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疑うことと信じること、未来を開くカギはどちらか?
- 疑うことと信じること、どちらが大事なのか。哲学や科学においては疑うことが真実に近づけるために重要であるとされています。しかし、現実を生きる上で人や運命、自分自身を疑ってばかりいては生きていけません。
- 荀子の性悪説や孟子の性善説なども疑うか信じるかの問いにつながります。大きな視点で考えると複雑になりますが、人間にとって疑うべきなのか信じるべきなのかは、未来を開くためのカギとなるでしょう。
- 疑いを抜いて真理に近づくべきか、信じて平和な未来を実現すべきか。どちらがより重要なのか、意見を聞かせてください。
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>未来を開く為には 疑いぬいて予想される未来に対して考えられる対策を施した上でその効果を信じること。
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- kurinal
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両方と思います。 しかし、「盲信」はペケ 「性悪」とか「性善」とかは、「合理的な思考(志向)」とは違うものと思います。
お礼
そうですよね 両方なんです。 ただ今の時代に欠けているのはどちらかと言う 未来を開く為にどちらが と言う問いなんです。しかし両方とも必要と言うのも確かな答えです どうもありがとうございます。
- sheep67
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こんばんは。 客観的に見れば、どちらも本質で 個人的に見れば、その人の性格によって選択されると思います。 信じることと疑うこととありのままに見ることの3つの方法があり、 3つは同じ結論に達する、3つは矛盾しないと思います。 3つが矛盾しないのは、それらがいずれも能力にすぎないからですが。 疑う自分と、信じる自分と、観察する自分は別人ですし。 あるいは脳の3つの能力です。 人間はだれでもこの3つを、やってみようと思えば誰でもやる能力はあります。 と言っても根深い個人的好みの壁があるので、能力があってもやることは難しいです。 この世では性善説と性悪説が両方共論理的には正しく両立してます。不可知論もですが。 それぞれの世界観を形成する前提である直感が違うだけですし。 あるいはこのレベルにおいて真理は一つだというのは根拠がありません。 信じることと疑うことの境目に浮かび上がる論理を超えたものは、現実とも矛盾しないようにみえます。 鍵というのなら、信じることも疑うことも、加えて現実観察もみんな鍵だと思います。 総花的かもしれないですが・・ でも脳が生み出したものなら、それらがいずれも特定の世界観を生み出す能力であるなら、 どれもこれも本当であり鍵になるのはある意味自然なことじゃないかと思います。 もしどれか一つを拒絶したら、単に現実逃避です。 後は、どれが性に合うか? ということでないかと思います。 僕も十分はわかってないので、今見える範囲での話ですが。
お礼
何か分かるようで今一歩のようですが いい線行ってるのかもしれませんね 3つは矛盾しないでしょうね 現実にやってる事ですからね 観察すると言う視点を教えて頂き どうもありがとうございます。
疑うことと、疑ってみることは違います。僕は確固たる信念を持ってぶれない人よりも、ある程度はぶれる余地を残している人の方が信用できます。自分が間違っているのではないかと自分を常に疑ってみている人の方を信用します。哲学でおもに疑う対象は自分の信念です。他人ではありません。積極的に自分が持っていそうな偏見・バイアスを見つけ出し、打ち消していく努力こそが、正しく考える方法です。 「行動はその背後にある動機を強化し、選択はその背後にある世界観を正当化する」ジョージ・ウェインバーグ。あなたが行動や選択をするたびに、動機となる感情や世界観の基になった考え方は強固なものになるのです。誰かを説得していると、説得者がその考え方に陶酔するのです。被説得者は白っーとしているのに。信念とはそういう当てにならないものです。確固たる信念ほど、このジョージ・ウェインバーグの法則に無意識に引っかかって形成されたものだからです。
お礼
そうですね 自分の信念を疑うのを忘れていました 人間と言うものは迂闊な者です。 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得たるなり。(蓮如) と言う言葉を思い出しました。 どうもありがとうございます。
一般的に言って 世界は分からないことだらけなので多くの先人やその業績を疑いまくり、勉強し、その結果真理を知ることになります。 貴方が信じなければならないものは自分自身とその未来、そして身近な愛するひとたち位のものではないでしょうか。 マスコミや日本政府を含めてその他は皆疑ってかかってちょうどいいとおもいます。こんないいかげんな回答も。
お礼
こんないいかげんな回答も 信じない方がいいと言う事でしょうか? しかしそうですね 信じられるものは少ないですよね 大切なものはごく僅か と言う句が浮かびます。 ミスチルの「フェイク」じゃないけど 世界中に嘘が張り巡らされてるのかもしれません 嘘を信じて馬鹿を見る事は多いですねえ どうもありがとうございます。
- suzumenokox
- ベストアンサー率15% (35/229)
真理に近づくとたぶん人間と物質の違いがわかります。そして歴史が‘困難に対する人間の善処と善意の前傾のバイアス‘による発展の可能性を証明してくれると思います。つまり信頼することによって前傾のバイアスをかけていくことが前進の原動力だということを。人対人で疑うことに固執するのは石橋をたたいてぶっ壊してしまうことにもつながりかねません。もちろん、用心も必要なのでプラス三割くらいの信頼ということを意識していけばいいのではないでしょうか。
お礼
人間と物質の違いは 物質はその質量ある物を指していますが 人間は物ではなく その精神を指して人間と言ってるのだと考えます プラス三割くらいの信頼ですか 経験からでた言葉のようですね。 参考になりました どうもありがとうございます。
学問の「疑う」とは、疑問に思うことです。現実世界での、あなたが言っている「疑う」とは信用できないという意味です。宗教と哲学とは同じ土俵で語ることは難しいでしょう。哲学なら、認識論を学んだらよいかもしれません。宗教なら仏教やキリスト教やイスラム教の教典を読み込んだらどうでしょうか。
お礼
疑問に思うことと 信用出来ない事はそれほど違いますかね? 色々読んでみればヒントが得られると言う事ですね どうも大変ありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
言葉は存在ではない。 存在の集合の上に、その類似性を以って付された記号である。 どこまで精密化しても、存在そのものではない。 人の言う事は、信じてはならない。 信じるべきは、人の存在である。 言葉の表現する内容自体ではなく、 その言葉を発せせしめた、相手の心情、 その環境を思いやる事が、 「人の存在を信じる」事である。
お礼
つまり言葉や概念は存在しない と言う訳でしょうか? 私は言葉も性質として存在していると思っています。 人の存在を信じる事 それを思いやる事ですいね どうもありがとうございます。
- airi_kashii
- ベストアンサー率10% (8/76)
信じる信じないと、性善/性悪説は関係ない。この観点だけだと、対象物の是非は どうでもいい感じですね。それが盲目的だと言われる部類になります。 まずは認識する事からですが、どちらかと言うと、認識と評価の違いじゃないだろうか。 あと、無意味な改行はスペースの無駄です。 コミュ障なのか厨二病なのかって感じですね。人生経験が足りないからそうなる。 まずは、まともに生きていけばいい。そうすれば、この程度の結論は誰にでも得られる。
お礼
そうですか その誰にでも得られる結論をお聞きしたかったのですが・・・ 中学校二年の時に あなたが抱いた疑問は解けましたか? 私は納得しました 一応は それでも生まれ出悩みがあるので こうして質問しているのです どうもありがとうです。
- kanto-i
- ベストアンサー率30% (180/596)
どちらも必要だと思います。 必要に応じて、必要なものを使う。 その為には、自身で確かめること。 信じるも疑うも根拠がないものは、すべて危うい。 自身で確かめて、必要なものを使う。 背理法だけで生きてはいけないし、帰納法だけでも生きていけません。 それ以外でも、どの方法でも一つだけ選ぶのは危険ですよね。 確かめて、自分の中で証明がなされたものを選ぶ。 間違ったと思ったら、選びなおせば良いだけ。 単純な選び方を選択すると、必ずどこかで失敗します。 だから人は学ぶのではないでしょうか。 確かめられる人になることが大事でしょう。
お礼
私はこないだの土曜に自転車を買ったのですが、値段と性能 色やデザイン タイヤの厚み 段変則の数 等など 疑問を投げかけてみたのですが 店員さんは不利な事は言わなくて 結局色が特に気に入って 他も良いと思ったので買いました が 後から幾つか不満が・・・単純な選び方だったんですねえ。 確かめられる人になりたいものです。 どうもまことにありがとうございます。
- daidou
- ベストアンサー率29% (491/1687)
こんばんは 前提が抜けてる気がしますよ。 まずは「あり方」を良く見ること。 それが大前提です。 哲学者にせよ宗教家にせよ、人のあり方、世の中のあり方、それをよく観察していますよね。 それから「なぜ、そのようにあるのか?」を考える・・・ 性善説や性悪説も然りです。 人間や世の中をよく観察した上で、 世の中は何故このような状況なのか? 人はなぜそのような行動をとるのか? そう考える。 しっかりとした観察を積み重ねた上で、 「なぜ?」という考察をさらに重ねる。 それが肝要です。 人々は悲惨な状況でも支えあって生きている。 なぜだろう? それは、慈しむ心、信じ合える誠実さがあるからだ。 ならば私も信じよう。 人々の善意をかすめ取る連中がいる。 なぜだろう? 時に金欲は人の善意を上回る事があるからだ。 ならば、金が絡む時には疑ってかかるべきだろう。 ちょっと生々しかったかもしれませんね。 ですが、ただ無条件に「信じるか」「疑うか」ということではないのだと考えています。
お礼
お互いに支え合い、慈しみ合い 信じ合いたいものです。 しかし確かに人間は 事、金の事になると目の色が変わります お金が無ければうまく行くと言う人もいます M氏です しかし実際首まで資本主義にどっぷりつかって お金を手放す事ができるか お金なしで人はどれ程働くか? しかしいい回答をどうもありがとうございます。確かに。
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お礼
その通りですねえ 文は短いですが 当は得ています。 未来を開く為にはその様に疑い その様に信じるべきかと思います どうも大変ありがとうございます。