• 締切済み

人の悪事はどこから始まるのか?

問題に差し掛かった時、様々な感情や理性があり、そのときに悪事行為や、その物事に対しての倫理を壊してまで事態を納めようとする人がいる一方で、悪事をせずに解決をする人、そういった姿勢の人もいます。 この場合、悪事をする人というのは、自分の都合が悪くなった場合、最後には悪事をする、と自分の中のどこかで意識的・潜在意識的に決まっているのではないでしょうか? それは、ある物事をしたいと考えたその当人にとって、進行させた先自分の理性が保てないと先走った結果、 理性として、「困った時には、人殺しをしてでもやる」としていて、そこに、自分・自分達の闇を追いやり、他者への危害や、社会への損害を加えることが、社会などの闇になっているように思います。 本当に都合が悪くなってから悪事に移るというのではなく、その人の中で理性的に、 「周囲に迷惑をかけない、ということを省くことで現在の理性を保つ」という筋道が具体的にではないにしても、最初から決まっているのではないか、と思うのですが そういった思想的、心理的な問題を、皆さんはどう思いますか?

みんなの回答

  • shorinji36
  • ベストアンサー率17% (406/2382)
回答No.2

逆でしょう。 それが人間の本性です。それを倫理という概念をつくり出し秩序を生み出しただけ。 自分の我を抑えられなとき殺意が芽生えるのは普通のことなのです。

Mychuo
質問者

お礼

>それが人間の本性です。それを倫理という概念をつくり出し秩序を生み出しただけ。自分の我を抑えられなとき殺意が芽生えるのは普通のことなのです。 これは、悪事に傾く際に良心を取っ払ってしまう論理でしょう。 それなら、 >本性に倫理の概念をつくり出し秩序が生まれたというだけで、本性そのものに殺意が芽生えることは普通のこと というのが、逆だと「も」言えます。 つまり、殺意が芽生えないことも普通だし、殺意が芽生えることも普通だということです。 だから、人間の本性に倫理をつくり出した秩序というものを、切り捨てることも不自然なことではあります。

  • neo_Venus
  • ベストアンサー率50% (130/260)
回答No.1

こんにちわ あくまでも参考までに。 すべては、「自己保全の心」の心の働きからきます。 心の奥底にある、貪り、無智、・・といった、心の働きから。 そうではなく、万物にたいする 哀れみ、慈愛、平等心、といった 万物に対する、恩恵する心を持てば 人の悪事というものは、おさまります。 ただ、万物に対して、哀れみ等を持つ心 なかなか、難しいものが、ありますが。 他に対して、奉仕しようという実践でも その見返りが、自分に、返ってきますから。 すべては、カルマの法則で、万物は生きてます。 すなわち、なした事は、すべて自分に返ってきます。 善行を行えば、よいことが、 悪業を犯せ、むくいが、返ってくるのです。 すべては心の働きです。 例えば、人殴る行為を行うとして その時の心の働きが、「修行が、進みますように」と 念じて殴るのと、単純に、嫌悪を持って、殴るのでは 前者は、向上心を悟らせ、後者は、嫌悪の心が、やどります。 ちょっと、難しかったかもしれません。 すべては、心の働き 自己保全の心が、原因と、思ってください。 以上

Mychuo
質問者

お礼

回答ありがとうございます >…万物にたいする哀れみ、慈愛、平等心、といった 万物に対する、恩恵する心を持てば 人の悪事というものは、おさまります。 ただ、万物に対して、哀れみ等を持つ心 なかなか、難しいものが、ありますが。 そうですね、それが難しいから、悪事があるようなものなのかもしれませんね。 それで考えると 「(悪事も)全ては自己保全の心から」 というのは 「哀れみや慈愛等を、且つ平等(平等心)に持ち得るなら、そこに悪事はない」ということですが、 しかし、悪事をする側の一種の主張や主義は、自己願望を果たす為には、良心や理性が邪魔になるからと、 理性を早い段階で自主的に麻痺させるために、 「因果の都合の悪い部分をまともに見ないようにするということで、因果を利用している」ということのようにも思います。 所謂「罰があたるよ」と言うと、「馬鹿じゃない?そんなこと気にして」といった具合に、心理学や思想学の一つの拠り所としての共通項を、 その人は「自分の願望のために蔑ろにしてしまう」ということ。 質問文にもありますが、自己や願望の利益のためであれば、一部の他人や、社会のある部分に損害がかかるのは仕方がない、といった 「平等心の欠如」であり、それが「社会の闇」になっているということがわかります。 回答者様の言うように因果応報があるとすれば、上に書いたような場合だと、「因果応報を繰り返しそれを終わらせない働きをしている」、というものだと思いました。 それこそ、一部の社会や一部の他者に闇を落としてもいいという前提を自己理性に含んでいることが、意図意識として、人の悪事が始まる原因ではないでしょうか?

関連するQ&A