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争論を超えるということ
- 人々はどこでも争論するが、争論を超えるという事態は稀である。
- 争論を超えるとは心が落ち着き、争点や自己の反省を見つめることである。
- 雲行きが怪しくなれば場を離れ、争論を超える可能性もある。
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No.3と7です。 お礼ありがとうございました。 見つけたものを、割と分かりやすいので。 二項対立(にこうたいりつ)とは論理学用語の一つ。二つの概念が存在しており、それらが互いに矛盾や対立をしているような様のことを言う。元々は一つの概念であったものを二分することにより、それを矛盾や対立をする関係へと持っていくことを二項対立と言うこともある。社会においての諸問題も二項対立から発生しているということであり、たとえば紛争の原点がこれである。 ウィキより こう言う争いの手法を理解して、相手の挑発に乗らないことも ある意味大切かと思います。 相手は渦中にあろうとも、自身が巻き込まれないでいれば 渦中にはならない訳ですし、自身がそれを使って誰かを 巻き込まないのが一番重要な気もします。 意見をぶつけ合うことが、よりよいものを出せる訳でなく 人との溝を深める図式になっているだけで 出し合うのは有益ですが、ぶつける必要は無いですよね。 争いを作らない、相手の仕掛けに乗らない そのためにも学ぶと言うのは有効手段だと思います。 仕掛ける人は、意図的な場合もありますが 未熟でやってしまうこともあると思います。 私も20代の頃は、そう言う議論が理解しあえる元と思い込んで 友達減らしました(苦笑) 争論は、己が未熟さを超える源でもあるかもしれないと ちょっと思いました。 摩擦を起こすから、自分の未熟さが見えてきます。 それが争論を超える元と言えるのかもしれません。 いつ気づくかは幅がありますね。 気づかず終わる人も多々おられますから。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 渦中にあって、争論を超えると言うことはどう言うことを言うのだと思われますか。 ☆ 論理と道理に就くということです。 これを飽かずどこまでも問い求めるということです。 そのことを ★ 諍い ☆ だとか あるいは ★ 勝敗に拘り、溜め込んだエゴを吐き出し、噛み付く。 ☆ といふうにしか見ることが出来ないというのは まだ《争論》から離れてさえいないと言うべきでしょう。 ★ 自分の良かった点、そうでなかった点も見えて来ます。 ☆ このような見方こそが 論理と道理に就くという妥当性による判定ではなく 自分の思い持っている妥当性の基準に固執する態度です。 このようなきよらかなおそれに基づく・対話におけるきびしい姿勢を言うと ★ 人が、言葉を牙として使う獣の様に成り下がる。 ☆ と受け取るのでしょう。いつまで経っても 対話は出来ません。 自分を活かすすべを知らないのでしょう。
お礼
論理と道理に就くということには賛同します。(これは、口先だけで言えるほど簡単なことではないでしょう。)しかしながら、論理や道理だけで対話は成立していないとも思われます。人は色々の想いを乗せて言葉を発しますから、その想いを汲み取ることが、論理や道理に就くということよりも、大切な場合も出てくるのではないでしょうか。 以下の三つの批判については、的を射た回答とは受け取れませんが、そういう批判もあろうと思って受け取っておきましょう。 ご回答ありがとう。
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お礼
再回答ありがとうございます。 勉強になります。 自らが他者を巻き込まないこと、争いを作らないことが重要とのこと、賛同致します。 また、争論の中に争論を超える種があるというのも同意できます。そう言った経験から成長できるチャンスも得られることでしょう。