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ひとりの男性(女性)を愛するという倫理は必然的な事なのでしょうか?
- 一夫多妻の文化や歴史の存在が、一夫多妻の制度の倫理的正しさを保障するものではないと考えます。
- 性愛の対象が1対1であることに倫理的な正しさというのはあるのでしょうか?
- 僕が本質的に解らなくなっている点なのですが、相手を独占したいという気持ちを尊重する事が、倫理的に正しいとされる事なのかあるいは、自分の愛した相手に、自分以外にも愛する者が居たとしても、それを認めてあげる事が倫理的に正しいのか、どっちか解らなくなったんです。
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こんにちは。 ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~ ・・・ 16:わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17:律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。 18:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《めぐみ》を受けている者は ○ 婚姻の善 ☆ を当たり前のことと思っています。《善》とは 生きることでありよく生きることであり互いにそう生きるという共生のことです。 このときには ○ 《姦淫するなかれ》やあるいは重婚の禁止といった《律法》(法律)によって そうするのではない。 ☆ ということです。倫理規範によってではなく 《受けためぐみ》によってそう生きるという意味ですから。 めぐみと言ったって そんなものは雲をつかむようなもので分からないと言う場合には 《めぐみと真理(まこと)》とあります。 《真理》などと言えば よけいに分かりにくいではないかと問い返されれば ▲ 真理は きみたちを自由にする。 ☆ とイエスが言ったと伝えられています。めぐみ もしくはこのめぐみをさづける力は 自由ということ もしくは自由の源泉であるという意味です。 早い話としては ○ ひとは自由において(自由意志において)結婚の善を 婚約のときから生き始める。 ☆ となります。意志による自由な選択として 誰だれという特定のひとりの相手をえらびその一生を生きると決めたからです。(まちがいが起きた場合 もしくは間違いであったとあとできづいた場合 それとして 自由において 対処して行きます。そうでない場合には 自由において結婚という特定の共生をふたりで生き続けます)。 ★ しかし、そもそも性愛の対象が1対1であることに倫理的な正しさというのはあるのでしょうか? ☆ 《性愛》は 《結婚》という行為に含まれます。それだけのことです。 《倫理》ないしその規範としての律法(また法律)によって律しているというわけではありません。《自由において》という意味はそういう内容をともないます。 ★ 人の気持ちとして、誰かを好きになれば、その人を独占したいという事は理解できます。 ☆ この《独占欲》も 簡単に言ってしまえば 《自由における結婚》に〔も〕含まれるでしょう。それは 独占欲が互いのことであるという見方に立てば その結婚という共生の中でふたりで考え処理して行くことだと思われます。 ★ そうした、相手を独占したいという気持ちを尊重する事が、倫理的に正しいとされる事なのか ☆ こういう疑問は起きません。《倫理》のもんだいではないからです。倫理の問題としてでなく起きたとしたら? その気持ちを互いに表わし合って考え合って行けばよいでしょう。 ★ あるいは、自分の愛した相手に、自分以外にも愛する者が居たとしても、それを認めてあげる事が倫理的に正しいのか、どっちか解らなくなったんです。 ☆ 《愛する》を安易に使いすぎです。婚約からの自由意志による心の決断が そんなにいくつもあってはたまりません。ですから そこにはおのづと その気持ちには格段の差があります。そういうことも 互いに分かっているはずです。あとはそのことでちょっとした波風を二人のあいだに立たせるのもいいかも分かりません。 ★ 『己の欲せざる所、人に施すことなかれ』・・・ / これは本当にそうだなぁと思います。 ☆ 《欲する》こととの中身を吟味する余地がありますし 婚姻にとってはその吟味作業もふたりで――自由において――成せばよいでしょう。 キリストにあっては そういうめぐみが――つまりそういう力です が――与えられています。この力がはたらかないときには 何らかの間違いがあったということです。めぐみそして真理というときには 日本人には《仏性》と言えば 分かるのではないでしょうか。(ただし 仏教では 上のような結婚観や性愛論は言っていないように思います)。
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- kigurumi
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>婚姻についての定めは、 >そうした側面からも決定されているのですね。 今みたく自由恋愛じゃなかったと思いますが、、、 例えばダニエル書では女性が水浴びをしているのを長老が覗き見して、性交したいと迫ったら拒否されたので、長老は願いがなわず、仕返しとして「この女は姦淫をした」と裁判所に訴えたんですね。 ダニエルは「私はこの女の血に責任は無い」と言って無実であると宣言しスザンナ救出。 ダビデは部下の妻が水浴びしているのを見てちょっかいだした。 その女が身ごもり、部下を激戦区に送り死んだ後(殺した後)、女を嫁にもらった。 これが最初の妻。 アブハムは井戸で出会ったリベカを気に入り、両親と話をつけて、リベカをお持ち帰りして、息子イサクと結婚させた。 (政略結婚ですね) そのイサクの息子ヤコブはラケルを気に入り結婚するために7年間奉公したら、姉のレアと結婚させられて、ラケルが欲しいというと、さらに7年働けばラケルをやるってなったので、7年奉公したわけです。 ところがラケルはなかなか子供ができず、夫にビルハと子作りをするようにお願いしたわけです。 ということは、ヤコブはレアとラケルとビルハと3人の妻がいたってことですね。 オナンはレビレート婚で嫁にしたタマルとの間に子供ができると、その子に長子権がいくので、それを防ぐために外だししてたわけです。 それで神が中だししないオナンに怒り、オナンを殺した と。 それでまたまた未亡人になったタマルは三男と結婚するはずだったが、タマルと結婚した二人の息子が次々死ぬものだから、これは神に呪われた女だと思ったユダは、三男はまだ小さいからいったん実家に戻って三男が大きくなるのを待てと実家に戻した。 ははーーん 結婚させないで財産ぶんどる気だな そうはさせるかぁ とタマルちゃん。 舅をはめて舅とセックスぅ。 見事身ごもり、「おほほほほ おなかの子は、亡き夫の子よね 長子権はこのおなかの子にあるのよね」って、、、 すっごいことやりますねぇ イエスの祖先って。笑 こんな感じで、結構 性に対しておおらかだったわけで。 いつ頃から貞節であることが要求されるようになったのだろう? うーーーん、、、、 聖職者は多婚で、じゃんじゃん子つくりに励んでいたし。。。。 ああ、これだ。 キリスト教って地主に特権を与えることで、勢力を拡大していったんです。 神に選ばれたから成功しているとし、言われた地主はうれしいですよね。 それで信仰の証として息子の一人を、教会に差し出して聖職者にするのが、立派な人だってなってたんです。 聖職者は金持ちのぼんぼんばかり。 寄付金 がっぽり。 聖職者の父親が死ねば、遺産相続されるが、聖職者は財産を持たないので、妻や子にいくわけです。 それで、聖職者になったってことは 神の花嫁になったのだから、人間の女と結婚することは多重婚にあたるとして結婚の無効を宣言。 遺産を相続したら、妻や子にいかず教会が没収するようになった。 さらにキリスト教は儲かり、侵略を進めていけたわけです。 地主の持ち物の農奴らは、キリスト教に捧げられた兵士ですから、彼らが前線で戦ってくれるのを聖職者も貴族も眺めていればいいわけです。 まっ、この時点では多重婚は禁止になってますね。 ところが、初夜権とか作ったくらいですから、結構 今よりずっとフリーセックスの概念があったんじゃないかと。 レオ教皇は、売春の場として尼僧院を創設したくらいですから。 聖職者用の慰安婦がそこに集められたわけです。 いろいろと聖職者に福利厚生をしていたってことですね。 教会は秘密の花園だったってことですね。 そんなおおらかな性文化だったわけですが、これは聖職者とか特権階級限定ですが、異端審問官ができてから、厳しくなったんだと思います。 抜きん出るために、いろんな突拍子もないアイデアを出していく必要があり、過激になっていった結果、魔女狩りが起こった。 聖職者が女性を見てなにが動くってことは、女性を見て発情したんじゃなくて、魔女が誘惑したからだってしたわけです。 とーーんでもなわけですが、ふしだらって言われたくない男たちは「この女は魔女です。だから息子が立ってしまったんです」って言い訳をし、それが通用してしまう恐怖時代に突入していったみたいです。 で、女性はあまたからすっぽり黒い布をかぶって、穴ひとつあけて、夫と性交渉をするように ってなっていった。 やれやれ って感じですね。
お礼
ありがとうございます。 No,2、3の方の意見が、僕にはしっくり来るというのが本心ですが、 それでも(このQAの問題とは別にして)、 キリスト教については、聖書を自分の力で読んで勉強する事にします。 あなたが指摘された側面も、真だろうと思うのです。 で、全体としてキリスト教というのはどういう事を主張したいのか こういうことをしっかり自分の頭で解釈できるように勉強しなければならないと思いました。 ありがとうございます
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.2です。 ★(=質問者の発言) ~~~~~~~~ 最後に教えてください。 一夫多妻や、その逆の婚姻について、 社会的な状況によって仕方なくそうした制度をとる、 ということももちろんあるとは思うのですが、 その理由を汲むとしても、 一夫多妻、またはその逆の婚姻というのは、 愛の前には、妥協をした結果だと考えて良いでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆(=回答者の発言) 旧約聖書の時代――そこでは 重婚がありました――はすでに過ぎ去っているとすれば 前回に述べた結婚観および性愛論が 基本だとわたしには思われます。 重婚について《社会的な状況によって仕方なくそうした制度をとる》場合 その制度をめぐってみなで考え合いどうするかを決めて行けばよいということではないでしょうか? 婚姻の善とそこにおさめられる性愛論は その制度の有無やかたちによっては揺るぎません。どうしても制度に従わなければならないと判断したときには したがうまでです。 そのようにやむを得ず制度に従うということは ★ 愛の前には、妥協をした結果だと考えて良いでしょうか? ☆ たぶん おっしゃるとおりのことだと考えます。《たぶん》というのは 待った無しでやむを得ない場合にのみ《妥協する》ということだからです。 それでも そうだとしても 何故妥協するのか? 《愛》が 制度やその重婚という制度にしたがうことにおいて実際に起こる二人の愛のその意志に対する互いの――互いの です。けっきょくは互いの です の――裏切りによっては 傷つくことはないと言えるだろうからです。 言えない場合には 制度にも従わないという選択もありうると考えられます。 ★ クリスチャンの方へ ☆ ということで 或る種の仕方で上から目線で述べて来ましたが キリスト信仰とはかかわりなく《愛》は 普遍だとも思います。つぎの話を参考にどうぞ。 ▲(=第三者からの情報など) 春姫 http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1028.htm ☆ かいつまんで 次のようです。 古代日本の国家には 采女(うねめ)という制度がありました。地方ごとに 美しい女性を朝廷に差し出すというものです。 すでに許婚がいた場合には 悲劇が起きました。 たとえば 陸奥の国・安積の里(現・郡山市)の春姫の物語が伝えられています。召し上げられたあとしばらくして かのじょは その朝廷から逃げ帰ったのだけれど その許婚の男は すでに死を選んでいた。これを知って かのじょも後を追ったという話です。
お礼
ありがとうございます。 質問の真意は、今にして考えてみると 一夫多妻、またはその逆の婚姻についての是非といった事だったかもしれません。 最近、こうした問題について考えに考えすぎて、チョット頭がクリアでなかったので、 ここの他でも、僕は変な質問を繰り返していました。 今、僕は、愛ということの本質について模索中なので、 このような質問を繰り返すことになっているのですが、 そのことの要因の一つに、重婚という制度があるという現実がありました。 そこで、 愛 ということに真剣に向き合うクリスチャンの方の総合的な意見が聞きたいと思ったのです。 いま僕は、20代半ばですが、だんだんと人生の本質的な問題にはどういう事があるのかという、リストが頭の中に出来上がっているところだと感じます。 そうしたことを考える時、やはり 宗教 という問題は避けて通れない問題だと最近感じるようになりました。 丁寧な解説、ありがとうございました。 感謝致します。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
ん? 無心論者ですが、、、 キリスト教では多婚は禁じられていません。 多婚か一夫一婦制かは国の法律です。 もともとアブラハム宗教のアブラハムは複数の妻持ってました。 聖書にも多婚があちこちに書いてあります。 姦淫ってのは二つあって、例えばヘロデがヘロディアと結婚したら、ヨハネが「それは姦淫だ」といい、ヘロデの妻は怒ってヨハネを処刑しましたよね。 なんでヨハネが姦淫をしたと言ったのかというと、ヘロデの奥さんの前のご主人はまだ生きていたから。 レビレート婚においては夫が死んだ場合、兄弟と結婚する。 夫が生きているうちは、夫の兄弟と結婚したらだめーー。 なんで、こういう制度が設置されたのかというと、古代では女性に相続権があり、結婚のとき実家から財産を分割されてそれもって輿入れしてたんです。 すると男は外部から資金投入されるので、商売の手をひろげれる。 ところが夫が死んだら、妻は実家に帰るのがしきたりでしたから、妻は夫が死ぬと財産もって実家に戻っちゃうわけです。 財産の流出を止めるために、夫が死んだら夫の兄弟と結婚し、死んだ夫の子供を生まなければならない と いろいろ言い訳つけて、実家に帰ることを阻止したわけです。 で、未亡人がチラッと他の男を見ただけで、 「他の男を好きになってそっちの男と結婚したら財産がそっちにうつってしまう 」して、未亡人が他の男とたまたま目線が会っただけでも「見ただけでも姦淫である、律法違反だ 処刑だ」ってなったわけです。 本当は宗教的なもんじゃなくて、財産の流出を防ぐためにできた法律。 イエスがトコトコって歩いていて「嫁が他の男を見た これは ゆゆしき自体 財産がよそに移る前に姦淫したってことにして処刑して財産の流出をおさえろ」ってみんなで嫁に石投げつけて殺害しようとしている集団に出くわして、、、んーーーーーーーーー 金ほしさにに人殺しか・・・・となったわけです。 「はい この中で妻以外の女と視線があったことが無いやつでてこい」ってなって、全員撤退。 「はい よかったですね これから こういうやつらにつかまらないようにね 早く実家に帰ってね」ってなったわけです。 これ ダニエル書のイエスバージョンですね もうひとつは、他の宗教の神を崇めるなってことです。 古代エジプトでは女性に相続権があり、女性が男を選んで支配権を与えていた。 そのとき その女性と選ばれた男は同じ女神から生まれたってことにしたわけです。 だから血がつながってなくても兄妹とされた。 アブラハムなんていい例です。 妹と偽ったわけじゃなくて、同じ宗教の神を信じる者同士って意味。 そのものが他の神を崇めることは、姦淫をしたってことになる。 (十戒ってエジプトの死者の書の簡略版。) ってことで キリスト教では宗教的に多婚禁止ではないです。 兄弟が生きているうち兄弟の嫁だった人をもらうことは、宗教上禁止されているはず。
お礼
ありがとうございます。 興味深く読ませていただきました。 婚姻についての定めは、 そうした側面からも決定されているのですね。
お礼
ありがとうございます。 おっしゃる事、すごくよくわかります。 (ただ聞きたいのですが、▲☆○については無視して読んでいいのですよね?) 自分の、愛という観点に対しての認識の甘さを感じました。 最後に教えてください。 一夫多妻や、その逆の婚姻について、 社会的な状況によって仕方なくそうした制度をとる、 ということももちろんあるとは思うのですが、 その理由を汲むとしても、 一夫多妻、またはその逆の婚姻というのは、 愛の前には、妥協をした結果だと考えて良いでしょうか?