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「きれいごと」とは
- 「きれいごと」とは、理屈は正しくても現実には実現できないことを指します。しかし、実現可能なことを証明すればOKです。
- 思想や哲学はすべて「きれいごと」なのか、それは実体験に基づいているのか疑問があります。
- 「きれいごと」は慰めや勇気づけになるが、自分自身で体験して結論を得たものなのか、という疑問があります。
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全体の話しの流れから、綺麗事にもう少し前回よりも足したいので書かせて下さい。 ここは哲学ですので、よく戦争と平和や日本における自殺者問題や 宗教・思想、文化や経済など様々な話題が出ます。 理想は理想で実現できないことを「きれいごと」と 本来は言っているのだと思います。 日本語としての使い方は、そうですよね。 理想が実現できない範囲なら「理屈」だと思いますが 理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。 たとえば自殺者問題。 自殺する人は、すでに孤立して内面が孤独になっています。 人との良い関係の繋がりが、しっかりとあれば自殺は防げます。 とういうか、自殺しないでしょう。 誰しもが、自分の隣にいる人といい関係を構築し互いに手を結んでいれば 自殺は起きないでしょうし、その繋がりが広がれば広がるほど 世界中の人が繋がって行きます。 世界中の人が互いを認めて繋がり合えば、戦争は起きませんし 経済も確実に上向くでしょう。 その根底は、自分を深く理解すること。 自らを知れば、仕事も含め人生において自身を活かすことが できるだけでなく、何が適切な選択かも理解できる。 それが叶えば、仕事は食べる手段に収まらず 高い労働力による高い収入や満足のいく労働にしていけるでしょう。 そのように変わって行くことで、搾取する者は減って行きます。 そこまで行けば、思想やシステムの問題より それを運営して行く側の問題(個が問題)だということが 多くの人の目にも明らかになってくるでしょう。 主義や思想が何であろうと、新しいシステムが発案された所で 裏で反していれば、いつまでたっても本当の意味で良くなることはないですからね。 自身が自らを理解して行くことが、世の中のために 大きく貢献できることであり、自分と周りが幸せになって行くことだと それが私が好きな「きれいごと」ですね。 自らを理解して自分の足で歩くのは、理屈ではなく 誰しもがそれぞれに十分叶えられる範囲であり 自身が、世の中が良くなって行く出発点だからです。 ですから理想を追っても、何も矛盾することは無いと私は思っています。 他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなものだと思います。 キラキラと呼ばれるものは、本来その幻や蜃気楼を 描いて追うなっていうことに繋がるのではないかと 個人的には思います。 そこに哲学的批判、つまりは問題をより高めて行く自問自答が とても有効だと思います。 それにより自らで、自分に磨きをかけていけるからです。 自己啓発は、そこで繋がってくると思います。 適切に使っていくことですよね。 本当はデキる自分が、真の理想として持ってるものだと 個人的には思っています。 余談ですが、純粋理性批判は「純粋理性哲学自問自答」とすれば 日本人にはわかりやすいと思えます。 が、漢字ばかりで長いです(笑)
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こんばんは。私も、ずつと考へてゐる問題です。回答の機会をお与へくださり、ありがたうございます。 >>どういう心構えが必要でしょう? frauさんの御指摘どほり、これがポイントなのでせう。一人の知恵などで結論が出せるやうな問題ではないとおもひます。私なりの現時点での見解を記します。今後とも、さらなる御教示をいただければ幸ひでございます。 「きれいごと」の評価については、年齢や経験が大きく影響します。一般に、若いころは、愛や平和を声高高にさけびたがります。理想にもえた純粋な気持ちはすばらしいものです。しかし、現実は異なります。年をかさねるごとに、無力さを感じてきます。だんだんと、「きれいごと」だといふ認識ができてきます。 私は、「きれいごと」であらうとなからうと、かまはないとおもひます。別のページで書きましたが、極論すれば、人はみな偽善者なのではないでせうか。完璧な人などゐません。では、必要な「心構え」とは何か。 (1)人間の弱さや愚かさを認めること。 (2)自分を大切にすること。 この2点を、今の時点で、私は考へてゐます。 たいていの人は、自分の悪いところに目が向かず、良いところを楽しみます。逆に、他人に対しては、良いところよりも、悪いところに目がゆきがちです。私がさういふ人間ですので、とてもよくわかります。 この傾向を素直に認めることが大切なのではないでせうか。つまり、他者への愛にこだはると、他人の悪いところが気になつてきます。反対に、自分をみつめると、良い点、たとへば、やさしい気持ちを過大評価して、自分はそんなすばらしい人間なのだ、と思ひこむやうになります。 他者への愛を叫ぶひとたちが、戦争までおこしてしまふ原因のひとつは、まさにこのことだと考へてゐます。結局、他者のため、他者のため、と叫ぶたびに、他者の粗が目についてしまひます。そして、自分の気持ちを大切にしないために、本来自分が持つてゐるはずの、やさしい気持ちを見失つてしまひます。 「きれいごと」であるかどうかは、どうでもいいことです。若者は、愛と平和を叫べばよい。私のやうなとしの者は、それが鬱陶しい。人間の弱さを認め、、自然への謙虚な態度をとるかぎり、どんな意見であれ、美しい、と私は感じます。
お礼
こちらこそ、ご回答ありがとうございます。 これだけの回答をいただいて(感謝)私も、考えが固まってきました。 >若いころは、愛や平和を声高高にさけびたがります。 ムカつく我が日本の政治家の爺連中も、最初はこうだったと思うんです。でも選挙演説は「きれいごと」(笑)。 >自分を大切にすること。 あーこれぞ、まさに今後の半生の課題です。 >他者への愛にこだはると、他人の悪いところが気になつてきます。 うわ!これ、名言です。たぶん私の今後に生かされることでしょう。で、これと「自分を大切にする」とは密接につながる。 「自分を大切にできなければ、他人を大切にできない」。 ということですね。 これはポエムではありません。一般的に浸透してますが、臨床の場療法のための概念でもあります。実際個人的経験からも会得しましたし。ましてや「きれいごと」ではなく、誰でも一度経験し、気づき、会得していくべき心のあるがままの姿のひとつだと思います。 なので、私が則ると決めたのは、名も知らない誰か(達)の考え方ですが、私にとっては「きれいごと」ではありません。 全ての人が心に留め、活かすべき普遍的な考え方だと思ってます(これだけは譲れません) >「きれいごと」であるかどうかは、どうでもいいことです。 そうでした。 「きれいごと」は「キラキラワード」だから、騙されないように、という経営コンサルの言うことに一瞬でも惑わされた私でした。でも彼の言うことも、企業人間になれっていうコントロール(きれいごと)に変わりない。気持ちがブレて、腹が立ったから質問したのです。 でも様々なご回答、それに対する考えを述べさせていただいていく過程で答えが固まってきました。 >>>どういう心構えが必要でしょう?frauさんの御指摘どほり、これがポイントなのでせう。 ご指摘どおり、質問の段階で回答がすでに出てたのでしょう。
きれいごと、というのは哲学的な問答についての言葉では 無いように思うのですが。 現実に起きている困難に対して具体的な解決策の提示でなく、 単に心構えを述べるだけに留めるような意見表明について、 当事者意識のない無責任な態度であることを批判する言葉だと 思います。 一方、哲学や思想は個々の困難な状況、事件について 具体的な結論を出す、ということについて非常に不得手で あるように思います。 例えば、イスラム教の戒律を破ったと一方的にレイプされた 10歳の少女が、泣きながら被害を訴えても、暴行した男が 村の有力者であったため、村人の男達はこぞってその少女が 一方的に男を誘惑して性的関係をもった、ということにしてしまい、 恐怖のあまり泣き叫ぶ少女を公開処刑した、というニュースが 先程別なサイトで流されていました。 これに対して、哲学は無力です。 思想は、それだけでは無力です。 思想が狂信的宗教や軍隊という現実的な攻撃力を供え、 高度な訓練と武器によって隠密裏に、そのパキスタンの 村の一つを襲い、現実的な威力を発揮したりと、何らかの 現実的な強制力を使わねば、何も変わりもしません。 女を家畜にしか思わない狂信的なイスラム教の悪習、 コーランの教え、或いは解釈に対して、別な教義や いわんや、只の個人的つぶやきに過ぎない言論など、 口にした所で良くて袋叩き、悪くて首を刎ねられて 終わりでしょう。 私は思うのですが、どうも現実逃避の一つの逃げ場として 哲学や思想に浸る人がとても多い気がします。 こういったものはあくまで数学や国語と同じ「知的好奇心」を 満たすもの、以上に捉えるのは大きな問題があると思います。 頭の中で宇宙や論理を弄繰り回し、或いは夢想しても、 現実の自分、というものは多くの場合極めて非力であり、 社会や宇宙、などという巨視的な世界観の中では無にも 等しい存在です。 個人の「生」は、無意味、と言っても過言ではない。 それはあくまで、僅か数十年の、歴史から見れば取るに足りぬ 束の間の短い人生を、僅かに関わった人々と、泣いたり 笑ったり、力を合わせたり喧嘩したり、そして、出会って 別れてという離合集散を繰り返した足跡を、世界の片隅に ひっかき傷の様に残して無に帰す。 身近な人の心に記憶として留められるだけ、それでいいし、 それ以上の何者でもないと思います。 自分に出来る事、出来ない事、するべきこと、すべきでないこと。 それでさえ、きちんと自分にルールを持てる人は数少ないのです。 哲学や思想というのは学問としては実に興味深いものですが、 それを現実に持ち込むのは、まだ自分というものを明確に 認識できていない段階の、妄想と不安を埋めようとするだけの カスミのようなものに過ぎません。 真実、という言葉も、徹底的に考えると実にご都合主義的で、 無責任な本質を含んでいます。 何故なら、真実やら究極やらという観念は、それ以上上は 無いのだから、それ以上考えても無駄だ、と他者に対して 思考停止を求める性質を持っているからです。 いずれも良く、現実逃避の空論に使われます。 「本当の●●を見せてやる!」というのは、歌舞伎の見得を切る ようなもので、それをストーリーのヤマとして演出的に使うなら 文化ですが、他人の意見を粉砕するために使おうとする人が 圧倒的に多いように感じます。 やや話がずれましたが、要は自分の人生は、自分に何が 出来るのか、何がしたいのか、何をするべきで何をすべきで ないのか。 他人と自分の関わり、社会の中での自分という無に等しい ちっぽけな存在、それをちゃんと理解し納得したうえで、 生きることに足掻くべきだと、私は思います。 一番重要なのは、知的好奇心を満たし続けるために、 哲学や思想について「言語」で考え、思考することと別に、 現実の自分の人生については「言語」で考えてはならない、 ということについてちゃんと理解することだと思います。 簡単なことです。 言葉で言ってしまえば 「案ずるより産むが易し。」 ということです。 あれこれ真実とは?などと答えのない考えを巡らせるのを 停めて、パッパバッパと行動を起こしていくこと。 それが習い性になる位でないと、哲学や思想は人間性を スポイルする物だ、と私は思います。 先の例であれば、パキスタンに出向いて行って何が出来る 訳もありません。 ならば、せめて募金をするなりイスラムに ついて学ぶなり、することを決めて実行する。 戒律とは、罪とは、などと考えるよりも、現実の問題に対して 何をするか、何もできないなら沈黙して忘れるしかない。 何故なら、人生短いからです。 結婚とは、男女のセックスとは、などといくら哲学的に思索しても モテない男の子が一生懸命着飾ったり、女の子にウケそうな 話題やジョークを学んだり、それでフラれて辛い想いをしても 何もせずにパソコンの前で考えるだけの男よりも遥かに 判りやすいし共感しやすい。 やがて彼も、山ほどの努力と我慢の果てに、当初の望みとは 幾分違っても、自分に身も心も委ねてくれる女性に巡り合える こともあるでしょう。 でも、テツガクばっかりに逃避した人々が、どれほど独りよがりに モテる奴は所詮顔が良いだけだとか、女なんて所詮顔しか 見てないだとかとグチグチグチグチとテツガクっぽい愚痴を こぼし続けているのも事実です。 哲学や思想を、逃げ道として使ってしまいがちな事を、決して 自分に嘘をついて誤魔化してはならない、と思います。 あくまで、現実の自分がいる世界とは別な時空で考える 楽しい勉強であるべきです。 世界を救う、とか社会に何か大きな思想的金字塔を打ち立てたい、 などの夢想をふり捨て、誰かの為に何かして、名も残さず 跡形も無く、自分は消えていく。 精一杯、やることをやろうと足掻いて足掻いて、事故で 死ぬか、病気で死ぬか、或いは運よく天寿を全うするか。 いずれにせよ、一人のちっぽけな人間として、 「一所懸命」 生きることを哲学と切り分けて考える。 そういう心構えが理想的なんだけどな、と思いつつ、 時折私は足掻きながら、普通のちっぽけな人として 生きています。 持続する行動は、持続する思考と両輪を成す。 どちらかだけでは片輪 (今や差別語ですが)です。 走れないから倒れてしまい、人生の一時、一つ所に 拘り続け身動き取れないまま、何の成長も無く老いて いく。 そういう人も沢山います。 行動も、言語のひとつです。思考の一つ、と言った方が 良いかしらん。 哲学がきれいごとなのではなくて、綺麗ごとを言う人だと 言われたくはない。 そう思って生きれば良いと思うんです。 ご参考までに。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >社会の中での自分という無に等しいちっぽけな存在、 だからこそ、社会という必要性があるのではないでしょうか。 一人一人は存在意義がある。一人一人の中に宇宙がある。一人一人は神である… よく言われる「きれいごと」(笑)ですが、人間嫌いの私でも、もしかしたらそうではないかと思うんです。 一人一人が無力なのは、神は一人いる必要がないからかもしれません。 私はあるボランティアをしていますが、個人の無力というのを痛感していますし、でもそれは同志と呼べる人たちも同じように感じていることですが、一人一人の地道な活動で、岩も動かすことができるということも分かっています。もちろん、問題は山積みですが。 慣習は変えることができます。思考もまた思い込みの慣習です。安易にひとつの思想にしがみつくのは、自分には思考する力も変える力がないと諦めた人間の証し。 一方でそれが思考の慣習でしたら、それを変えることもできる。でも難しい。個人の考えに何か劇的な心の動きがなくてはなりませんから。 むしろ外部の世界の秩序を変える方が簡単です。秩序を変えることは秩序に則ることですから。 哲学というものは、依存性の強い集団心理にとって、容易く使われる道具となりますから、薬にも毒にもなりますが、個人レベルにおいては、指針やなぐさめ、力になる。恐ろしいのは集団心理の方です。 実際、時代を動かし、変えてきた先人たちの原動力に哲学がありますが、哲学そのものには、罪はありません。つ理論性のエネルギー、絶対的な態度という哲学の特徴が、考えの浅い人間に利用されやすいというだけです。 > 個人の「生」は、無意味、と言っても過言ではない。 についてですが、無意味ではないと思います。 (精神世界でいえば、個人の思ったことはすべて宇宙に反映するといいますし。それがアカシックレコードというものでしょうか)。 しかし、不条理なことを考えると心底腹が立ち、悲しくなります。それこそは無意味でいいはずです。 現実は自分が引き寄せているのだとしたら、生きる意味がすべて不条理となるような人生を与えられているような人間にとっては、意味などない方が楽であるはず。 幸不幸は、自分の考え方次第だ。と言う人もいますが、本能を満たす最低限のことを与えられず、代わりに苦痛ばかり与えられる。そういう人間や動物がいるのも確かです。ですから、私にとっての「きれいごと」というのは、木を見て森を見ないようなこと。世界観が狭いことです。 たとえば引き寄せの法則は真実の法則でも、それを利用しないから世界はだめなんだというように結論付ける主体性のこと。 厭世主義も哲学のひとつですし、無力だといって、動かないのはペシミストにすぎません。 でも一方で、動ける人のために、動かずに、真摯に、静的に考える温かな人がいるのも確か。 逃避するばかりの人も、唯物論者、快楽主義者、無関心、傍観者よりはまだマシです。 >真実やら究極やらという観念は、それ以上上は 無いのだから、それ以上考えても無駄だ、と他者に対して思考停止を求める性質を 真実という概念は思考停止する性質…なんですか? でも真実は絶えず私たちにその意味を投げかけてきます。真に「逃げない人」は真実について考えるのではなく、逆に傷ついても、不利に立たされても、自分や世界の真実を追うのではないでしょうか。あと欺瞞人間ではない人。世界は欺瞞に満ち満ちていると思います。ほとんどがこういう人間で成り立っていると思いますよ! 人間はちっぽけでも、一人一人が変われば世界は確実に変わる。現象そのものが不条理なのと同じように、体制や組織もそうです。むしろ一人一人が弱いからこそ組織化する。でもそれがひとつの正しい絶対的な思想などとは認めたくない人間がいるということ自体が救い。 >誰かの為に何かして、名も残さず跡形も無く、自分は消えていく。 孤独でも自分の思想をもって、世界と戦うのが、本当の勇者だと思います。 本当のヒーローは無名の人の方が多い気もしますね。人間に名声やら権力やら、莫大な金なんかをもたせると、ろくな人間にならないと思います。それを世界に還元できる、名も心も透明な人になれる人が、本当の超人でしょう。でもそれはちっぽけな個人と扱われてしまう。不条理ですが。でもそう思ううちは、まだ透明人間になれてないのでしょうか。 ニヒリストとか、ペシミストは自己愛が強いのであって、彼がその思想にとどまっている限り自慰行為を繰り返しているにすぎません。ですから > 持続する行動は、持続する思考と両輪を成す。 にはまったく同感です。 >自分に身も心も委ねてくれる女性に巡り合えることもあるでしょう。 「案ずるより産むが易し」ですね。 よく考えるのを辞めたら答えが出た、現実が向こうからやってきたということもありますし(恋人が欲しくてたまらなくて、どうやったら出会えるかを考えるのを辞めたら、ある日突然であったというような)。 あ、あとブルース・リーの名言「考えるな、感じろ」とか。感じたことを実践すべしということでもあるのかな。 やはり、最初に行動ありきなのでしょうか。でも行動するにはあまりにも人それぞれの「哲学」が溢れてるから、取捨選択に困るのです。でもそれも行動が先なのでしょうね。すべてを実践するには人生は短すぎますが。 きれいごとを言ったその人も、最初は純粋に行動していたのでしょう。でも他の世界に目を向けず、自分の考えに固執し、修正しない限り、それは「きれいごと」と呼んでもよいかもしれませんね。
- ibld
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これは持論ですが、「きれいごと」とはそもそも、現実性を欠いている理想だから名言となるのだと思います。 既に実現可能な「きれいごと」は誰も言いません。そんな事言ったら「頭おかしいんじゃない?」と思われるだけです。 「アフリカ黒人を殺すのはやめるべき」と言うのは、かつてのヨーロッパでは「きれいごと」でした。 当時は、黒い容姿は邪悪な魂が収められているので、殺しても良いとまで言われていました。 しかし、近世になってから急速にそのような「きれいごと」が広まり、少なくとも、「黒人を殺すのは当たり前」の時代はなくなりました。 そんな今の時代に、「アフリカ黒人を殺すのはやめるべき」と言ったら「頭がおかしい人」と思われるでしょう。 「きれいごと」とはそういうものです。 >また実現のためには、 >どういう心構えが必要でしょう? 共感する人を増やす事。まずは、身近な人。家族や友達から。 共感は行動を変えるきっかけになり、多くの人が共感すれば、多くの人の行動が変わる事になります。 それが多数を占めれば、世の中が変わります。 と言うのは「きれいごと」でしょうかね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ご回答者様の現実性を欠くことがきれいごとという定義は、 『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないことを、きれいごとと言います。』 にあたります。 『だから、「きれいごとばかり言うな」という人に対しては、それがちゃんと実現可能なことを身をもって証明すればそれでOKです』 これは実現したのであれば、きれいごとといってもよい、ということになると思いますが、ご回答者様は、きれいごとが現実化された場合は、きれいごとと言うべきではない、とのことです。 いずれにしろ同じ事実には変わりありません。 実現性の低いものである場合をきれいごととするにしても実現した場合、考え(きれいごと)が現実に反映したにすぎない。だから、実現性をきれいごとの定義のための基準にはできないと考えました。 また、実際そこにある現象(事実)についてもきれいごとという人もいます。それはその人にとっては実現不可能(やる気がない)に思えることであり、他の人にとっては現実そのものでしょう。同じことについても、別の人はきれいごととは言わない(あたりまえのこと)かもしれません。 だからやはり、個人の恣意によるのではないかと考えます。
- kanto-i
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お礼、ありがとうございます。 >誰かの信条を自ら経験し、何度も繰り返して実践し、客観的事実にするために具体的に検証する。ということでしょうか。 それでもいいかと思います。 私の場合、「自分が体験したことが名言として簡潔に述べられている」 でしたので、時々目を通し自らを忘れないようにとしています。 >人は多かれ少なかれ、自分の考えが正しいという考えを証明してしまうことに対する抵抗をしてしまいます。(それは自己否定されるときの心の痛みですが) 確かにそうですよね。 それが実になるならいいのですが、自分が目指すものになるために 不要なものなら、自分の正しさを優先するか手に入れたいものを優先するかです。 日々、多くの選択で自分が選んだものが自分を形作って行きます。 実を取るか我を通すか。 それが人生において確実に現実化します。 人の話しは聴く・鵜呑みにしない・自身で精査する・自分で決める・認める・引き受ける 責任を理解する・自分と向き合う・逃げない(流さない) 良くも悪くも、常に自分自身と自分が選んだものを認めて 次に選ぶものに対峙できるかですよね。 選んだものが、必ず結果に反映して行きます。 良き人生を。
お礼
この回答で気づいたのですが >人は多かれ少なかれ、自分の考えが正しいという考えを証明してしまうことに対する抵抗をしてしまいます。 ついて以下のように訂正します。 「自分の考えが正しいという考えを証明してしまうことに対する抵抗をしてしまいます。」 とはいえ、間違いへのご回答は逆に、むしろ自信のない人は、自信があってもそれに対する抵抗をしてしまいがちの人もいる(私もそのうちのひとり)とも尚更思うのでした。 私の場合「他人の正しさを証明してしまうような、自分の考えの否定」なのですがね(笑) >日々、多くの選択で自分が選んだものが自分を形作って行きます。 よいことをおっしゃいます。 今日食べたものが明日の自分を作るように。 思考という花をたくさん咲かせ、おいしい実をつけられるように精進いたします。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
山は厳しいほど、登山の喜びは大きい。 「実現する」が、他人に依存したものではなく、 自己の可能性を尽くす事である場合、「山は厳しい ほど喜びは大」において、「実現の困難」は自己の 内にあり、理想は純粋であるほど一歩の喜びが大きい。 他人による成果や評価を基準にするのは、生きる目的を 物質的豊かさに置いた即物主義者の 考えだ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 まったく同感ですし、私もたぶんこの道を選んできたのでしょう。その選択肢しかもらえなかったということですが、その間違いに気づいたのです。自分発見のひとつということですが。 それが理想的な生き方であろうと、また即物主義者でも、人が己れの歩んできた道について考え直すこともあります。そこに >他人による成果や評価を基準 にしてもよいときがあるのではないでしょうか。 もちろん最後に決めるのは自分ですが…
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
正直、自分次第では? 善悪も良否も好悪も成否も、全て自分の行動が招いた事だと理解しなければ、話に成りません。 其処にたどり着いた貴方を祝福します。 指標の無い大海に、己を試してみて下さい。
補足
ご回答ありがとうございます。 >其処にたどり着いた ということについて、もう少し具体的にお聞かせください。 私は「全て自分の行動が招いた事だと理解」したのでしょうか?もしそうでしたら、そう思われた所以は? 結論的にいえば、 >自分次第 確かにそうなのです。 ですが 『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないこと』 についてもう少し具体的に知りたいというのが質問の主旨です。 言いかえれば、「キラキラワード」というのだそうです。これは次のビジネスサイトの、ある経営コンサルタントの造語です。http://urx.nu/9Otz 「キラキラワード」の代表例として、「無理しないほうがいい」「楽しいと思える仕事を見つけろ」「心の底からやりたいと思えることだけやればいい」などが挙げられています。 一見なるほど、と思いますが、これも啓発の一つなわけです。つまり啓発が啓発を否定しているということでは同じわけです。 でも、「キラキラワード」を否定する理由というのを読むと、完全な企業人間になれと言っているのと変わりなく、それこそ企業側からの「きれいごと」です。 では「きれいごと」とは一体何?と考えたわけです。 「現実にその通り行うことができないことを、きれいごと」というのでしたら、コンサルタントのいうことに従って企業人間になることもそう簡単には「できない」わけです(経営者側に雇われた者のいうことに抵抗がある労働者の方が多いでしょうし)。 裏返せば、世の中のいろいろな思想、方法、選択肢が多すぎて、皆、それぞれ持論について正しいと思っているようですし、私も本やサイトで勉強していますが、どれも実行できない様々な「きれいごと」であふれています。ならばすべて「きれいごと」とし、その中で、極力「きれいごと」とならず、極力実現可能なことを選択する指標を決めなければならないと思うのですが、それについて考えあぐねている次第です。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
それぞれのことに疑いを持ってやってみるのではなく 自身で確認して見極めると決めることですかね。 疑う人は、疑うというより頭から信じない人がかなりいます。 その場合、「間違ってる」を探そうとやっきになり 間違ってる理由を作り出してでも「ほらやっぱり」とします。 信じないと決めてる人に、何を言っても通用しませんし 正解だと思い込んでる人にも、別の話しをしても通じません。 周りに理解を求めるより、自身が思い込みを持たないように注意することが 一番大切ではないかと思います。 Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts. 自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。 アインシュタインの言葉ですが、他にもあなたがその時々で 使えるものがあるかもしれません。 http://iso-labo.com/labo/words_of_Einstein.html 自身で一つ一つ掴んでいくことが、人生では大切かと思います。 良き人生が紡がれるよう願っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「間違ってる」を探そうとやっきになり 人は多かれ少なかれ、自分の考えが正しいという考えを証明してしまうことに対する抵抗をしてしまいます。(それは自己否定されるときの心の痛みですが) ですから >自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。 と、アインシュタインは伝えたいのでしょう。 誰かの信条を自ら経験し、何度も繰り返して実践し、客観的事実にするために具体的に検証する。ということでしょうか。
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お礼
>理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。 私もそう思うのです。理論というのは、万人に共通する普遍的なものです。心の整理ができていないとき、問題にぶつかったときに救うのは「理論」です。 その理論こそが哲学だと思っていますから、「きれいごとというのは哲学なのか」というこの自問についてはイエスという答えになるかと思います。 ですから「きれいごと」というのは、その人の経験からくる答えを濾過した理論ですから、万人といえなくとも、誰か一人のためにはなると。たったひとつの真実を、不特定多数が適用するか、それともそのように、たった一人が適用するかは本人の意思によりますから。 >いい関係を構築し互いに手を結んでいれば もちろん同意します。一方でノーともいえます。 昔、死後の世界を「純粋に」知りたくて山から飛び降りた少年の話を知りました。 もちろん私は彼のことは知らないので、真意はわかりません。でもこのエピソードにはすごく衝撃を受けたのです。だから今でも鮮明に「記憶した」ということを覚えています。 彼は純粋に死にたかったのかもしれませんが、実は孤独に悩んでいたため、自殺の理由を彼にしか分からない事情のための口実にしたのかもしれない。それでもその口実が、いかにも厭世の美に包まれていて、彼の考え方は、私の中では自殺肯定の根拠となっています。 そうでなくとも、私は自殺について、本能的には当然誰も死を恐れているなど考えていません。むしろ「生」の方が「死」よりも険しい道です。それを否定するときに、自殺は罪だという(根拠のない)考え方がありますが、死を忌むべきもの、もっとも恐れるべきものだと考えている人たちが、自死者に自分の恐れを投影して「罪」だと考えていると思うのです。 いわゆる「死にたいは生きたい」ですね。 その切実な気持ちを誰からも顧みられず「死」を選ぶのでしたら、自死者を責めるのは死人に鞭をふるうようなものです。 ですから「自殺は罪」だという人間も、仮に「自分でそれを実行できないことがきれいごとの真実」だとしたら、それこそが「きれいごと」だと思うのです。 >自分を深く理解すること。 そうすれば労働環境もよくなる、というお考え、私もまったく同意します。 天職をまっとうしている人は、この世でもっとも幸福だと思います。生きるためにしなければならないのが仕事。でも「人はパンのみ生きるに非ず」と言われているように、目先のことだけでは心は満たされない。 どうせ、労働という険しい道を、自立する人間が誰もが歩まなければならないのなら、どうせなら、本当にやりたいことをやればよい。それが人生の幸福を満たす。自分がやりたいことをやれないストレスを他人で投影することはない。それには自分を知るべきだ、と思うのですが、学校教育では「我を知る」という教育がなぜなされないのかと思うのです。 偏差値や、社会の考える労働論、つまり質的なことを押しつけられ、質的なことを教え、考えさせる教育はまったくなされてない… 話がそれていきますが(笑)要は自分は自分で育てるということではないでしょうか。すれば >搾取する者は減って行きます。 と思うのです。資本家も民主主義も、自由が本質です。しかし一握りの自由人で、多くの人が奴隷化されている。皆同じように平等の国で生きているのに。 だからここは、状況にまどわされない確固たる自分を持つべきだと思うのです。特に日本人は長いものに巻かれたい人種。巻かれないと決意した人間は容易く搾取されることを自分に許さないと思うのですが。 >他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなもの それが世俗的な幸福ですね。お金、名誉、地位、権力…なぜあまりにもこうしたことが持ち上げられ、それが幸福の本質だという考え方がありふれているのでしょうか。不幸は複雑怪奇で、むしろその中に本当の幸福があるかもしれないのに… >自問自答 誰かの幸も不幸もここにかかっていると思いますよ!