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江戸幕府の流罪について
- 江戸幕府の流罪の逸話について調査しました。流刑者への食料や金銭の提供については、親戚縁者や仕事仲間からの差入れがある場合は受け取ることができたようですが、身寄りがない場合は困難であった可能性があります。
- 流刑者を送る船には幕府の役人が同乗し、流刑地には役人が常駐していたとされていますが、具体的な役職名についての情報はありません。流罪者は自給自足が求められていたと考えられますが、誰かが世話をしていた可能性もあります。
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1. 揚座敷(御目見以上の旗本・上級僧侶などの牢)の者は金2両、揚屋(御目見以下の旗本・御家人や中級以下の僧侶などの牢)の者は金1両、平囚人は金2分が幕府から支給されます。 2. 遠島の囚人護送は幕府の水軍にあたる船手組の仕事で、1艘につき船中警固役人3人が同乗します。八丈島には当初は島奉行が常駐しましたが、伊豆の韮山代官の管轄となった1670年以降、韮山代官の手代が代理として赴任するようになり、さらに1726年以降は代官の交代時に一度だけ島内を巡見すればよいことになって、常駐の幕府役人はいなくなりました。かわりに島内の古くからの有力者が代官直属の地役人(島役人)として島を支配しました。同じく流刑地だった三宅島は1638年には地役人の支配となっているようです。 流刑者の直接の世話人というか支配者になるのは、各島に一人づついる流人頭です。流刑者は島に到着後、流人頭に1人2朱の世話料をとられるほか、水代・薪代・家屋代として1人につき2分2朱とられるなど、さまざまな名目で出費を強いられるので、平囚人の場合、幕府から最初に支給された金銭では足りず、着ている衣服や所持品などを金銭の代わりにして文字通り丸裸になり、朝夕に家々を物乞いして命をつなぐ乞食同然の生活になったりするそうです。 島到着後の流刑者は各村落に割り振られ五人組の預かりとなります。当面は五人組の世話になって農漁業の手伝いをして暮らすようです。 <参考> 山本清司「関東幕領に於ける遠島刑」 https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=10672&item_no=1&page_id=13&block_id=83 八丈島流人アーカイブスの概要調査報告 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report05_01.pdf 三宅島役所(都指定史跡) 東京都文化財情報データベース https://bunkazai.metro.tokyo.lg.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=607
お礼
ご回答ありがとうございます。 詳しく調べて下さって真にありがとうございます。 よく分かりました。 添付のURLは、どれも私の知りたいことにピタリです。 特に、東京都公文書館「八丈島流人アーカイブスの概要調査報告」は、読みやすくて,大変参考になりました。 お金に食料、それに病人には薬まで渡しているのですね。 「お上」とは非情なものだと思っていましたが、考え直しました。