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民主主義 軍国主義化
日露戦争から満洲事変までは、民主主義を求める運動が盛り上がると共に、軍国主義化が進んだ時期です。一見すると相反する2つの力はどのように生まれたのか?
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「満州事変までは」とされると若干時代的にずれがあります。 盧溝橋事件(1937年)ぐらいまで期間を広げたほうが理解し易いかと思います。 民主主義とされておられますが、現在一般的にイメージされている民主主義と当時繰り広げられていた運動とはことなります。 大正8年(1919年)の選挙法改正に伴って始まった普通選挙獲得運動だけが民主主義を求める運動ではありませんでした。 直後の大正11年(1922年)に日本共産党が結成されていたことに注意して下さい。 第一次世界大戦の結果を受けて成立した国際連盟に大正20年(1920年)に常任理事国として加盟しています。 その後海軍制限条約などが結ばれ、軍縮が世界情勢となりました。 同時に国内でも軍の縮小が図られいます(4個師団削減) 軍人が極めて肩身の狭い時代でした。 所謂軍国主義が台頭してくるのはこの時期以降です。 顕著になるのは満州事変以降です。 それ以前に外交手段の一つとして軍隊の出動などがみられるのは、現在のアメリカやヨーロッパ諸国が軍隊を国外へ派遣しているのと同じで、軍国主義思想とは異なりますので注意して下さい。 現在の中高等学校での教育では、軍隊を国外へ出動させた行為を全て軍国主義と一括りにして学ばせていますが、ある意味では行き過ぎです。 植民地主義の後を受けた帝国主義の時代には、軍隊の出動というのはごく普通の外交手段として使われていました。 経済も政策もなにもかも軍備優先として思想統制の道へ進むのは満州事変以降のことです。 この間に社会主義思想が急激に広がりました。。 大正9年(1920)から始まった経済不況やそれに追い打ちをかけるようにおきた昭和2年の金融恐慌などの影響があります。 大正2年(1917)のロシア革命に続く大正11年(1922)ソヴィエト連邦成立の影響も色濃くありました。 昭和恐慌とよばれる大不況で農村が困窮のどん底まで落ちて完全に疲弊しました。 結果として、資本主義経済は限界とされてロシア革命を受けた唯物論やマルクス理論など社会主義、共産主義の思想が華やかに展開されていました。 プロレタリア運動などと呼ばれ、あらゆる分野で運動が展開されていました。 政治や思想だけではなく芸術や文化活動の面でも繰り広げられていました。 単なる普通選挙獲得運動とは異なります。 この大不況からの脱出方法が社会主義化か軍国主義化かという二つの道に分かれ、軍国主義が優勢となり第二次世界大戦へと突入することになりました。 軍主導で徹底的な思想統制と弾圧を行いました。 この反動で第二次世界大戦後には、社会主義思想が復活して戦前は暗黒時代で何事も全て軍国主義がもたらしたのだ、という教育が盛んに行われ今日に至っています。 ここで注意して戴きたいのは、当時の社会主義も軍国主義も全体主義であったという点です。 現在のような個人主義というか個人の人権を最大限に尊重する民主主義とは異なりますので注意してください。 昭和40年代ごろまでは戦後民主主義という言葉がありました。 明治末から昭和初期の民主主義とは区別して議論されていました。 超々大雑把な説明でした。 いろいろ誤解も生じるかと思いますが、第二次世界大戦前の民主主義運動なるものと、現在の民主主義とは多々異なる点があったことをご理解願います。 もしお時間があれば以下のような書籍がありますので一度目を通してみて下さい。 昭和精神史 桶谷秀昭 文春文庫 戦争と知識人 北河賢三 日本史リブレット65 山川出版社
相反はしませんよ。 民主主義は政治体制であり、軍国主義は国家戦略ですので、 国民が国家の軍国化を承認すれば、軍国主義的民主主義が成立します。 大日本帝国は「富国強兵」をスローガンに、独立を守るための軍備拡充をめざしていましたので、 軍国主義に染まるのは不思議な事ではありませんでした。 明治維新後(というよりは幕末)、大日本帝国政府が痛烈に認識したのは、 「世界地図のどこを見回しても、欧米列強の植民地でない場所は日本と中国くらいのもの」 (タイなどの独立国もありましたが) ということでしたので、「まずは何よりも独立を守るだけの戦力と国家体制を」と「富国強兵」を進めました。 善悪は別として、この判断は自然と発生するものだろうと思います。 まぁ、その後、中国の利権を求めてアメリカにケンカを売ったのは愚かとしか言いようがありませんが。