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日本の全ての時代で江戸時代が最も栄養状態が悪い理由
平和で、しかも国民の8割が農業または漁業に従事していたのに「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」と書かれている。江戸時代の日本人の栄養状態が戦国時代や平安時代より悪かったのはなぜでしょうか。 過去質問によると江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか。 何割までと定めたルールは現実には守られず、武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか? 教えてください。
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江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。 日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。 人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。 平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます) 鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。 戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大しています。 栄養状態が悪い状況下で長期間に渡って人口が増加するということは考えにくいのではないのでしょうか。 頭蓋骨の形も上から見て丸くなったり楕円型に長くなっているそうです。 人骨や烏帽子などから鎌倉時代の人達は、楕円型に長かったようです。 このようなことからすると、鎌倉時代の人達は欧米人に近い体型だったようです。 江戸時代は丸かったそうです。 小柄で丸顔で鼻ぺちゃが江戸っ子の平均的な人相だったようです。 面長な花魁がもてるわけです。 このように時代によってサイクル的に変化する理由については未だに定説がありません。 江戸時代の農村は決して貧しくはありませんでした。 貧農史観というのは、明治政府が自己の正当化のために江戸時代を卑下中傷した結果です。 さらに、第二次世界大戦後の左翼系思想家が自虐的史観のなかで喧伝しました。 明治時代の方が農村は疲弊していました。 江戸時代の年貢の税率が一見高かったのは、帳簿上の数値の上でだけの話で、実行税率は低下しています。 困窮していたのは武家層です。 武家の財政は幕府、大名のみならず御家人にいたるまで破綻していました。 貧農史観のように農村が貧しかったというのは、郷土芸能が盛んになり伝承されてきた事実と辻褄があいません。 食うや食わずの人達が踊りや民謡にせいを出すとお考えでしょうか。 祭りの行事などを金をかけて200年も300年も伝承できたとお考えでしょうか。 武家が盆踊りをしたり村芝居をしたなどという話は寡聞にして知りません。 下記サイトをご参照ください。 石高 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/石高 江戸時代の百姓は本当に貧しかったか? www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm 百姓の年貢負担は重くはなかった www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-19.htm 下記のような書籍も出版されています。 貧農史観を見直す 佐藤常雄/大石慎三郎 講談社現代新書 農民一揆も左翼思想家がいう階級闘争ではありませんでした。 農村の内部というのはピラミッド構造をしていて農民どうしで経済力に著しい差がありました。 年貢徴収の実務は、富裕層の農民からなる名主(庄屋)を頂点とした自治組織が担っていました。 年貢も個人単位ではなく、村落単位で課税されていました。 低所得者層は年貢納入の義務からは外されていました。 むしろ富裕層の農民に対する低所得者層の農民の不満が蓄積された結果のものの方が多数を占めています。 なかには、なれあい一揆もありました。 下記サイトをご参照下さい 本百姓 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/本百姓 水呑百姓 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/水呑百姓 一揆の実態については下記のような書籍があります。 一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで 呉座勇一 洋泉社 こんなコメントがある書籍です。 一揆からイメージされる、権力(悪代官)に立ち向かう民衆(正義)という単純な勧善懲悪的なものではなくけん制、戦略、取引、なれ合い、デモンストレーション、平等性の演出とか、一揆の中にそういう生身の人間の様子が感じられたのは興味深かったです。 >江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか 馬車 車輪を使った移動手段は平安時代までは牛車がありました。市中専用でした。 車輪を使った移動方法というのは、大陸のように固い平坦地が続く地形では有効です。 山岳と起伏に富み、急峻な河川と沼沢地に囲まれた日本列島の地形では恐ろしく効率の悪い移動手段です。 日本中に隣の村落へ行くのに川を渡らずに行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。 橋は台風などで年中行事のように流されます。水量の増減が激しいのが日本の河川の特徴です。 コンクリートのダムなど無い時代です。 同じように峠を越えることなく隣国へ行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。 石の無い砂地だけの河原を持った河川がどれだけありますか。 馬車をひかせるよりも、背中に乗せた方がはるかに移動が自由です。 アスファルト道路も高速道路もない時代です。 船 軍船以外には特に規制はありませんでした。 下記に述べる理由により、交易船の難破沈没が多かったことから、リスク分散の観点と経済効率から700石~800石程度が主流で最大でも3000石のものが数隻あっただけです。 理由 (1)日本の沿岸海域は潮流が複雑であることは世界的にも有数のものです。 詳しくは下記サイトをご覧下さい 黒潮の組織的渦構造と沿岸水域環境との間の乱流論的プロセス library.jsce.or.jp/jsce/open/00008/1996/43-0411.pdf 海洋スケールの渦現象 www.nagare.or.jp/download/noauth.html?dd=assets/files/downlo... 一たび黒潮の外へ流されればあとは太平洋があるだけです。 生きて帰れる保証はありません。まして積荷の保証は不可能です。 夏季には南方海上で発生した台風が来襲します。 季節の変わり目には長期間にわたって前線が停滞します。(梅雨前線、秋雨前線) 天気予報技術が未発達な状態で、天候の急変、風向きの急変、突風などの予測は人間の勘以外に頼るものがありません。 (2)海外への渡航が制限されていた結果、大型外洋船の需要がありませんでした。 (3)港湾設備が未発達であったことから、喫水の深い船は接岸できませんでした。 これらの理由により下記のような独特の構造の船が発達しました。 洋式帆船と和船の違いは下記のサイトをご覧下さい 洋船と和船のちがい - 日本財団 図書館 nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/003.htm 大きな船を作る技術が無かったわけではありません。作れなかったのではなく作る必要がなかったためです。 伊達政宗が1613年に派遣した慶長遣欧使節団が太平洋を渡るのに使った洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号は日本人の船大工が作ったものです。伊達藩での使用が終了した後はヨーロッパへ回航されて長く現地で使われていました。 車両にせよ船にせよ国防上の理由などというものは何処にもありません。 >農業・魚業には何か制限や制約はありましたか 特別なものはありません。 当時の海も川も池も沼も清潔でした。農薬だのなんだのと化学薬品が混じることはありませんでえした。 江戸だろうが大阪だろうが街の傍の海へ入れば魚介類はいくらでもとれました。 時には江戸湾(現東京湾)でクジラが採れることもありました。 潮干狩りは子女の季節の楽しみの一つでした。 内陸の池や川にはどじょうもたにしも潤沢にいました。子供でも採れます。 ただし、クール宅急便がありませんし、家に冷蔵庫もなかったので、内陸部で海の魚の刺身を食べるのは難しかったです。 ただし、干物は潤沢に出回っていました。 川魚はどこでもいくらでも採れました。 大阪と松前を往復していた北前船の主要な荷物は身欠きにしんでした。 食べるだけではなく綿の肥料にも使われていました。 現在でも関西ではぼうだら(干だら)は正月には欠かせない食材です。 関西料理の出汁は昆布です。昆布も鱈も鰊も大阪湾では取れません。 物流の発達した江戸時代が、それ以前の時代よりも食材が不足していたなどという史実は寡聞にして知りません。 >武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか? このようなバカ侍は希少価値がありました。 武家というのは米がすべての生活の基本です。 武家は米を金に換えて生活していました。 自分の生活を支えている農民を虐待する意味はどこにもありません。 農民が自領から逃散(逃亡)されてしまえば、翌日から飢え死にするのを待つだけになります。 この逃散という手段は結構つかわれました。 逃げ込んだ隣の大名は労働力が増加して新田の開発が促進できることから喜んで迎え入れました。 下記書籍に詳し書かれています。 逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 宮崎 克則 (中公新書) [新書] 以上がざっとした説明です。 なにかご質問があれば、補足をお願いします。、
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- oignies
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江戸時代に栄養状態がわるかったのは江戸に住んでいる庶民のはなしだとおもいます。長屋ずまいなどかなり苦しい生活をしていたらしいので。 日本列島全般についてまた階層とわずについていえば、江戸時代のほうが平安時代よりわるかったというのは信じがたいです。山上憶良の貧窮問答歌とかよむと、食べ物もほとんど食べられないくらい税金でもっていかれた庶民の生活ぶりがかかれていますから。
- eroero4649
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一言でいえば、「偏食になったから」だといえます。 なぜ日本人が小柄になったのかというと、単純にいやあカルシウムをとらなくなったからです。カルシウムをとらないと骨が育ちませんからね。 おそらく質問の発端になったのは、出土した日本人の骨を見ると江戸時代の人より縄文時代の人のほうが平均身長が高いとかそういう話だと思いますが、例えば縄文時代の人は動物を狩猟して食べたりいろんなものを食べていたんですね。平安時代には乳製品を食べたという記録が残っていたりします。 ところが江戸時代に近づくにしたがって日本人はお米大好き民族と化していきます。誤解を恐れずにいえば、お米以外を食べなくなっていくのです。 お米というのは特に玄米の場合は完全栄養食品といいまして、それだけ食べていれば死なないのです。不足するのはカルシウムとタンパク質ですが、日本人はタンパク質の不足は大豆で補っていたわけです。ところが、カルシウムだけは補えなかった。カルシウムをとるなら、肉か乳製品をとるしかないのですが、酪農がほとんど流行らなかったので必然的にカルシウム不足の状態となり、結果、背が低くなったのです。 なにしろお米ときた日にゃ、まず生産効率がいい。1粒の種もみから、何十粒ものお米が生産できます。さらに、土地が痩せない。小麦の場合は畑を休ませないと、連作をすると生産効率がガクッと落ちます。でも田んぼは連作しても大丈夫です。 さらにお米は甘味が強くて美味しくて、玄米ならそれしか食べなくても栄養不足による病気にはならないので、いつしか日本人は米しか食べなくなっていくのです。お米と野菜しか食べなかったといってもあまりオーバーではないほどです。あとは味噌や豆腐のような大豆製品でタンパク質を補っていました。 魚は、沿岸地域しか手に入りません。その上日本海側は冬は漁に出られないし、太平洋側も台風やらなにやらで海が荒れることが多く、気候が安定した内海なんてのは瀬戸内海くらいしかないので安定した供給源にはならないのです。 そして江戸時代にお米LOVEが嵩じすぎて、明治時代となって精米技術が全国に普及し、日本人が玄米から白米に主食が変わるとビタミン不足による脚気が国民病として一気に全国に広まったのです。 その脚気の原因は、栄養不足説と細菌原因説に真っ二つに分かれ、栄養不足説をとった海軍が採用したのがカレーライスなのです。海軍は最初はパンを水兵に食べさせようとしたのですが、「あんなもんを食うくらいなら死ぬ」というアレルギー反応があまりに強くて困って、「じゃあ野菜をごった煮にしてご飯にかけて食べよう」という案になったのです。
- chiha2525
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ソースが良く分からなかったので検索してみましたが、都内で出土した江戸時期の骨が根拠のようですね。 そうなのか、という思いもありますが、本当なのかという気もします。平安期のほうが、庶民の栄養状態が悪かったのではないかとか。 身長は、成長期の栄養状態に影響されるところもあるでしょうが、高くなるか低くなるか良く分かってない部分も多いと記憶しています。生活習慣、正座が多いと足が短くなる(成長が抑制される)というのもあると思います。 江戸自体には80歳くらいの長寿の人も居たと聞いていますので、栄養状態が悪かったのかという疑問もあります。 平安貴族は水銀飲んで30代くらいからパタパタ死んでいますが。
- tanuki4u
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マルサスの罠のイギリスにおける分析に関しては http://szabo.best.vwh.net/bookconsciousness.html における Fig4 参照 人口とWAGE(賃金)となっているが、近似的には庶民の一人あたりGDPとなります。 Fitted Line 1280s- 1590s では人口が増えると賃金が減って栄養が悪くなり、人口が減るということを示しています。 一人あたり実質GDPと人口の関係を分析した図は 豊かさの誕生 ウィリアム/バーンスタイン 徳川家広(訳)のP29 P30 をご参照ください。 ※ ちなみに徳川家広さんってのは、世が世なれば、将軍世子として千代田城西の丸にいたはずの人。
- tanuki4u
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江戸時代の日本人の栄養状態が戦国時代や平安時代より悪かったのはなぜでしょうか。 ↓ 生物として考えれば定期的な「間引き」が行われないので、生存に関するカタストロフィーが生じている。 つまり一人あたりの栄養を向上させるよりも、分割して労働参加人数を増やしたほうが全体としての生産量は上がる。 http://phrik.misc.hit-u.ac.jp/Asami/Jugyo/2005/socdev/week2/malthus1.html あるいは 典型的なマルサスの罠にハマっているから。