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征夷大将軍について
もともとはかつての東北のいざこざを収めるために与えられた職だと記憶しています。 なのになぜ幕府をひらく人たち(源頼朝~徳川家康)は征夷大将軍の位を得なければならなかったのでしょうか?つまり征夷大将軍にならなければ幕府はひらけないと解釈していいのでしょうか? 教えてください!
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そもそも,幕府とは,武家を中心とした全国的な組織を持った政権、政治体制と定義される。政治機構としては幕府と呼ばれたことなどは,鎌倉も室町はその当時ない。もちろん江戸時代もほとんどの時期、幕府と呼ばれていない。今日われわれが使っている学術用語としての「幕府」という言葉は江戸時代後期に学者が作った言葉。よって、一般の武士や庶民が使っているわけではなかった。 征夷大将軍でなければ,幕府は開けなかったのかと言うと必ずしもそうとは言えない。そもそも頼朝は征夷大将軍自体単なる名誉職程度。、幕府に必須の役職と考えていなかった可能性もある。だから、頼朝は1195年に、征夷大将軍を辞任・返上している。それでも実際の武士たちに対する権力は変わらなかった。 征夷大将軍が後世、天下人を意味するものとなったのは、頼朝がその官位の栄誉を重んじ、その地位を浮上させたからに過ぎない。四位の大夫でも任官できるものを,頼朝は将軍宣下という形で与えられた。頼朝は独自の政権を作りたかったが、源氏の名門だし,無官でいるわけにもいかない。むしろ、官位は東国武士の上に権威的な象徴として存在するためには,何らかの官位にあるべきだった。 しかし、朝臣は国司以外は在京するのが当時の慣わしでさもなくば、都を捨て一豪族に成り下がるかだ。 令外の官は,朝廷の権威も付随する反面、京官はじめ国司と違い、任期はないし、独立性を保てた。あの官を望む理由があったということだ。 武家政権の首長は,必ず征夷大将軍でなかればならないのかと言えば、その必要はなかった。 1195年に頼朝は征夷大将軍の辞表を提出しているし、その子頼家が征夷大将軍になったのは、父のあとを継いで3年後である。1203年に頼家の弟実朝が兄のあとを継ぐと同時に征夷大将軍に任ぜられ、それ以来武家政権の首長と征夷大将軍とが一体のように考えられるに至った。しかし鎌倉・室町幕府ではその首長が幼少のため、元服して征夷大将軍になるまで、征夷大将軍を欠くようなことは珍しくなく、とくに九条頼経、足利義政などは首長の地位についてから征夷大将軍となるまでの期間が6~7年に及んでいる。
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- o24hi
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こんばんは。 「征夷大将軍」は天皇が与えた官職の一つで、武士の中では最高位とされていました。ですから、「征夷大将軍」に任命されたと言うことは、名実ともに武士の最高位になったということですね。 ここからは、薀蓄と思って読んでやってください。 「幕府」と言う言葉は、後世の人間が勝手に付けた呼び名で、鎌倉にも室町にも江戸にも、当時は「幕府」はありませんでした。勿論、「幕府」と言う組織も、建物もありません。当時の人に「鎌倉幕府はどこですか?」と聞いても、皆「?」です。 ちなみに、織田信長は「征夷大将軍」になっていません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
お礼
お返事ありがとうございます! さらに薀蓄までありがとうございますw 上のかたもおっしゃってますが、幕府っていう呼称はなかったんですね~。初耳です。
- ma09
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軍政時における軍隊の大将ということでしょう。
お礼
ありがとうございます! 何人か言われていましたが、武士のトップとしての名誉職なんですね。大将というと親しみがあるなあw
こちらをご覧ください。
お礼
さっそく参考にさせていただきました。 ありがとうございました!!
お礼
さっそくのお返事ありがとうございます! はは~、なるほどそういうことですか。結局は武士のトップに立っているという名目が欲しかったわけですね。なるほどなるほど。