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罪の償い方
例えば、人を殺したら、法で裁かれるか死刑になるか自殺するかで罪を償いますよね。でも、例えば、自分の一言のせいで、人が自殺してしまったとか、自分を庇って、誰かが死んでしまった場合の、罪の償いかたって、あるのでしょうか?法律でも哲学でも宗教でも何でもいいのですが、罪にはならないけど、罪を感じて、罪を償う場合の方法ってどんなものがあるのでしょうか?ふと思ったので質問させていただきました。訳の分からない質問ですいません。
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心に常に痛みを持ちながら、生き続けることではないでしょうか。 もし、私が貴方の一言に傷ついて、「自死」という行為にいたるとします。今考えているのは、「傷つき、死んでゆこうとする自分が、【貴方を恨んでいる】場合も【貴方を恨んでいない】場合」も含みます。 「一言の言葉に傷ついて死んでしまう弱い人間もいる、ということをあなたは気づいてくれるだろうか、気づいたとして、誰かにそれを伝えてくれるだろうか?」 ということのような気がします。 ご質問の内容ですと「意図的に相手を傷つける」ということでなく、「それと知らずに、不用意に」傷つけてしまった場合のことのようなので、上述のように感じました。 勿論、「意図して」「傷つけてやろう」という言葉に負けて「自死」を選ぶときも、「苦しんで生きていて欲しい」と「違う意味で」「生きることを」望むような気がします。 自殺も死刑も本当の意味での償いにはならないように思います。本当の償いは、「自分の犯した罪に本心から気づき、傷つき、恐れおののくこと」だと思います。そこで自殺するなら、「逃げ」です。「極刑」になるのなら、それまで残された日々を、「自分の犯してしまった取り返しのつかない【現実】と向かい合うこと、生きている限り精一杯被害者に対し、慙愧の念を持つことではないでしょうか。「いつ来る」ともしれぬ、命の終わりに怯えながら。 ある意味で過去を自己受容し、それでも苦しみながら生きることは「死ぬよりも辛いこと」の場合があるのではないかとも思ったりします。 決してからかうつもりでなく、この世に「死んだことのある人」はいませんから。 「死ぬ」ことは「自分で選択出来るのであれば」犯罪者にとっての「権利」でしかありません。いつ、それが来るのか分からないからこそ、人は死を恐れるのではないでしょうか。 昔読んだ小説の一シーンを「うろ覚えですが」思い出しています。一人の男が自殺を図ります。友人に助け起こされ、「生きるんだ。」と言われた時に、混濁した意識の中で、彼は「ニヒル…?」と聞き違えて問い返したまま逝きます。「生きる」と「ニヒル」(虚無) 償いのために生きるとしたら、「ニヒルであってはならない」ような気がします。そうして苦しんでいる人に生涯反省し続け、自分も救われることは罪ではないような気がしています。甘いのでしょうか。
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- otasuke009
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難しいけれども興味深い質問ですね。 人の死に対する場合に限らず、罪を償うには悔い改めて謝罪し、まっとうに生きようと努力することが第一ではないでしょうか。被害者の心に届く誠実な姿勢を貫くことは難しいことですが、努力し続けるしかありません。 人が亡くなった場合、その本人に対してできることは、悼み冥福をしかありません。しかし、それだけでなく、その人を亡くして悲しみ、不幸な人生を強いられる結果となった家族や周囲の人々の心を癒す努力をしなければならないと思います。 戦争で多くの人の命を奪った元兵士が、謝罪の意味で東南アジアの国に学校を作り、子供たちの教育のため一生を捧げて活動しておられる話をテレビなどで見聞きすることがあります。戦争での行為は個人の罪として罰せられない場合が多いと思いますが、この元兵士の贖罪の生き方は他者の胸を打つものがあり、現地の人々も心を開いて贖罪を受け入れているように思いました。参考になれば。
お礼
訳の分からない質問に答えていただきありがとうございます。謝罪の意味で東南アジアの学校を作った話は素晴らしいですね。なるほどと思いました。
お礼
ありがとうございます。そう考えると、大阪の池田小の事件は、自分の犯した罪に本心から気づかずに、死んでいったので、やはり、自責の念を持たせてから死刑にするべきだったと思います。生きるんだとニヒルんだか面白いですね。訳の分からない質問に答えていただきありがとうございました。