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黒田官兵衛と勝海舟
黒田官兵衛と勝海舟はよく似ていると思うのです。現代人から見てもなるほどと思えるほどの、時代を超える傑出した知性と行動力で。まるで生まれ変わりのようです。 しかし、氷川清話や海舟座談などを読んでも、海舟が官兵衛に言及している言葉は一つも見当たりません。古今東西の人物評を多くしているのに、自分とそっくりな、あるいは彼を目標としているかのような海舟が特に何も言っていないのは何故でしょう。 変な質問ですが、お付き合いいただける方は、どうぞよろしくお願いします。
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え、先見性や戦略性行動力でいえば その年代なら織田信長の傑出っぷりは半端ないでしょう…。 無理やりそのふたりをこじつけて比べてるだけで、あんまり 正当性が見いだせませんね。 その時代の活躍した人たち並べて比べてそれで共通点が多いなら 納得するんですが、ほかの人たちの中で似てる人いないと思うの? あと、黒田官兵衛のこと非保守派と称して 勝海舟のこと保守派と言うなら、それだけでもう違うでしょ。 考えてみれば黒田官兵衛は使えた先を二度変えてるし 最終的にはトップ取ろうとしたわけで。(関ヶ原が予想より早く終わってポシャったけど) もっと綿密に比べて話を聞かせて欲しいですね。
- eroero4649
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質問者さんのイメージする官兵衛は、大河ドラマのイメージじゃないですか?あの官兵衛は実像どころか、歴史ファンのイメージとも大きく逸脱した「同じ名前の別の人」です。 歴史ファンのイメージする官兵衛はもっと腹黒い人です。 官兵衛に関する有名なエピソードのひとつに、本能寺の変を知って動揺する秀吉に「次の天下人はあなたですぞ」といった、というのがあります。これは大河ドラマにあったように「落ち込む秀吉を励ました説」の他に「それは秀吉も内心分かっていたけどそれをわざわざ人前で得意げに口にしたので逆に秀吉に『こいつは知恵者だけど油断がならない』と警戒された説」というのもあります。 また秀吉の晩年に官兵衛は引退して黒田如水と名乗ります。この如水という名前が曲者でして、引退したのも秀吉が「官兵衛が天下を狙うのではないか」と疑って千利休や豊臣秀次のように粛清されるのを恐れたからだといわれています。つまり秀吉も官兵衛を「こいつは諸刃の剣だ」と警戒していたということなんですね。そして隠遁して名乗ったのが「如水」。水のごとしということで、つまり「明鏡止水の心境です」とわざわざ名乗ったのですね。秀吉の警戒心をそらそうという意図が見え隠れします。 ところが肝心のご本人はちっとも明鏡止水ではありませんでした。関ヶ原の合戦のとき、九州は主だった武将がほぼ全員お留守だった「戦力の空白地帯」だったんですね。官兵衛はまずは手近な手勢を集めると、たちまちのうちに北九州をほぼ制圧します。おっとり刀で毛利氏の支援を受けた四国勢が大分辺りに上陸すると、追い出したりしていまして、もし関ヶ原とその後の戦役が長引いたら島津家の支配圏内を除く九州のほぼすべてが官兵衛の支配下になった可能性があります。 ところが現実はご存じの通りたった1日の戦いで決しまして、すると官兵衛はするっと「これ、家康様のためにやったんす。だから占領地域はお返しします」といって手を引いたのです。 しかし腹に一物抱えていたことはこんなエピソードで明らかです。息子の黒田長政は関ヶ原の合戦で徳川方として奮闘したのですが、父の官兵衛にあったときに「家康公は私の右手を取って感謝してくれた」と自慢したのです。すると官兵衛は不機嫌そうに「そのときお前の左手は何をしていたのだ」と返した、というんですね。「家康が死んでたら黒田家に天下取りのチャンスがあったのに、お前はばかなやつだ」と思っていたのかもしれません。 他にも、いよいよ晩年になると突然に周囲に当たり散らすことが多くなり、長年の家臣に対してもいいがかりをつけるようなことがでてきて、みんな家臣たちが官兵衛と距離を置くようになったそうです。心配した息子の長政が父親をたしなめると、「ばか、俺が家臣と親しくしたらみんなが俺を慕ってお前のいうことを聞かなくなるだろうが。黒田家を内部分裂させないために俺から人心を離しているのだ」と答えたというのです。 頭がいい人かもしれないけど、可愛げがないというか、いかにも油断ならぬ人物、という感じですよね。 それに比べれば勝海舟はもっとなんというか、軽率というかいかにも江戸っ子気質です。少なくとも徳川家にとって代わろうとか、ここで新政府に恩を売って自分の立場を作ろうといういやらしい下心はなかった人です。 維新後に仕官の求めが来ても「負けたところの中心にいたやつがそんなことしたら『あー、やっぱアイツ自分のためにやったんじゃん』っていわれるじゃん?それって俺の美学に反するよ」といかにも江戸っ子らしいことをいって断っています。 それでも我慢できずにインタビュアーがくると得意になって自慢話をしちゃうあたりがこれまたいかにも江戸っ子らしいですね。深謀遠慮って点においては、腹の内を決して見せない官兵衛とあけっぴろげな海舟では、似てるといったら官兵衛が「俺はあんなに軽率じゃない」と不機嫌になりそうです・笑。 ま、おそらくは勝海舟自身が黒田官兵衛という人物を知らなかったと思います。江戸時代においては戦国時代って案外マイナーテーマなんですよ。よく歌舞伎で引用されるのは鎌倉時代の人物だったりしますから、そっちのほうが当時の知識人には身近だったのではないかと思います。鎌倉時代については「吾妻鏡」のような通史があって江戸時代にも研究されていたようですが、戦国時代の公式資料ってのはないですからね。「絵本太閤記」とかそんなもんじゃないかしら。大阪ならまだしも、徳川将軍のおひざ元の江戸で秀吉の物語がおおっぴらに語られるのはやっぱり憚られてたでしょうしね。官兵衛自体も、私が歴史に興味を持ち始めた30年くらい前は「ツウが知るいぶし銀の人物」って感じでそんなに有名ではなかったですしね。
お礼
頭のキレる人達だったという共通点はあるでしょう。それが人によっては、「腹黒い」と見えるのです。「笑点」の腹黒と言われている人はいちばん切れる回答をしている人です。(笑) 余談はともかく、回答者様が答えられたのとは逆の事例が双方にたくさんあります。上げればきりがないくらいに。 官兵衛が「ツウが知るいぶし銀の人物」なら、 海舟は「玄人人気の人物」と言われ、 やっぱり、似ていますね~。
- titelist1
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似ているとは思いませんが、共通点は男系の先祖が武士ではないことです。坂本竜馬もそうです。商才が知性や行動力に反映されているかもしれません。
お礼
なるほど。財を成した先祖は、高利貸しと目薬屋ですね。 自然と「合理的思考」が育つ家系です。
- edo_edo
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300年近くも前の人など知るはずがありません しかも文献を海舟は見れませんから、知る術もないし そもそも考え方も何もかも違う人なので、考えもしなかったでしょう 黒田官兵衛は、保守派、勝海舟は改革派で、まったく正反対の考えの人ですよ
お礼
海舟は蟄居中に学問が仕上がったと言っています。文学から歴史、経済まで幅広く読んだようです。戦国時代の人物評などもしていますし、信長を討った明智の家来の今ではあまり有名でない人物の功績なども述べています。 黒田官兵衛は、中国地方にいていち早く信長側に付くことを主張したのは保守派とは言えないでしょう。 海舟はあくまで武人としての蘭学・海防・海軍に進み、幕臣としての筋を通した人です。和魂洋才のような、保守的な面もあった人です。
似てるかなあ。姿勢も行動動機も全然違うように思えるけども(時代が違うからしょうがないけど)。 時代を越える傑出した能力を発揮したのはその二人だけではないし。 どの部分が特に似てるんですか?
お礼
先見性、戦略性、行動力などです。 同時代の中でこれらが二人とも傑出していたと思います。
補足
キレる中でも、「逆説的叡智」で切れるところが似ているのだと気づきました。 黒田:大親方・信長の死 → 武運が開けましたぞ! 沼地で攻めにくい → 「水攻め」で攻め易い。 勝 :攘夷論の大流行 → 海軍興起と貿易と東アジア三国同盟 長州藩の攘夷決行 → 一戦必敗論=挙国一致体制誕生の期待
お礼
なるほど、そう言われてみて気づいたことがあります。 それは、「組織のトップではない切れ者がいかに生きるか」という前提で人物を見ていたという自分の性癖です。確かに信長の天才ぶりは傑出していますね。 黒田官兵衛は仕える人を二度変えています。最後にトップも取ろうとしました。そこは勝とは違います。おっしゃる通り。 綿密に比べれば、もともと別人なので、違いは必ず出てきます。 でも似ていると思うのは何故でしょう・・・?(自問です)