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人間の罪とは?
ふと、人間の罪って何だ?と思ったので質問致します。 法的に関しての「罪」は理解しているので、それ以外の「罪」を感じられている方々に質問します。 質問1 人間の罪とは? その定義は、何ですか? 質問2 それは、時代によって変わるものか? それとも、変わらないものか?
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>質問1 >人間の罪とは? 後ろめたいこと。 それを知られたくないと思う物。 >その定義は、何ですか? 心 教えてくれるから分かる。 >質問2 >それは、時代によって変わるものか? >それとも、変わらないものか? 事象は変わるが、本質は変わらない。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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私は実在する仮面ライダー、黒き明星だ。 君たち旧人類の犯した大罪とは、死を受け入れたことだ。 君たちは死から逃れようとするばかりで死を受け入れようとしない。 しかし死ぬのが君たちだ。 成す術もなく死を迎える君たちは、結局死を受け入れているからこそ死ぬのだよ。 それでいて死を許さない。 その奇妙な死の受容が無明であり、生きることえの無明と無自覚が大罪なのだ。 君たちは変わらない。 死にっぱなしなのだ。
お礼
ブログが公開されているようで、 仮面ライダーマニア向けのサイトなのかなと、期待したら関係なかった(´・ω・`)
- 雪中庵(@psytex)
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もし、利己と利他が完全に一致すれば、罪(自己の得のために 他を害する)は生じない。 人類が社会生命化する上で、助け合い=他を利する(社会に 貢献する)事で長期的に自己も利するようになる(利害の一致)。 しかし、それを目的として集まっていながら、そうした分業化が 不十分であるか、あるいは十分であっても認識の低さによって 理解できないために、自己中心的利己的な行動が社会的必要 に反するケースが生じる。 罪である。 特に、そうした「認識の低さ」による「自己中心的利己」を、お金や 出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的に社 会行動をとらせようとした場合、その歪みがお金や権力の争奪に 関わる犯罪につながる(必要悪の副作用としての社会性の阻害)。 そうした“アメ”の欠陥を補完する“ムチ”として、法規やモラル、 宗教といった、自己の外なる権威(他律的社会性)は発達した。 ま、いずれにしても、低認識な人間の自己チューさを歯車として 使役するための「割れ鍋に綴じ蓋」に過ぎないのだが。 深い認識による自己の生の社会的拡張の自覚化(他我=愛)と、 それに基づく自律的社会行動(助け合い)による生きる事自体に よる精神的充足という、「人生を通算した精神的充足量の最大化」を 可能にするプロセス(死の幸・不幸ゼロの状態からのプラスの追求) と異なり、そうした他律的生は、競い合う苦痛と、罪の苦痛= マイナスから逃げる事(ゼロ)による結果的な生=死に匹敵する 生き地獄だ。 神だの善だの罪だの、下らない絵空事から卒業して、自分の立っ ている足元をよく見れば、そこに意外と生きる道はあるものだ。
お礼
回答有難うございました。
- kohichiro
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一般的には、ゆえなく他人や自分以外のものを傷つける、毀損すること、と考えていいのではないでしょうか。しかし、ゆえがあっても、罪は罪だというひともいます。 人間は知らず知らずのうちに他人を傷つけています。他人だけでなく、他の動物や植物、さらには自然の形をいじったりして変えています。これらは自身が生きるために必要なことが多いのですが、そうでないこともあります。ですから、一人の人間が生きるためには、無数の罪をおかさずにはいられないということでしょう。 だから人間は(その代償として、苦しんで)死ぬのだというひともいます。 >時代によって変わるものか? それとも、変わらないものか? 上記の考えは、おそらく仏陀の時代から変わってはいないし、かわることはないと思われます。
お礼
回答有難うございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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一般によくないことのことです。 そしてこれは おのれの心でやましさを感じるところのことです。 またそのやましさを侵さないという心・つまりやましいことは行なわないという心ないし意志 この意志にさからってやましいと感じたことを強いておこなうのは よくないことです。 これを言いかえると 自分の・そして他人の心をないがしろにすること。 ひとの意志を踏みにじること。 これが よくないことです。一般にわるいことです。 このマチガイまたはアヤマチを おのれの心の奥の何ものかナゾとしての神の霊に対して わるい・申し訳ないと思うとき 《つみ》という呼び方をもします。罪からその処罰というかたちで 法制化にすすみます。 けれどもお分かりのように やましさの問題だとすれば 罪ないし悪は きわめて主観的なものであり規定ではないか? そのとおりです。 ただし 人間とはよくしたもので あんがい他人どうしでもそのあいだに共通性が見られると考えられます。 やましさといった感覚にしても 共通性がある。 おそらくやはり《ひとの意志を踏みにじること》が 共通であろうと捉えられます。 その点では 時代や民族・地域の違いによっても 変わらないものと捉えられます。
お礼
>おのれの心でやましさを感じるところのことです。 >これを言いかえると >自分の・そして他人の心をないがしろにすること。 >ひとの意志を踏みにじること。 「おのれの心でやましさを感じる」とは、自分がそう思うかどうかが重要で、その「罪」の自覚がない者にとっては「罪」が発生する事はありません。しかし、「ひとの意志を踏みにじること」は本人がどう思うかではなく、他人がどう思うかが重要で、本人に「罪」の自覚が無くても、他人がその本人に「罪」を言及すれば、「罪」が発生します。 この両者は相反関係で、同じ定義に盛り込む事はできないのでは・・・。 もしかしたら、貴方の意図を私が誤って読み取った可能性があります。 その時は、申し訳ありません。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
キリスト教では、人間として生まれたこと自体が「罪」だとされます。 いわゆる「原罪」です。 そして「原罪」を贖うものは人間には不可能で神のみがそれを為し得る、とされる。 そのキリスト教を批判したニイチェは「道徳の系譜」で、罪というのは借金の「負い目」とか「疾しさ」にあるという。 だからキリスト教のいうような神のみがなし得ることではなく、借金を返せば、罪の念や「疾しさ」は無くなります。 同じことはマルセル・モースが、「贈与論」で言っています。 古代社会では、人々は物品を互いに贈与することで成り立っていました。 贈与したら、お返しを求めないのを純粋贈与といい、お返しを求めるのを贈与互酬といい、贈与された以上のお返しをするのを「ポトラッチ」という。 モースによれば、贈与された時に「マナ」とか「ハウ」とか、霊が一緒についてくる。 お返しをしないと、その霊が祟るから、それを恐れて贈与されたら直ちにお返しをしないといけない。 共同体と共同体の間で行われたのが、贈与互酬。 共同体の内部では純粋贈与が行なわれていた。 村の共同の場所にそれぞれが収穫した作物を持ち寄り、それをみんなで゜平等に分けて食べた。 後に貨幣経済が発展して、贈与互酬制は消滅したと思われていたが、とんでもない、私たちの生活に深く浸透しています。 たとえば、私たちは他人の家を訪問するときに風呂敷に手土産を包んで持参します。 もらった人は、お返しをしないと何となく「疾しい」感じを持ちます。 モースのいう「マナ」とか「ハウ」という霊と同じ。 また、日本人はお中元・お歳暮で日ごろお世話になった人に贈り物をします。 目下から目上に贈った場合は、お返しはしませんが、対等の人、あるいは自分より目上の人から貰ったりすると、お返しをしないではすみません。 また、現代の家庭では、純粋贈与の習慣が残っています。 父親は子供の学費・教育費を負担しますが、それをお金で返せとは言いません。 また、主婦が家事労働しても、それを金銭に換算して賃金を寄越せとは言いません。 家庭というのは共同体で、共同体の物品のやり取りは贈与によって行われるからです。 私たちが現在、「罪」といえば、自分の行為に伴い、他人に迷惑を掛けたり、傷害を負わせたり、そうしたことの「負い目」とか「疾しさ」から来るもので、いわば「良心」に基づくものです。 キリスト教のように「人間として生まれたから罪がある」なんて考えません。 人間は実存主義によれば、生まれた時は「ゼロ」です。 もし、罪があるとしたら後天的、自分の行為がもたらすものです。 何が罪にあたるかには時代によって変遷があります。 たとえば不倫は昔は罪でしたが、今では必ずしも罪とはみなされていません。 また、カトリックにとって離婚は罪でしたが、今では西欧でも、日本でも離婚は罪ではありません。 何が罪にあたるかは時代によっても、社会によっても、国によっても基準が異なり、様々です。
お礼
キリスト教か・・・。 30年戦争当時は、「異教徒を殺さない者は罪」でしたね。 30年戦争の戦勝国スェーデンのクリスティーナ女王が、「異教徒は殺さなくて良い」と言う画期的な発言をしましたが、「異教徒を殺してはならない」の時代になるまでは、数百年の殺し合いを経ねばならなかった。 キリスト教は「時代による罪の変化」が、かなり極端・・・。 宗教的価値観の恐ろしさは、歴史を見ればよく分る。
- 0fool0
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(1)自分の事は、自分で決めたら良いです。 (2)変わりたければ変われば良いし、逆でも良いです。 (1)も(2)も都合次第です。 だから、人によって組織によって、皆まちまちです。 其れで踊りたい方は踊っていればいいし、満足出来なければ自分で見つけるのも愉しいでしょう。
お礼
回答有難う御座います。
- dokuro_sukaru
- ベストアンサー率45% (85/186)
『生きている事そのもの』『誕生してしまった事』ですね。 人間が火を起して以来、便利性を追求して 娯楽を求め続けて、貪欲に溺れた結果・・ 沢山の動物が死に絶え、自然破壊も終わらないからです。 生まれた以上死にたいとは思いませんが 人間全てが一瞬で消え去る事、そして二度と誕生しない事が 正しい事だと個人的には思っています。 山に生きているものも、水に生きているものも 全て弱肉強食で成り立っていますが 人間は武器と知恵を手に入れて当たり前の様に山へ入り海へ入り 自然の摂理を破壊しているとも思います。 地球で偉いのは人間だと勘違いしてますしね。 動物がいなければ、植物がなければ 人間の寿命なんてもっともっと短かったでしょうね。 多くの命の犠牲の上に成り立っている事を、毎日感謝しなくてはならない事を 理解している人間なんて、殆どいないのが現実ですから。 質問の回答にはなっていないかもしれませんが 時代が変わっても人間が消えない限り、何も変わらず悪化していくだけだと 思います。
お礼
>『生きている事そのもの』『誕生してしまった事』ですね。 この人は、一体なんでこんなネガティブな考えなんだろうと気になって、貴方の公開された回答履歴を読んでみたら、そこから伺える事情を読み取る限り、なんかこの言葉をいろいろと深い読みしてしまった・・・。 来月1日か・・・。 その日から、貴方の回答履歴がピタリと止まるとか。嫌です。 また回答してください。 うまく行く事を、祈っています。
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お礼
>後ろめたいこと。 >それを知られたくないと思う物。 その文章だけを読む限り、実に正しい。 この定義だと、「本人が後ろめたい事などの、自覚が無いなら罪でない」となる。 そう言うと「そう言う意味じゃない」などの否定的な感想を抱く人もいるだろう。 もしかしたら貴方も、「それは読み違えている」と否定的な感想を抱いたかもしれない。 しかし、「本人が後ろめたい事などの、自覚が無いなら罪でない」と言う、「人間の罪」の定義は実に正しい。 (刑罰の罪の話はしていない。「人間の罪」の話だ。) 事例を言えば、「メルセルケビール海戦」。 イギリスの教科書には、「メルセルケビール海戦」の罪の意識など一切無い。 その歴史教育を受けたイギリス人は、「たとえ同盟国の船であっても自国を守るためには容赦なく攻撃する。これが政治のリアリズムだ。」と、胸を張って語る。そこに「罪」など、一切存在しない。この事件を「それを知られたくないと思う」イギリス人はいない。それどころか、イギリス人はこの事件を英雄譚として語り継いでいる。 実に、正しい歴史教育だ。 それに対し日本は、最近、朝日新聞のイアンフの捏造や、河野談話が実は「談合」だった問題が露呈したが、事実の罪だけでなく、捏造された罪も鵜呑みにして自虐史観の歴史教育をする。そして、多くの日本の子ども達は、自虐史観に基づいた日本の「罪」を刷り込まされ、罪深い日本人として大人になる。 あまりにも愚かな歴史教育だ。 (強調するが、「歴史教育」に関して。数学とか科学とか他の教育には言及していない。) 「メルセルケビール海戦」の引用元。 http://ameblo.jp/channelcrara/entry-11813034525.html