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私の犯した罪について。

初めて質問します。 至らない部分があると思いますが、助けて欲しいです。 私は、以前人の死に関することを簡単に笑ったりすることができる人でした。誰かが亡くなりそうだという話の中で「◯ね!笑」と言えるような。(身内とかではなく有名人や自分と関わりのない人とかの話です。) 最近、私は自分がそういう人間であったことを思い出しました。 すると途端に、私はそういう人間であるから“やりたいことをやる”ような生き方をするとバチが当たるような気持ちが湧いてきたのです。 考えなくても、私が悪いことは分かっていてそれが人としてやってはいけないことだとも理解しています。だからこそ、バチが当たるといった思考になりました。 反省というと、自分の行動が悪かったことを認めそれをしないようにしようと思いましたが、これは所謂“誰かを傷つけてしまった後悔”から生まれた反省ではなく、“バチが当たることを恐れた自分を守る気持ち”から生まれた後悔であることを何となく自分でわかっています。 バチが当たらないよって言われても、それでも私のしたことを悪いことではないとは思いません。 でも、心の底から後悔したり相手を思って罪を償いたいと思っていない反省に大した意味はないと思います。 だからこそ、私は、せめて“やりたいことをやらない”という私が最も求めることを諦めることでバチが当たらないようにしようとしています。 この全てが苦しいです。 自分のために懺悔しようとしてる私も、ここまで考えたってそれでもやりたいことを諦められない私も、何だか全部が嫌です。 そして私が最も嫌なのは、私へのバチが私の大切な人に当たってしまうことです。私が、相手を思って反省をせずやりたいことをやってしまったとしたら、それが罪となって私にバチを与えてしまう、そうなったら私への1番の痛みは親や家族への不幸であるから、大切な人を傷つけることになるかもしれない、と。 長くなってしまいましたが、 私は何をどう考え、どう生きると良いのでしょうか??

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  • Sakura2568
  • ベストアンサー率42% (2137/5054)
回答No.2

すごい。 一つも行動しないだけで 救われると思うところが。 人は人との関わりや行動によって 変化し、成長するものよ 反省したってそれが何一つ行動に繋がらなければ意味ないと思うけど? だってそのために生まれてきたんでしょ? 人と関わり人とぶつかって 自分を高めるしかないのよ 以前があまり良くなかったと思うなら 次は人のために何かしましょうよ。 電車で席を譲るだけでもいい。 誰かが落としたものを拾ってあげるだけでもいい 些細なことでいい もしできるならボランティアで人のために動けるなら素晴らしいと思います。 バチを当てる側だって 反省した割には何もしてない人と 反省してからというもの良い行動をしてる人 では当て方も違うと思いません?

Erina880
質問者

お礼

ありがとうございます。

その他の回答 (3)

  • JP002086
  • ベストアンサー率34% (1537/4407)
回答No.4

現在、何歳なのかは判りませんが、幼い時に親に対して何か不満が有る時についつい口から出てしまう子が少なからず居ます。 直接本人に言わなくても周りで聴いている方は、良い気持ちにはなれません。 >私は何をどう考え、どう生きると良いのでしょうか?? 例えば、「道端で転んでいる方を無償で助けてあげる。」とか 「夏の暑い日に、お年寄りが道端で倒れ込んでいた時には、救急車が来るまで見守ってあげる」とか色々な施設に奉仕活動をするとか行えば、色々な方とふれあう事で、学校や家庭では教えてくれない事を学ぶ事が出来ます。 そうする事で、自分が犯したと思っている罪も少しづつ晴れてくるのではないでしょうか?

Erina880
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.3

a) バチが当たるというのは、主に自分の死後に、神によって魂が地獄へ落とされるようなことを言うのです。だとすると、あなたが心配すべきなのは、現世でのバチではなく、あなたの死後のことを心配すべきなのです。 b) 見知らぬ人の死を笑っていたあなたは、確かに余りほめられないことでしょうけれど、でも、それで現世のあなたやその周辺でバチが当たるとは言えません。他人の死を笑っていたあなたも、いずれは亡くなる時が来るのです。それが、あなたへの第一の罰でしょう。第二の罰は、死後、魂が神によって裁かれることです。あなたが自分の夢を我慢したとしても、この二つの罰は普通、逃れられません。 c) という訳で、第一の罰(死)を逃れられないとしても、せめて第二の罰(魂の裁き)のほうは穏便に済んで欲しいと願うのが人情でしょう。できれば、現世で神仏にもほめられるくらい、正しい生き方をできれば、死後、魂が天国へ招かれるという最良の結末が手に入るかもしれません。これこそが、最良の人生であり、死も罰も、何も怖くはありません。あなたにできることがあるとすれば、神仏に愛されるような、正しい生き方を選ぶ以外にありません。

Erina880
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • GENESIS
  • ベストアンサー率42% (1198/2799)
回答No.1

やりたいことをやってください。私たちには自由が与えられています。 ただし、自由というのは法の下(もと)に自由であって、闇雲に自由ではありません。法律、ルール、常識、他人への思いやり、自己中にならない…。多分真の自由と言うのは大変だと思いますよ。 あなたがして欲しいと思うこと、あなたがしてもらったら嬉しいことを周りにしてあげてください。あなたがしてほしくないこと、あなたがされたら嫌なことは周りにしないでください。ただあなたがして欲しくても、それを他人が望んでいなければやめておいたほうが良いかも。善きも悪しきも、自分が周りに行ったことは、必ず巡り巡って自分に帰ってきます。因果応報という言葉があります。 あなたは今、自分が悪い事をしてきたと告白されました。悔い改めをされたのです。これを懺悔と言います。この気持ちをしっかりと持ち、生きていけば良いと思います。 山伏が、山中で修行をする際、行脚の時に「懺悔懺悔六根清浄(さーんげさんげろっこんしょうじょう)と唱えます。 六根清浄とは 「六根清浄とは、六根つまり人間の知覚である眼・耳・鼻・舌・身・意(心)のことで視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感に心を加え、穢れにふれた時に神徳を以て清浄に保って救いを求めようとする祈願詞」 実際に山で修行できれば一番でしょうが、これからの人生において、わだかまりや不安、悪い思いが生まれそうな時に心の中で唱えてみてはどうでしょう。

Erina880
質問者

お礼

ありがとうございます。

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