもなく、東洋と西洋の対立の構図でもなく、
恋愛や青年の純粋の表出でも、権力の暗黒面の剔抉でもありません。
たとえそうしたことを匂わせるような言葉がちりばめられているとしても
それはこの芝居をいろどる、背景でしかないでしょう。
三島は、自分がイメージしている芝居らしい芝居を書きたいと思い(それはたぶん西欧伝来の近代演劇の粋を日本の風土に移植することです)、
そしてみごとに(十全に)作り上げたのです。
それ以上でも以下でもない。
強いてテーマを挙げるとしたら、まさにこのことがこの芝居のテーマであると私は思います。
以上、すべて私見です。専門家でも経験者でもありません。
私の意見がなんらかの参考になりましたら幸甚です。
お礼
お忙しい中回答していただいたのに、お礼が遅くなってしまいまして大変申し訳ござません。 何か伝えたいことがあったというわけではなく、純粋に芝居を作りたいと思っていたということですね。 回答ありがとうございました。