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徳川家光の「冠」の纓(えい)の紋様

家光の肖像画を見てふと気づいたのですが、この紋様は何を意味しているのですか。 例えば、官位とか家紋(徳川家なら葵だと思いますが)とかを表しているのですか。 家綱も同じ紋様です。 また、紋様であるとすれば、紋様の名は何ですか。 よろしくお願いします。 家光の画像(江戸期初期の幕府の財政事情)  http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/Ohedo/Ohedo_syoki.html

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回答No.2

>文様は「文羅」と呼ぶのですね。よく分かりました。 違います。 「文羅」は「文の入った羅」で、「羅文」は「羅に入れる文(文様)」で、異なる言葉なので間違えないで下さい。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご指摘ありがとうございます。 >文様は「文羅」と呼ばれる、特殊な織り方をして入れるのですが、応仁の乱で文羅の技術が失われます。 私の早とちりでした。よく分かりました。

その他の回答 (1)

回答No.1

>例えば、官位とか家紋(徳川家なら葵だと思いますが)とかを表しているのですか。 冠は、朝廷に出仕するときの公式ユニフォームの付属品ですから、律令の定めで文様の有無が決まっていました(五位以上が有文、六位以下が無文) 本来、文様は「文羅」と呼ばれる、特殊な織り方をして入れるのですが、応仁の乱で文羅の技術が失われます。 それ以降は、纓の下部に唐花菱を模した4本の線(霞)を刺繍するだけになりました(霞文、遠文と言う) 江戸時代に、文羅ではなく刺繍で冠全体に模様を施す事が復活し、五位以上は全体に31または33の紋を刺繍するようになります(繁紋冠という) 五摂家には、それぞれ決まった「定紋」があり、公家は自分が属する門流の文を用います。 なお、摂家の門流とならない清華家や源氏などはそれまでの霞文(遠文)を用いています。 また、繁紋冠の復活に合わせ、略式霞の有文冠を「遠文冠(とおもんのかんむり)」と呼ぶようになり、六位以下の料としました。 江戸時代の武家では遠文冠が用いられましたが、文政年間に徳川家が「かつみ」という文様を復興し、宗家と御三家・御三卿が使用するようになります。 家光の肖像画にあるような「かつみ」の文様は、家光の時代にはまだ復興しておらず、家光の冠は遠文冠だった筈です。 しかし、文政以降に描かれた徳川将軍を描いた肖像画には「かつみ」の文様が入っている物があります。 本来、文政以前の徳川将軍の肖像画は、かつみ文様ではなく遠文冠で描かれるべきですが、当時の絵師はそんな難しい事は知らないので「今の将軍様がかぶっている、かつみ文様の冠で描いちゃった」と思われます。 その為、江戸時代の肖像画は、研究が進むうちに「実は別人だった」とか「冠の文様が一致せず、本人の肖像なのか怪しい」なんて事が起きます。 また「絵師が忠実に描いたと言う保証もない」ので「文様が一致しないのは、絵師がウソを描いたから」って事になっちゃってる肖像画もあります。 写真と違って、絵は「ウソを描ける」ので、研究が難しいのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答、真にありがとうございます。 文様は「文羅」と呼ぶのですね。よく分かりました。