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時は今 天が下しる 五月哉
恐らく日本でもっとも有名な句のひとつですが この句を詠んだのは誰なのでしょうか? 今までは本能寺の変を決意した光秀が暗号の意味合いも含め詠んだ詩だとか 歌人の里村紹巴の詩とも言われていますがはっきりと確証も無いようです 「時は今 天が下しる 五月哉 水上勝る庭の松山」 と言う句に 「花落つる 流れの末を せき止めて」との返歌があります この返歌は光秀の決意を知った本因坊が謀反を思いとどまらせるために詠んだもの とも言われています
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手元にある『日本史探訪』(角川書店)に、辻邦生氏と桑田忠親氏が明智光秀について対談(昭和46年)したときの内容が載っています。 辻氏はふつうの解釈ですが、これに答えて桑田氏は次のように言っています。 しかし私に言わせてもらえば、光秀の有名な発句については、もともと、「時は今雨が下なる五月かな」というのだった。 それを、後の人が、光秀の反逆を強調するために「雨が下しる」と書き直したのではなかったか、と推理します。 いくら光秀がのぼせていたにせよ、あれだけの大事を直前に控えて、連れの連歌師や愛宕山の社僧などに、謀反のたくらみを見破られるような軽率な語句を含む発句を吟ずるはずがないと思うからです。 こんな解釈があるという話で、ホントのところは私には分かりません。 たまには回答者にもなってみたいと思って、ね。 と、ここまで書いてきて念のためググッて調べてみると、桑田氏の説にも異論があるようです。 『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログ http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai ということで、詠んだのは光秀でしょう。
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- lotus_exige
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私は本日OKWaveに新規登録致しました。 従いまして、初めて投稿させて頂きます。素晴らしいご質問でいらっしゃいますね。 「時は今 天が下しる 五月哉」を詠んだのは明智光秀ではないと言えば、日本史が変わってしまいますので、確証のないことを軽率には申し上げられませんけど・・・。 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が天下を取った後、徳川家による約300年間の政権が続いた中で、日本の歴史がだいぶ脚色されたようです。光秀は当時の政治の世界にデビューした40歳まではどこでなにをしてきたのか現在でも不明のままです。現在の40歳はまだまだ若いですけど、当時は人生50年の時代でして、相当な高齢です。 私の感想ですが、本能寺の変を決意してこの句を光秀が詠んだとするには、なんとなくテレビの歴史番組のシナリオみたいです。本能寺の変の決意はこの句を詠む前に心づもりができていたものと思います。男って言いますのは、大事を決意するまでは時間がかかりますが、一旦、決意が固まると、それを遮二無二実行します。参加者が歓談する歌会で歌を詠んで、本能寺の変の決意が固まることは無いでしょうね。そうすると、この話も江戸時代の脚色のように思えますけど・・・。 お答えとしては、尻切れトンボですが、以後、お見知りおきを・・・。
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