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「治承・寿永の乱」と「御恩と奉公」

治承・寿永の乱で、源氏方に多くの武士がついたのは、この戦いがある頃から、御恩と奉公の関係があったことも理由に含まれますか。

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noname#224207
noname#224207
回答No.3

「源平盛衰記」とか「平家物語」などの影響もあり、治承・寿永の乱以降の合戦を源平合戦と呼びますが、内実は源氏、平氏という二つの氏族間の争いという単純なものではありませんでした。 いわば関ヶ原の戦で東軍、西軍と分けられたように、西軍が伊勢平氏のシンボルであった赤い旗印を使い東軍が源氏がシンボルとしていた白い旗印を使っていただけと考えたほうが実態に近いかと思います。 氏族間の争いとみなされるのは、合戦の最終決着が清盛一族を源氏の一員である義経が壊滅させたことが、強い印象として刷り込まれたことも影響しているかと思います。 平氏と呼ばれる氏族は清盛一家だけではありません。 坂東平氏と呼ばれる集団がいました。 平氏の始祖である高望王の長男の系譜を引く人の中に清盛がいました。 たまたま清盛が都で成功して一族郎党を平家と呼び習わしました。 他の子供たちの子孫の系譜を引く人達が関東一円に居住していました。 各々の居住地の地名を名乗りすなわち現代でいう苗字としていました。 後に鎌倉幕府を実質的に運営継承した北条氏もこの坂東平氏の一人です。 この点からすれば、鎌倉幕府は実質的には平氏の幕府です。 後に源氏の系譜につらなる新田義貞が進攻して潰しました。 頼朝が伊豆で一敗したのち下総で再度旗揚げをしますが、この時の軍勢は千葉氏以下の坂東平氏でした。 この一団が中核となって、富士川の東岸にたどり着いたときには大軍団に膨れ上がっていました。 「治承・寿永の乱で、源氏方に多くの武士がついた」とされておられますが、頼朝のもとに合流してきた三浦氏、千葉氏を始めとする坂東平氏の連中の動機はなにか、ということになるのかと思います。 合流してきた坂東平氏には頼朝の御恩もなければ奉公する義理もありませんでしたから、御恩、奉公が理由だったということにはならないのではないのでしょうか。 歴史用語として「御恩と奉公」という言葉が使われますが、この言葉がどのような制度を意味して使われているのか、ということを考えてみる必要があるかと思います。 「治承・寿永の乱」という戦乱時期を古代と中世を区分する目安として良く使われます。 歴史学者によっては、この乱を古代最後の乱と位置付ける人もいる一方で、中世最初の乱と位置付ける人もいます。 ここで古代、中世という時代区分は何をめやすとしているのか、ということになります。 超大雑把に言いますと朝廷を頂点とする中央集権体制が維持されていた時代が古代で、武力を基盤とした政治勢力が分割統治していた時代が中世であると言えます。 この武力を基盤とした政治勢力の長はどのようにして配下の協力を得ていたのか、あるいは支配していたのか、ということになります。 この手段方法を「御恩、奉公の関係」と表現しています。 このように考えますと、御恩、奉公の関係は、理由ではなく、必要条件だった言い換えることができるかと思います。 西軍である伊勢平氏は朝廷の官人として纏まっていましたが、東軍は個々の家長の支配、非支配つまり御恩奉公の関係で纏まっていて、その頂点に頼朝がいたと考えることができるかと思います。

tontokotonton
質問者

お礼

詳しく回答して頂き、ありがとうございました!

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

=== 治承・寿永の乱で、源氏方に多くの武士がついたのは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E5%BA%83%E5%B8%B8 治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。また平家姻戚の藤原親政が下総国に勢力を伸ばそうとするなど、こうした政治的状況が広常に平家打倒を決意させたと考えられる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%B8%E8%83%A4 『源平盛衰記』では、常胤が「一旦上総介(上総広常)と相談したい」と述べた など、関東の現場で一族内のゴタゴタがあり、平家以外の「旗」が欲しかったところだった。というよな「ご都合主義」な関係 === http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD 沿革の発生のあたり 上記のような、個別の武士団の課題を「地頭職」というような統一的な制度にしたのが頼朝の強み

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.1

治承・寿永の乱とはいわゆる源平合戦ですが、御恩と奉公の封建制度の確立がすでに出来ていたからではありません。封建制度は主従関係とそれによる所領を与えるのですが、これを始めたのが源頼朝なのです。この戦いの中で頼朝は封建制度を強化してゆくのです。御恩と奉公とは頼朝の死後に尼将軍の北条政子が言った言葉で、頼朝の御恩に感謝して、奉公として朝廷軍と戦えと言ったのです。その戦いに勝って貴族たちの律令制度が崩壊して、封建制度が確立したのです。

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