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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない)

孤独と社会の関係について

このQ&Aのポイント
  • 孤独はお互いの孤独関係であり、孤立ではない。ボルケナウの著書『封建的世界像から市民的世界像へ』では、パスカルの存在について議論されており、孤独の存在に終わることはないと主張されている。
  • パスカルはアウグスティヌスの思想を受け継ぎつつも独自の思想を持ち、国家観についても異なる考えを持っていた。彼の主観動態は孤立ではなく、お互いの孤独関係であると言える。
  • 社会習慣の領域でも孤独は存在し、人々がお互いに関わり合っている。孤独は必ずしも独りではなく、社会の一部として存在しているのである。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

あなたの質問とか回答を、これまで長く見てきて、いつも思うことですが、簡単に一行でいえば済むことを、ああでもない、こうでもないと、長々と説明するので、一つも明晰ではなく、何を言っているのか分からなくなります。 もうちょっと明晰に、簡単に、誰にでも分かるように平易に説明できないんですか? ショーペンハウワーは言っています、 「難しいことを平易にいうことは技術を要する、しかし平易なことを難しく言うのは誰にでもできる」と。 いい換えると、平易なことを難しく言うのは、それが分かっていない証拠だということ。 ヨーロッパは個人主義を原理に出来上がっているので、人間が孤独であることは自明であり、社会的にも、人が孤独であることを許容する精神風土が出来上がっており、その社会関係からして、孤独は決して孤立を意味しない。 それに反して日本の場合は、共同体を原理として出来上がっており、孤独を許容する精神風土がないから、人間が孤独だと、それを社会関係に位置づけられず、社会的に孤立を招く。 やはりヨーロッパの場合、自己の中に神がいるから、どんな辺境にたった一人で赴いたとしても、神と共にある、という信仰があるから孤独感は感じないけど、日本の場合、自己の中には何もない、周囲の人びととの「きずな」が唯一の頼りだから、辺境に一人で赴くと、孤独感を感じ、故郷へ帰りたいノスタルジーに駆られる。 そういえば、簡単なのではありませんか? わざわざ、ボルケナウなんて持ち出さなくても。 パスカルに関して言えば、パスカルは来たるべき19世紀と20世紀に人は資本主義の元で、それを許す精神風土が失われ、人間は孤独感に苦しめられる時代がやって来ることを時代に先駆けてそれを予見していた、市民的世界像における人間観を同時代の人には理解されず、それを示した、ということなのではありませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 うりがだい2013さん ご回答をありがとうございます。  ★ もうちょっと明晰に、簡単に、誰にでも分かるように平易に説明できないんですか?  ☆ これは 一般に妥当なご指摘です。  わたしの文章(ないし文体にまで及ぶと考えますが)については多くの場合 弁明があります。  誰が言ったんでしたっけ。マルクスでしたか 何ごとも始めはむつかしい。  たとえば 《非知》という概念を打ち出しています。そう簡単に理解されないようです。何度も説明にこれ相いつとめています。あたらしい理論は そういうものではないのですか?  ついでに言っておきますが ショーペンハウアーの《意志》は 分かる人がいますかね? これは ふつうの言葉なのですから もっとしっかりと定義し説明しないと 自分でも分かっていないのではないかと疑われます。  もうひとつついでですが デカルトの《われ考える》のわれは 実存としての存在ではなく形而上のものとして言っていると分かったわけです。つまりは 早く言えば 《アートマン(霊我)》のことです。だから その後 《それが考える( Es denkt. )》なる議論が出て来ました。だから 現在においても・そしてうりがだいさん あなたにあっても きわめてあいまいなままです。これは こんなに物言いを言われたからには ごくつつましい反論でありましょう。  ★ ヨーロッパは個人主義を原理に出来上がっているので、人間が孤独であることは自明であり、社会的にも、人が孤独であることを許容する精神風土が出来上がっており、その社会関係からして、孤独は決して孤立を意味しない。  ☆ 最後の結論は いいはずですが 《ヨーロッパ人にとって 孤独が自明だ》とは どうなんでしょう? あるいはつまり そのことが《個人主義》とかかわっている。という見方も どうなんですかね。  否定はしませんが 一本調子では(一筋縄では)行かないように思います。  理由は かんたんです。《孤独》の中に《人それぞれのおのが固有の時》を見るとは限らない。からです。そういう伝統は ないはずです。薄いはずです。だからです。(議論を 引き延ばしませんが)。  つまりあるいは 《孤独であることを許容する精神風土》と言いますが それは――ヨーロッパ人とその社会における生活感覚がゼロの人間として推測するだけですが―― 要するにその《許容》の仕方は 《互いに相手との関係をそれぞれおのれの意識における対立とその均衡を図ることにおいて捉えており保っている》と考えるからです。  つまり早い話が ヨーロッパ人とて《孤独が孤立に成りやすく 孤独全般という言い方をして捉えるなら やはり孤独に耐えられるかと言えば それほどやさしいことではない。のではないか》という藪にらみからです。(これもいま 議論を深めません)。  ★ それに反して日本の場合は、共同体を原理として出来上がっており、孤独を許容する精神風土がないから、人間が孤独だと、それを社会関係に位置づけられず、社会的に孤立を招く。  ☆ 上に議論めいたことを書いたのは すべて憶測交じりであって 非常にはにかみながら言ったものですが この見解については 積極的に反論したい。  日本人こそが 孤独に耐えると言いますか 孤独に強い。と言いますか むしろ孤独こそが 人間存在の原点であることをよく知っている。――こう考えています。  共同体が出来上がっているとすれば それは むしろ一人ひとりが 孤独だからであり 孤独の人間性を知っているからだと思っています。  近代・現代になりアメリカ化して もはや共同体は遠い昔のお話になったという意味合いの議論をする人は そういう人に限って 孤独の効用を知らない。孤独に強くない。つまりは 個人主義という思想すら知らない。つまり ただ 横文字に酔って 横文字に依拠して何ごとも考え行動しているだけではないか? こう考えています。  ★ やはりヨーロッパの場合、自己の中に神がいるから、どんな辺境にたった一人で赴いたとしても、神と共にある、という信仰があるから孤独感は感じないけど、  ☆ ぎゃくですよ。あたまの中に観念の神 あるいは神という観念が巣食っているから 孤独に弱いのです。  観念は いわゆる偶像であり いつ滅び朽ちてもおかしくないものだからです。もう枯れてしまっているはずです。  ★ 日本の場合、自己の中には何もない、周囲の人びととの「きずな」が唯一の頼りだから、辺境に一人で赴くと、孤独感を感じ、故郷へ帰りたいノスタルジーに駆られる。  ☆ いいえ。その空洞が わが固有の時なる原点なのです。元気の湧き出る泉なのです。  そういう生活の感覚は 村の生活を知ると 分かって来るはずです。  きづななど無くても 生きて行く人たちがいます。(祭りがありますから それなりの信仰も見受けられますが それは 形から入るといった生活様式を採っているだけであって ノスタルジアは おのれの固有の時の内に深くおさめられているのです)。(NHKの新日本風土記を見て そう思います)。  ★ 人間は孤独感に苦しめられる時代がやって来る  ☆ これは 先のほうでヨーロッパ人は 個人主義で孤独に強いといった見解と矛盾するぢゃないですか。  ニヒリズムなどというのも 軽く扱われてはいけないのでしょう? むしろ虚無としての孤独を わが固有の時と捉えるなら 人間にとっては《関係の絶対性》という命題にまで揚棄して行けるはずです。   ボルケナウを持ち出したのは たまたまそれに触れた回答を最近したからですが パスカルは 正当にも孤独の問題にかかわっていると考えます。  パスカルを 資本主義の興隆とからませて捉える議論については わたしは M.ヱ―バーの例の議論と同じように あまり触れたくありません。理由は 要素要因がたくさんあるのにあまりにもそれを絞り過ぎだと感じるからです。  というより いくつかの主題ないし論点を出しておられますが いまの段階としては 《孤独》論にしぼりたい。  さもなくば ひととおり全体観を捉えることのできるあらまし論を もう少し展開してもらわないと手をつけることが憚られます。  こんな感じでしょうか。

その他の回答 (1)

回答No.2

ショーペンハウワーは、何か文章を書いたなら、それを奥さんか子どもに読んでもらいなさい、と言っています。 もし奥さんか子どもがそれを読んで理解できなかったら、奥さんと子どもが頭が悪いから理解できないのだと思うべきではなく、書いた人間の書き方が悪いと思うべきなのだ、と言っています。 あなたは自分の書いた文章を奥さんか子どもに読んでもらったことがありますか? 読んでも頭が悪いから、読ませても無駄と思っていませんか? それはあなたのとんでもない思い上がりです。 難しいことでも、子供が読んで理解できるように平易に、明晰に、簡潔に、書くべきなのです。 あなたの文章を読むと、まるでその反対に見えます。 自分一人がそれを理解しているのなら、それでもいいかもしれませんが、少なくとも、他人に読んでもらおうと思ったら、誰にでも読んでわかるように書くのが、書くものの務めです。 私はヤフーの哲学カテに回答していますが、みんなから実に分かり易いと言われています。 難しいことを易しく言うためには、それだけの修練が必要なのです。 あなたも、易しく説明できるよう努力してください。 お願いします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  また その問題ですか。  おそらく勇み足による最大の反論は こうなるでしょう。:  読み取りづらい文章であっても じつは内容が理解できる。じつは 何を言っているか よく分かる。  ただし その内容が たとえば過激である。  たとえば 突拍子もない飛躍があると思われる。  たとえば 日本人でそこまでのことを書く人は ほかに誰もいない。そんな内容をすでに 書いてしまっている。それは ちょっと杭が出過ぎである。  うんぬん うんぬん。と言っているだけではないのだろうか?  つまり じゅうぶん中身は伝わっている。ただし あまりにも言っていることが よすぎる。そんな良すぎる物書きの文章は見たことがない。いったい あんたは どこの人間か? そんな日本人はいないはずだ。  あなた・うりがだいさんの場合は その文章は だいたい冒険をしない。これまでの研究についての解説である。だから 分かりやすいと言われるのでしょう。  あとは 《非知》なるあたらしい概念を 人びとがどこまで理解するか。この問題だけです。

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