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ブラフマニズムのアートマン(霊我≒仏性)とは?
- ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)は梵すなわちブラフマン神のチカラが霊としてアートマンなるかたちではたらいていると考えられる。
- 仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在する。
- アートマンはブディズムにおいてブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるが、仏性がつねに生きてはたらくというのとは違ってただの理念のようなものであるとも言われている。
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お返事遅くて済みません。 >>そうですね。依然としてわたしは経文そのものに従っているわけではないのに それでもデカイ口をたたいているのですが これは――必ずしも ブディズム内部の教理に限った議論なのではなく そうではなく―― 宗派やそのひとつの宗教を超えてひとえに広く >>《神および信仰 ならびに〔信仰のオシエ化された(つまり それはオシエを信じるとなるとマチガイである)〕宗教にかんする一般理論》 >>の問題ではないかと考えて来ましたし ご議論に接してもその考えを持ち続けます。 この辺は、立場の違いなんでしょうが、私は各宗教を総合的に解釈するという視点においては、副次的な専門である認知科学の視点で研究はしています。けれども、認知心理学者パスカル・ボイヤー氏なんかは「宗教を一つのものとして扱って説明しようとするのは間違いである」っておっしゃっててたはずですが、私もこちらの立場によります。ある意味、人間個人の信仰心は認知能力のもっているバグだったりして、そのバグを役に立つ形にまとめたのが集団としての宗教であって、まとめるもののチョイスの違いがそれぞれの宗教には違いがあると思っています。最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。 >>☆ そういった全体観からおおざっぱに見た場合には No.5のぼんぬふじさんとのやり取りで提出した構図は かなりその事情を明らかにしうるでしょうか? (略) 今申し上げたように、実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。まぁ、自他不二と、梵我一如にかんしては文献学的な経典とサマタ・ヴィッパサナーという瞑想方法の整合性(パーリ聖典のなかでビパッサナー単独で説かれているのは確か『相応部』の一か所のみです)の問題を加味してはいますが。 こういった細かい差異はさておいて、先に示された図は、確かに仏教やキリスト教やその他の宗教の共通点としてこのようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。 例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。ファン族は神よりも、実際に私たちに危害を加える死者の悪霊を避けるための儀礼や何やはするんですが、神には無関心だったようです。この時、ブラ氏の構図は当てはまるのか?私も宗教学の古典といわれる海外研究をいくつか目を通しましたが、民族宗教の中には上の構図に当てはまらないものもあるんじゃないかと思うんですよね。どうなんでしょう? 私としては全体論というのであればやっぱり個別性の重視になるんですよね。こういう立場の違いはありますよね? >>高崎直道監修・桂紹隆/斉藤明/下田正弘/末木文士編:シリーズ大乗仏教 第八巻 如来蔵と仏性 2014 >>・松本史朗:第六章 如来蔵と空 私は松本先生の基体説といいますか「仏性や如来蔵思想は仏教じゃない」って視点には反対です。松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。あくまで、『六方礼経』ののように、バラモン教的なアートマンに仏教的な意味を付加して仏教的なアートマン説を打ち立て、その中における無我説と考えています。それが、先の回答で挙げた金東華氏や西昭嘉氏の言う説だと思っています。 仏教以前のウパニシャッド文献『ブリハット・アーランニャカ・ウパニシャッド』では、この世を構成する要素の根源はアートマンでありと説かれていて、そもそもすべての要素にはアートマンがあるとあります。また、同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。(記憶便りなんで、あくまでそういう趣旨の意見だってぐらいに思ってください)この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。 そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。 その考えは仏教のみならずウパニシャッドのなかにも逆輸入され、大乗が大乗として自覚を持ち始めるのと同じぐらいの一世紀前後に成立した『マンドィーキヤ・ウパニシャッド』にも、化論寂滅になったものをアートマンと呼ぶというような、「実践の中にあるアートマン」の考えが比較的広く広がりを見せたころ、仏性説が仏教の中にあらわれます。 で、いまブラ氏が読んでおられる本に幅田裕美氏の論考がると思うのですが、私の読んだ印象ですが『涅槃経』に説かれる仏性は、如来常住とともに説かれ、「常住」はそもそも時間的永続性ではなく「いまここに」という空間的な連続性を表す語のようです。この文脈に立ったとき「一切衆生悉有仏性」の訳語はチベット語やサンスクリットの断片との比較の中で原意としては「如来が『すべての衆生に仏性があるという』時は正しく今ここにという実践がある」という意味ではないかという趣旨ことがあると思います。(私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。こののち、『宝性論』なんかでは、そんな感じで解釈されていると思います。同書第五章「宝性論の展開」を参照して。 けれども、仏性という訳語は性はもともと持っているって意味ですから、おいおい教理に存在しているアートマンによっていってしまった。ってことになるんじゃないかと。 結果だけを見れば、教理のアートマンの根強さは感じますね。けれども、上に書いたような展開を十分に検討せず、基体説という単純化(仏性=バラモン教のアートマン)は、案外仏教理解を遅らせる結果になるんじゃないかと思うんですよね。 すんません。ちゃんとお答えになってないかもですが、すいません。後引用等も記憶便りなんで、あいまいなので申し訳ないです。誤字脱字乱文ご容赦を 合掌 南無阿弥陀佛
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- NemurinekoNya
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NO6の付け足しです。 《あたらしき我を着た》のではなく、 《あたらしき我》は、もともと備わっていた。 もともと我々の中にあった。 それが現われた、ですかね。
お礼
痛いところを突かれました。 そのとおりに思います。 ご回答をありがとうございます。 もし――もし この《もし》を百回唱えて弁明にこれあいつとめますれば―― 次のような事情はあるとも考えます。 たとえば 赤ちゃんは 母親に理性や思考を超えてなつきます。この甘えは 《聖なるあまえ》と呼べるのではないか。一般に 幼児は 相手に何のうたがいもなくまして猜疑心を起こすことなどなく 接しますから。 ものごころが着いてからは そういうわけには行かなくて 意識が先立ちます。 ところが この世知辛さを超えて この幼児ないし子どもの心を取り戻したときには あたかも《聖なるあまえ》に還り戻ったかの感じを持ち得ます。 それでも そのときには 何か底なしの天然となってはいけないとか そう見られてはまづいといった意識が やはり先立ちます。 このとき 聖なるあまえに代わって成り得る状態というのは 《きよらかなおそれ》なのではないか。 つまり これもけっきょく《目からうろこが取れた》たぐいの《事件》なのだと思われます。 すなわち このような《革命》について どう表わすか? ・《あたらしき我れを着た》 ・ いや 《すでに潜在していた〈我れなる我れ〉を回復したのだ》。 ・ それでも《あたらしき我れ》という言い方をも捨てきれないのは 《もともとの我れを取り戻しその我れに立ち還った》というときには じつは《ただの自然本性なる〈聖なるあまえ〉の状態》から さらにもっと良き状態に成っている。多少とも力強くなっている。 とすれば その《きよらかなおそれ》なる状態は それとして《あたらしき我れ》だとも考えられる。 どう違うか? 《聖なるあまえ》状態は やがてものごころを着けたあと その状態から――ウソ・イツハリをおこなうことを経て――多少は逸れるし あたかも消えてしまった状態にまで成り得る。 きよらかなおそれ――自性清浄心の再獲得――にあっては 《憂いを帯びた聖なるあまえ》が 恰好よく決まる。 ゆえに。 陰影がなお聖なるあまえを際立たせ得る。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 ○ 我生已尽:《ふるき我れを脱いだ》 ○ 梵行已立:《あたらしき我れを着た》 ○ 所作已弁:《ふるき我が人生(前史)を終えた》 ○ 自知不受後有:《わが後史に入ろう》〔前史の人生をふたたびやり直すことはない〕 梵行已立の解釈は???だと思いますが、このような解釈は成立するのであろう、と考えます。 少し行き過ぎなのかもしれませんが、 パウロがイエスの声を聞き、「目から鱗」が落ちますよね。 仏陀の成道は、これと同じなのではないか。 パウロという人間は変わっていない。世界も変わっていない。しかし、目から鱗が落ちることによって世界の見え方が変わるわけですよね。世界の有り様がこれまでと違って見えてくる。 ゴータマさんもこれと同じなのではないだろうか。 そんなことを考えています。 目から鱗が落ちたというのは、 bragelonneさんの言葉を借りれば、 《ふるき我を脱いだ》 ということですよね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 梵行已立の解釈は???だと思いますが ☆ 《清浄なる行》という解釈が 検索途中で 見つかりました。 ▼ (Wikisource:仏説五蘊皆空経) ~~~~~ http://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E4%BA%94%E8%98%8A%E7%9A%86%E7%A9%BA%E7%B5%8C § 日本語訳 ・・・ [すなわち]わが生で輪廻は尽きた。 清浄なる行は、すでに完成した。 造作することもなくなった。 (もはや、私は)後の生存を受けることはない、と」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは分かりません。わざわざブラフマ二ズムの言葉を借りているということは どういうことか? くらいしか反応がありません。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 少し行き過ぎなのかもしれませんが、 パウロがイエスの声を聞き、「目から鱗」が落ちますよね。 仏陀の成道は、これと同じなのではないか。 パウロという人間は変わっていない。世界も変わっていない。しかし、目から鱗が落ちることによって世界の見え方が変わるわけですよね。世界の有り様がこれまでと違って見えてくる。 ゴータマさんもこれと同じなのではないだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そこで 聖書本文ではなく一般的な解説として: ▲ (ヰキぺ:パウロ) ~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD#cite_ref-8 § 2 パウロの生涯 ・・・ ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。 アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。 この経験は「サウロの回心」(使徒行伝9:1‐19)といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ばか‐はげさんは いまお盆でお忙しいようです。 ◆ 西昭嘉氏の「原始仏教における無我説の再考」と「原始仏教聖典におけるattanとbrahman」 ☆ 前者は 見つけられませんでしたが 後者は 前者論文を承けての内容ですから それをひとつの判断基準にしてよいと思います。そして それを読む限りでは ブラフマニズムとゴータマとを アートマンないし梵我一如なる思想の違いとして区別する理由は まだ納得するまでには到らない。 こういう中間の結論でよろしいでしょうか。
- bonnefuji
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仏教側は、悟りには無我の体得もふくまれているんだと主張します。もし、本当なら、これが確かにウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとの違いでしょう。 しかし、単なる無我は、理性に反するものです。カントのように我やモノに実体があるかないか、なんであるかもわからない、は論理的・理性的ですが、我やモノが「ない」ことは導けません。関係性・因果の結びつきでとらえることも、実は実体を否定できるものではありません。 仏教の 悟 りがホンモノであるなら、理性に反する無我の体得を除けば、輪廻からの解脱など、ウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとはきっと同一でしょう。
お礼
ぼんぬふじさん お早うございます。初めまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 仏教側は、悟りには無我の体得もふくまれているんだと主張します。もし、本当なら、これが確かにウパ ニ シ ャ ッ ドの 悟 りとの違いでしょう。 ☆ この《無我(アン-アートマン)》説の扱いにかんしては じつは質問者には解決案があります。 ゴータマと後世のブディストとを分ける捉え方です。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如 無梵:空(シューニャター・ゼロ) 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ (阿弥陀)/ マハーワイローチャナ(大日) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これは 人間にとっての信仰――信仰一般です――のかたちを 《梵我一如》なる類型のもとに捉えようとしたものです。梵我一如を 一般概念として扱おうとするものです。 この梵我一如なる信仰形態は 次のようにわが心なる《非思考の庭》にて起きていると捉えます。 ○ (わが心なる非思考の庭) ~~~~~~~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ____________________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ___________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さらにこの際添えますが 非思考の庭が 受け容れているのは むろん《神》です。神とは 次のような説明における《非知》なるナゾのことだと定義しています。 ○ (《非知》とは) ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき《非経験の場⇒ 非知》なるナゾは 一般に《神》であり 個別の人にとっては じつは有神論と無神論とに分かれます。 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》ということは 《経験的に言うところの〈有る〉か〈無い〉かが知り得ない。人間には決められない》ことです。 したがって わたしたちがそれぞれ神をわが心に受け容れるというときには 《有る神》か《無い神》か どちらかで――つまりそれぞれ言葉による表現の違いを許容しつつ――受け取っているはずだからです。 《神を信じる》というのは 一般に《有る神を心に受け容れている》信仰です。 《神を信じない》というのは 《無い神を心に受け容れた。けれども もうそのあとは いちいち触れないのだ》という信仰のかたちです。 《非知》はこれを 人間がいやだと思って否定したり削除したりすることは出来ません。そのように言ったとしても 《非知すなわち神》は 痛くも痒くもありません。非知は 非経験の場であり 絶対だからです。 でも 《神などはいるわけがない。いないと信じる》という自由が 人間にはあります。 この無神論が ひとつの具体的な形態として表わされたのが ゴータマ:無梵無我一如 なる無神論 だと見るわけです。これも 信仰であり《梵我一如》なる類型に入ります。 おそらく後世のブディストたちは 《無我・・・無い神》という言葉に反発して 《有る神》をえらび 《法身のブッダ》を立てた。したがってミクロコスモスなるアートマンの位置には けっきょくアートマンと同じ霊我なのですが アン‐アートマン(無い霊我)の代わりに ブッダター(仏性)を同じく立てた。 こうだという交通整理であります。 だいたい 次のようにご議論されたところを含み得ましたでしょうか? ★ しかし、単なる無我は、理性に反するものです。カントのように我やモノに実体があるかないか、なんであるかもわからない、は論理的・理性的ですが、我やモノが「ない」ことは導けません。関係性・因果の結びつきでとらえることも、実は実体を否定できるものではありません。 ☆ 《経験世界――思考の緑野および感性の原野――》では 《有る・無い》が決まります。あるいは因果関係が決まります。ところが 《非経験の場=非知》にあっては この有る無いを超えており因果関係からの自由であると来ています。おそらくついでに言えば善悪の彼岸として善悪をも超えているでしょう。 むろんこの非知が おっしゃるように《実体》として名づけられ扱われて来たことも 実際であると思います。 こういう見方を採っています。 ひとこと言えば ゴータマ氏は じつは《無梵無我一如》なる信仰を得たとは 自分では分からなかったのではないか。そもそも《信仰》とはどういうことか? 《神》とは何であって 何でないか? についてしっかりとした哲学を持ち得たかについて いささか疑問が残ります。 この疑問は むろん 晴らされるならばそれに越したことはないという問題です。 長々と出しゃばりました。この際です。 もう一言:《シュウキョウ》は そのオシエが信じるものではなく考えることなのですから これを信じなさいと言ったとしたら それは精神錯乱に落ち入ったことを意味します。 学習会などとして集団を組むことはよいとしても 信仰の集団だとか信徒の組織だとかというのは じつは気が振れているのでないなら あり得ません。 《非思考の庭》が 複数の人間のあいだに集められたり束ねられたりすることは あり得ないからです。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんばんは。 ☆☆ ということは またまた 《さとり》とは何か? ◇お示しになられた論文に ~~~~~~~~~ このように知り,このように見る彼には,欲望の煩悩からも心は解脱し,生存の煩悩からも心は解脱し,無知の煩悩からも心は解脱し,解脱した時には,解脱したという知恵が生じる。生まれることは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなし終えた。もはや,このような〔迷いの〕生存状態に戻ることはない ,と知る。 ~~~~~~~~~ という仏典の一節があるでしょ。 わたしは、ずっと前に、 bragelonneさんに「自分が悟ったということを悟った」、「解脱したということを悟った」と言ったことがありますが、こうとしかいえないんですよ。 (自分が)解脱したということを知る、この能力(?)を《解脱知見》といいます。 この《解脱知見》は仏陀にしかない能力とされています。 ちなみに、この部分の最後の四句は 「我生已尽 梵行已立 所作已弁(しょさいべん) 自知不受後有」」 で、有名な箇所です。 特に「所作已弁」が有名です。 これが、《さとり》の内容と言えば、内容かと・・・。 嘘だな。 《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言うべきなのでしょうね。 ヴェーダで、ヤマ天(閻魔大王)が不死(アムリタ)の世界、不死の道を発見した、というのと同じ内容だと思いますよ、きっと。 このことをゴータマさん流に表現したものなんでしょう。 これ以上は、ちょっと恐くて言えないです(ポリポリ)。 既にかなり危ないことを口にしてしまったような気が・・・。 ですから、 循環論法ではないか、 といわれれば、その通りで、 わたしもこれには困っております(ポリポリ)。 ほんと、答えようがないんです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言うべきなのでしょうね。 ヴェーダで、ヤマ天(閻魔大王)が不死(アムリタ)の世界、不死の道を発見した、というのと同じ内容だと思いますよ、きっと。 このことをゴータマさん流に表現したものなんでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 経典を知らないので何でも言えるわたしに言わせれば かんたんなことに見えています。 ○ わが存在の成り立ち: 《不死の道を直観》:非思考の庭:ヒラメキ ------------------- 《さとり空間の自己同一性》:思考の緑野:認識 《イメージ直感》:感性の原野:知覚 これらの構造が《われ》の内に出来ていると見るというのが ◇ 《さとり空間》からこの世界に戻ってきて、このように感じた、こう解釈したと言う ☆ ことだと捉えられます。 ですから たとえば: ○ 我生已尽:《ふるき我れを脱いだ》 ○ 梵行已立:《あたらしき我れを着た》 ○ 所作已弁:《ふるき我が人生(前史)を終えた》 ○ 自知不受後有:《わが後史に入ろう》〔前史の人生をふたたびやり直すことはない〕 といった感じで捉えます。パウロ的解釈ですが。 たぶん 《後史》なる概念を導入すると ◇ 循環論法ではないか ☆ という問題は起こらないのではないでしょうか? さとりは 前史から後史へという地平の同一なる見方のほうがよいかと考えます。 ブディズムには 前史から――たぶんその地平からいっぺんに垂直に舞い上がって――本史に到るというようなアマアガリ志向もしくはアマガケリ傾向が その思想にあるのではないか? と見るのは ただのやぶにらみでしょうか? 煩悩と解脱といった対立する二項を・そしてその論理を推し出し過ぎなのでは?
補足
おぎないです。 さとりについての捉え方(その説明の仕方): ・ブディズム:前史(此岸)から本史(彼岸)へ ・パウロ:前史(此岸)から後史(此岸)へ 本史は 自然の体から霊のからだへの《復活》 もう少し細かく見るならば: ・パウロ:前史(此岸)から後史(《彼岸‐此岸》構造)へ もっと細かくは: ・一般に:前史(《彼岸‐此岸》構造の潜在)から後史(構造の顕在)へ ・《彼岸‐此岸》構造は 《梵我一如》なる想定である。 ・ 梵我一如は 信仰形態についての一般類型である。 ・これが 顕在化するのは 《非思考の庭》なる目覚め(ブッダ)である。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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知るか、ボケ。 俺様は仮面ライダーだ。 俺様はもはや、自らの正義のみを信じる。 助けてくれと言われても知ったことじゃない。
お礼
★ のみ ☆ という言葉が現われると何かと やばいですよ。そういう場合が 多いですよ。 という反応が 第一に出て来ます。 ご回答をありがとうございます。 この問いは へんな恰好でしょうが 具体的にブラフマ二ズムとブディズムとが 梵我一如をめぐってどう違うか? でした。感覚として 違わない。同じである。と思っていただけだったので 質問としました。 仮面ライダーって 虫か何かだったんですよね。 そういうのを人びとは好むのかなぁ。
- NemurinekoNya
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こんばんはです。 ☆☆ これは 分けて考えるべき要素があると ほんとうに 見るべきなのでしょうか? ◇分けて考えることがインド的ではない、と思います。 インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。 もしキリスト教が「知らんがために信ず」という言葉で形容できるとするならば、 仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。 ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。 bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。 おそらく、これは宇宙とわたしが溶け合っている、状態なんでしょう。 このことを女性に抱擁されているような悦びと表現しているようですけれども。
お礼
あっ すみません。ありがとうございます。 ◇ インドの形而上学や哲学は、ヨーガ(実践)と車の両輪の関係にあって、どちらか一方のみに焦点を当てるのはおかしい、と思います。 ☆ ということなのですね。 そこを ブディズムだけは 特別であると言おうとしているのでしょうか。やっかいですね そうだとしたら。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 仏教やバラモン教をふくむインド教は、「知らんがためにヨーガす」です。 ウパニシャッドが如何に知識を重視するといっても、《梵我一如》という教えや言葉を聴いただけで、悟れるなんてことは言いませんよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですよね。 だとすると いったいどこが違うと言おうとしていたのでしょうか。《神》を出すかどうか くらいでしょうか。《ブッダ》にこだわるクセでしょうか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさんの言葉でいうならば、《梵我一如》も補助線であって、その先にはヨーガによる超経験的な領域、非思考・非経験の庭があります。その非思考・非経験の領域で超経験的に感得できる何かが《梵我一如》なんだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは またまた 《さとり》とは何か? になってしまいますね。法身のブッダを打ち出すことで 《神》とは言わない。というときの地上におけるブッダのさとりとは何か? ブディズムは ややこしいですね。 ひょっとすると ゴータマ氏は ネクラだった? ですかね。あれとは違うんだ これとも別なんだと 独自性をどうしても出したかった。・・・ いやぁ ややこしいこと限りないです。《梵我一如》なる信仰のかたちを 一般類型とすることが出来る。このひとつの方程式で そうとう遠くまで行けると思うんですがね。
- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆ つまり 梵我一如と言えば 梵すなわちブラフマン神のチカラが 霊としてアートマンなるかたちで はたらいている。と見るのは 当然であるように考えられるのですが 違うのでしょうか。 ◇ですよ、とずっと前から言ってきたじゃないですか。 仏教はbrahmanismなんですよ。 (大乗)仏教では、このbrahmanを法界や法身仏と呼び、それがすべての生き物にも内在する、と考えるんですよ。この???を如来蔵と呼んだに過ぎない。 仏教は、仏典が説くゴータマさんの時代からブラフマニズムです。 ゴータマさんと梵天さんは、切っても切れない関係にあるんです。 ☆ つまりこのアートマンは ブディズムにおけるブッダター(仏性)ないし如来蔵とほぼ同じものであると考えられるのですが そのときそれでも 仏性がつねに生きてはたらくというのとは違って ただの理念のようなものであるに過ぎないのか? ◇教えとしては理念のようなものなんでしょう。 ただ、ヨーガなどによって超経験的に感得できるもののようですから、理念という言葉で片付けることはできないのでしょうね。 ☆ 前にも仏性の事で申しましたが、仏性と同じく仏教におけるアートマンは実践の中でのみ存在し、バラモン教のアートマンは教理に存在します。 ◇「実践の中でのみ存在する」というのは奇妙な話。 実践の中には現勢態として働いているというのなら、分からないでもないですが、 それでも、 実践中以外の時は潜勢態(可能態)として存在しているわけでしょう。 もっとも、アートマンは条件によって消えたり、生まれたりするのである、と言うのならば話は別ですけれども、 生滅するものをアートマンとは呼びません。 であったら、無我論の立場をとる方が首尾一貫している、と思います。
お礼
いやぁ ありがとうございます。いえ こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この一点は 教理としてどうなのかと自分の知識をあやぶんでいました。 ◇ 生滅するものをアートマンとは呼びません。 ☆ そりゃあ そうです。《霊我》ですから。思考の緑野や感性の原野ではなくそれらを超えたところの非思考の庭における――想定じょうの――直観などを寄すがとしてあると信じるチカラだと思いますから。 ◇ であったら、無我論の立場をとる方が首尾一貫している、と思います。 ☆ 《実践》の外では ハタラキを持たないのなら いっそのことアン‐アートマン(無我)なる見方を採ってそれをすべてに及ぼしたほうがよいと。 それでも アン‐アートマンとて 非思考の庭なるけっきょく《無い神》(やはり霊)のことであろうから つねに潜在力としてあると想定される。 あと 確認になると思いますが ■ (西昭嘉) ~~~~~~~~~~ けれども原始仏教が説く悟りへの道は 実践道であり, 〔ウパニシャドにおける〕atman の説明のように ,形而上学的考察に基づいて悟りを求めるものではないので あるから, たとえ 原始仏教の悟りの境地とウパニシャッドの悟りの境地が同一であったとしても, 悟りに到る道を区別して理解すべきであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 分けて考えるべき要素があると ほんとうに 見るべきなのでしょうか? 形而上学というのは けっきょく神学ですよね? 《実践道》だからと言って それの説明のために一定の神学がないわけではなく やはりあるはずです。だとしたら どこでどう違ってくるのか? と思うんですけれど。 まぁ こんどは ばか‐はげさんに尋ねるべきようなのですが。
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お礼
ばか-はげさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 認知科学の視点 ☆ ですか。これは 言語学でも始まっているようですね。言葉の発生・語や文の生成などについてあらたな視点や認識が得られるのでしょうか。 わたしは お手並み拝見という・やや冷めた見方をしていますが。 ★ 最初の回答の中で私が答えたことはあくまで、瞑想体験や祈りによる体験みたいなものは同じような認知機能のバグが下地にあると思っているという事にすぎず、それをほかのものとまとめて出来上がった集団としての宗教の教義が同じという事ではないんですよね。 ☆ これはですね。むしろ基本として同じ理解に立っていると思います。 なぜなら 《信仰――個人の心の内面にとどまる非思考の庭――》のかたちとしては 梵我一如が一般的な類型になると見ていますが ★ 宗教の教義が同じという事ではないんですよね。 ☆ ともまったくそのとおりに見ていますから。 なぜって そもそも個別には《神》の名前からしてそれぞれ違っているのですから。信仰の成果が何らかの言葉化されオシエとなった場合には それとして違いが出て来るのは 否めないと考えるからです。 梵我一如は 神と我れとの関係についてのかたちを示すものです。その信仰の成果が オシエとされたときには 人間観や世界観としてその思想は違って来るものと考えます。 《認知科学》が 信仰の形態としてもその初源の生成にまで認識をおよぼすことが出来るなら まづはそのときの結果を俟つことになると思われます。 ★ 実は私の視点は全体観といえるようなものではなく、瞑想体験や祈り体験という狭い範囲の中で見ることができる共通性という大変狭い範囲なんですよ。 ☆ こまかい事柄にかかわると見ます。 たとえば《祈り》は 《神と我れとのあいだの関係》について 経験行為として人間が持つ心的現象でしょうね。そのように基本の理解は やはり共通の内容として捉えることが出来る。 ただしその《祈り体験》とそこから得たことがらを表現した内容については 宗教によって違うのはおろか 個人ごとに違うのではないでしょうか。組織宗教としてそのような個人差をまとめて 一定のオシエとして掲げるというのは さらにそのあとの問題ですから。 《瞑想体験》も 特にそれが《修行》にかかわるのなら 個人差の問題であり そのあと宗教のオシエとしてのまとめの問題が来ます。 《全体観》というのは それでも(つまり そのような個人差や宗派の差があっても) 原点とも言うべき信仰の生成なるかたち これは 梵我一如なる類型として 例外なく共通である。こういう見解です。 ★ ・・・このようなブラ氏のいうような構図をつくることは可能でしょうが、それに漏れる宗教も存在すると思うんですよね。 ☆ これにつきましては 二点あらかじめ添え書きを持っています。 ひとつは イスラームです。これについては いわゆる唯一神のもとにありますから 簡単に梵我一如の構図をあてはめてもよいかと思うのですが わたしには 実際に・生活感覚として 《アッラーフ 対 われの関係のあり方》についてよく分からないのです。よって保留としてあります。 あとは いわゆる原始心性にもとづくアニミズムなどの宗教としては すでに触れないという方針を採っています。詳しい分析をしようと思えば そのつど当の宗教を取り上げて 把握すれば足りる。こう考えています。 ★ 例えば、確かアフリカだったかなファン族って人たちがいるんですが、彼らの宗教の中には自然的なものの創造主と文化的なものをつくった創造主がいるんですが、だれもこの神を気にしませんでした。・・・ ☆ かんたんです。その《創造主》にしろ《神》にしろ 《非知――非経験の場――》であるか無いかで判定すれば済みます。 もしたとえば八百万の神々は どう扱うのか? と問われれば それは 《非知なるひとつの神》の分身だと言っておけば済みます。 ★ 個別性の重視 ☆ と梵我一如なる普遍的な類型を打ち出す全体観とは 無理なく両立します。 ★ 松本先生は無我がバラマン教的なアートマンへのアンチテーゼと考えていますが、私はそうは思っていません。 ☆ これにつきましては すでにほかのやり取りにて私見を述べています。 梵我一如なる信仰のかたちは その梵も我もあくまで非思考の庭なる想定のうえでの《議論》なのですから この世の経験世界における《有る無し》や因果関係を超えたところの問題です。 言いかえると アートマンが有ると言っても無いと言っても その霊我なるアートマン(ないしブラフマン神の霊)には 何の変化も影響もありません。有神論か無神論か いづれか好きなほうで人間は 神とあい対すればよい。となっています。 人間の思考の領域における《テーゼやアンチテーゼ》の問題ではあり得ないのですから。つまり 仮りにアートマンと言い あるいはアン‐アートマンと返し さらには いやいやブッダダーツだとひるがえす。いづれも 一般類型としての《アートマン》のことです。名前が違うだけです。そういうお約束で成り立っています。 ★ 同時期の『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』にはサンプラサーダ(肉体と魂が分離し純粋に魂になった状態)のアートマンがブラフマンであるとあって、もともと存在しているアートマンが昇華してブラフマンに至ると考えられています。 ☆ それは すでに触れて来ましたとおり 信仰の体験をめぐるその成果については 個人差や宗派の差があるといった問題だと考えます。 そしてそのような成果は すでに言葉で表現されているのなら すでに哲学思想の問題となっていますから 大いに経験思考にもとづき互いに自由な批判をしあえばよい。こういう見方です。普遍性に欠けるオシエは 淘汰されて行くでしょう。 ★ この、そもそも存在しているアートマンてのが、私の言葉では「教理の中に存在するアートマン」です。 ☆ 《非知》だと言っているのに オシエないし《人間の思考》の中におさめられる(そして あたかも操作されうる)というのなら それは 信仰の理論に反しています。 言いかえると――文献や信仰の歴史を措いて捉えるのですが―― 梵我一如なる信仰論を持ったなら それだけで《実践》に入り得る。と見て 差し支えないと考えます。《オシエ》に還元しないなら そのまま実践の問題に成り得ます。 ★ そして、仏教において金東華氏や西昭嘉氏の言うような、中村元氏の『スッタニパータ』では「自我の安立」という、仏教の実践の中において「アートマンを確立する」という考えがうまれます。これが「実践の中に存在するアートマン」です。 ☆ ブラフマ二ズムの中でも 《オシエになる前のアートマンとしての直感》とそのあと《オシエとなったアートマン説》とがあるのではないでしょうか? そして 梵我一如なる《信仰の生成》が先であってそこから《アートマン》を取り出しこれを理論化し そのあと《アートマンを確立する》という考えが生まれたとしても その考えじたいが 思考の問題であり思考の領域に神ブラフマンをすでに降ろして来ている。それを 修行をとおして実現するといった考えは 二番煎じなのです。 神は 息(風・霊 すなわち=アートマン)なり。と捉えたその初源の生成が 信仰としてすべてなわけです。オシエ化は・つまり宗教は やはり二番煎じです。 梵我一如なる普遍性(全体観)のもとに そのオシエをもともなった信仰や瞑想や修行の体験の成果にかんする宗派・宗教は なるほど個別性を重んじなければなりませんが 全体観を破るものではない。こういう認識であり 理論です。 ★ (私はそれが『スッタニパータ』では1146に出てきたお釈迦様の事ではないかと思うわけです)つまり、『涅槃経』なんかにある仏性説は「実践の中にある仏性」であって、決して「教理の中にある仏性」ではなかったはずです。 ☆ もし仮りに大幅にゆづりまして このとおりだったとしましょう。ゴータマこそが アートマンについての実践を見出しとなえた最初の人間だとしましょう。 だとしても 梵我一如は 《神および信仰》の理論として 普遍性を持つ。こう言えるはずなのです。 要は 《唯我独尊》なる立ち場は 成り立たない。誰もが いまだ目に見えぬ・人類にとって一つなる神のもとに生まれ生きているというサンガなる共生の理論が 大事です。 クリスチアニズムは 旧約からの神ヤハヱ―を揚げて棄てました。《ひとつの神》のもとに揚げて そこでユダヤ民族なる選良のための神であることを棄てました。 そういう革命が ブディズムにもおとづれる。のではないでしょうか。 こういうあらたな道が待っているのではないでしょうか? つつしんで申し上げます。
補足
おいそがしいところを ご回答をよせてくださってありがとうござました。 信仰の普遍的な類型とそしてその個別のあり方 この関係具合いなどをめぐりさらに問い求めてまいりたいと考えます。みなさん よろしくどうぞ。