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江戸時代は自首や知能障害を理由に減刑されましたか
左翼や人権派のいなかった江戸時代は、事件発覚前の自首や、知能に障害があることを理由に刑罰を軽くする決まりや、紙に書かれてなくても実態としてそうなっていたことはありましたか。
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有名なのは私も時々ここでネタにする「八百屋お七」の事件です。八百屋で働くお七という女の子が愛しい男性に会いたいがために放火をしたという事件です。放火というのは古今東西を問わず非常に刑罰が重いんですね。現代日本でも最大でなんと死刑にもなってしまいます。 で、このお七ちゃん、15歳でした。当時の法律では15歳を越えると大人と同じ刑罰の対象となります。14歳以下だと未成年扱いになるってわけ。そして放火罪は死罪でした。 そこで奉行はお七ちゃんに対して「お前は14だな?」といったんです。もし彼女が自ら「14歳です」といったら奉行にウソをついたことになるので不届き千万、となります。しかし奉行が14だねといったのであれば、もしそれが間違いだったとしても間違ったのはお上だからお七ちゃんは悪くないということになりますし、まあまだ戸籍が曖昧な時代ですから1年くらい間違うのはよくあることだったでしょう。 もし彼女がそれに対してただ「はい」とだけ答えれば彼女は死罪になることはなかったでしょう。まあ無罪というわけにもいきませんが何らかの軽い処罰で済んだことでしょう。江戸から離れた場所のお寺に預けられることになったとかね。しかしお七ちゃんは「いいえ、私は14です」といったので、さすがにそういわれたら奉行も救ってやることはできずにお七ちゃんは刑場の露と消えました。 これは一例ですが、割と江戸時代の刑罰には情実が入ることはありました。よく「三両盗むと首が飛ぶ」といわれましたが、それとても決められていたわけではなく、「そうらしいよ」と町人たちの間で囁かれていたに過ぎません。 悪くいえば、今の中国の裁判と同じで線引きがよく分からないのです。
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- issaku
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未も蓋もないので恐縮ですが、率直に回答しますと、「法律なくして犯罪無し」である基本的人権を背景にした罪刑法定主義の現代と、共同体の利害調整と秩序維持を背景にした罪刑専断主義の近代を、その結果としての事例だけ比べてみても、双方に共通する客観的な論理を導くという目的にとっては全く意味が無いです。 「断罪無正条」とか「不応為条」などといった類推適用・情実裁量の規定がある律令以降近代では、同じ犯情でも全く相反する罪刑が下されるという前提があります。 だから、一般化、ひいては客体化が出来ないわけです。 統計的分析から傾向を導く方法もありますが、一次資料の質と量を想定するに、分析にはかなりの困難があることでしょう。 自首に関しては捕吏の能率を助けるという実利的側面からも情状酌量が得やすい傾向があったことは推察できますが、知的障害者については前提となる障害の判断基準の存在からして甚だ不明瞭です。 記録自体、身体障害者に関する事例は(主に加害者でなく被害者として)しばしば見当たりますが、知的障害者となるとほとんど見当たりません。 実際のところ、類似の研究がなされているかどうかということになりますが、私は見た事がありません。 もし質問者さんの目的が、とりあえず個別の事例を挙げてそれを主張の印象面の補強に使おう、ということであれば少しは役には立つでしょう。 しかしそれをもって、例えばいわゆる人権派に論難を仕掛けようなどしても、単に論点をぼかすだけの結果になるでしょう。(議論は横に広がるだけで収斂しないはずです) そもそも、基本的人権という思想に基づく制度(制度上に許された慈悲や融通ではなく「人権を原則として尊重する制度」のこと)が存在しない時代の例を引き合いに出されて主張を覆すような「人権派」など居ないでしょう。 そもそも論を持ち出すついでに、敢えて書いてしまいますが、人権派、特に左派の場合、知的障害者に責任能力を認めない現行制度には本来的に反対の立場である人が多数派です。 これは、明治の国民国家の成立時に知的障害者は「法的無能力者」として国民の枠外に置かれて疎外されたものでありその流れで規定された刑法もその権利剥奪の一面である、という考えが多く支持されているからです。 人権派のひとくくりで死刑反対論などと混同されがちですが、右派同様、そんなに単純ではないということです。
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ありがとうございました。
先ずご理解頂きたいのが、現在とは法というものに関する考え方が基本的に異なるということです。 更に社会制度が身分にかかわらずすべてが相互扶助相互監視の時代でした。 つまり個人ののみが処罰されるということはなかった時代だとお考えください。 取り調べは本人の自白が原則です。 現在のように科学捜査という手法がゼロの時代です。 自首は自訴と呼ばれ内容次第で裁判にかけるか否かを決めました。 裁判となれば、自訴も自白も同じことですから成り行き次第でした。 知能障害などという医学的考え方が存在しない時代です。 正常な受け答えや対応ができないから許すということはありませんでした。 これを許せば幾らでも演技できてしまいます。(心理学も精神科もない時代です) すべてが連帯責任を基本とした社会制度ですから、現在のように個人だけを対象とした判決というのはありませんでした。(刑の重さは当然それぞれ異なります) 自訴するということは、親兄弟は元より、町内の全員と町内の地主、家主にまで刑罰が及ぶことになりますから、簡単に個人の意志だけではできませんでした。 これを無視して勝手に自訴したら、どこからも情状酌量の恩恵を施してくれるような人は現れませんでした。 知能障害者は異常者を放置していた、ということで周囲の人達が連帯責任を取らされました。 基本的な刑罰の種類については定められてはいました。 但し、内容は公表されていませんでした。 「犯罪を犯せばどのような刑罰に処せられるかわからない」という恐怖心を煽り犯罪を抑制する秘密主義を採っていたことによります。 まさか、と思われるかも知れませんが、TVの時代劇に出て来る岡っ引き(御用聞き)も同心も与力も正式には内容を知りませんでした。 時が経つにつれて、このレベルの犯罪であれば、この手の刑罰が下される、という前例を積み重ねることによって概要を理解していました。 岡っ引きの判断だけでチョットコイとやるのが治安維持には結構役立っていました。 因縁を付けられてはかないませんから、自ずとお互いに注意しあいます。 どの刑を適用するのかは奉行と呼ばれる役職の人の権限でした。 ただし、死罪、遠島など人命に関わる判決は幕府の最高機関である老中で審議され将軍の認可が必要でした。 それに次ぐ刑罰であっても必要に応じて、町奉行、寺社奉行、目付、大目付などによる合議制が基本でした。 お芝居の八百屋お七のように放火という重大犯罪の場合に、お奉行様一人の裁量では処理できない仕組みとなっていました。 更に裁判権と司法権を持った役所が複数ありました。 TVの時代劇や時代小説によく出てくる、町奉行所と呼ばれる役所です。 現在でいえば財務省に当たる、勘定奉行所にも裁判権と司法権(警察権)がありました。 寺社に所属する僧侶や神官などの人達とその敷地内でのトラブルに関しては寺社奉行に裁判権と司法権(警察権)がありました。 旗本、御家人などの幕臣の犯罪行為は目付と呼ばれる人達に裁判権と司法権(警察権)がありました。 大名家の家臣については、幕府は一切手が出せませんでした。 この大名当主を管理統括する大目付というのがありました。 大名の家臣が市中でトラブルを起こすと相当に厄介なことになります。 家中取り締まり不行届きで幕府の領民である町民に迷惑をかけた、ということで即刻お殿様が呼び出されてしまいます。 こうななっては大変ですから、有無を言わせず屋敷内で処罰してしまいました。 要は犯罪を犯した人物が、どの役所が管轄する人間で、どの役所の所掌範囲の犯罪であるか、ということで変わってしまうということです。 江戸や大阪 京都のように複数の身分の連中が日常的に肩を接して暮らしている都市部では犯罪者の裁断というのは簡単な話ではありませんでした。 それでいながら治安が維持できたのは、相互扶助相互監視という社会制度によるものです。 村落であれば所属する村落内で、都市であれば居住する町内で、合議の上で問題が解決されていました。 現在のマンション暮らしの感覚では三日も持たないでしょう。 TVの時代劇のように得体のしれない盗賊や浪人者がウロウロできる社会ではありませんでした。 困窮した浮浪者でも、キチンと取り締まるグループが公認されていました。 戸籍から排除された無宿人がテクテク旅を続けるのはこの為です。 留まれば直ちに排除されてしまいます。 下記をご参照ください 江戸時代の罪と罰 - nifty homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm 「死刑執行人」――日本(江戸時代) - Arsvi.com www.arsvi.com/d/c0134c.htm
お礼
ありがとうございました。
- kamobedanjoh
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NO.1 さんの回答の中にやや不正確な部分がありますが、他者の回答を批判したく有りませんので、それについてはご自分でお調べ戴くとして・・・。大筋、賛同します。 森鴎外の『高瀬舟』を読んだ時には、『何とか救ってやりたい』と、沈痛な思いがしました。現代なら自殺幇助、情状を加味すれば、有罪でも執行猶予が妥当でしょう。 同じく鴎外の『最後の一句』では、死罪を言い渡された桂屋太郎兵衛が、死罪御赦免大阪追放となっています。 鴎外作品には史実にもとづく事件が多く取り上げられていて、これらも、何らかの記録文書からヒントを得た作品と思います。 芥川龍之介の『剃刀』を読むと、散髪に行くのが怖くなります。客の喉笛を掻き切った犯人にどのような刑罰が科せられたかは兎も角,今日では心神喪失または精神障害で無罪かも知れない殺人事件でした。 いわゆる『乱心者』は罪科を免じられ、座敷牢などへの閉じ込めに処されていたようです。 江戸時代にも、状況によっては『罪一等を減じる』処置が行われていました。 赤穂の殿様は、乱心者として扱われなかったので、討ち入り事件にまで発展してしまいました。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。