• 締切済み

自分の世界観をより実り多く豊かにしたいのですが

 最近自分の世界観を広げたくて、哲学に関心を持ったのですが、 ただ何もせず日々思ったことや考えたことを書き連ねるだけでは、あまり世界観が深くなるとは思えない。 全くならないことはないと思うけど、歩みが非常に遅い。 さらに一人で考えてばかりだと煮詰まって妄想同然のような考えになりかねない。  そういう時のために人間読書をしたり他人と意思疎通したりして外部から情報を入手して哲学をより広く深く普遍的にしていく、 と個人的には思うのですが、 ひょっとしたら哲学書だけ読むのではなく、哲学書以外のものを読んだり体験したり したほうが四六時中哲学書に向かい合っているより、より豊かな世界観になるかもしれない、とも思うのです。  実際、思想の科学研究会さんの出版している「哲学・論理用語辞典」の哲学への手びきの項の紹介で文学や科学者の書いた随筆文 や講談社さんの「哲学の木」の序文での紹介で中世神学の神の存在証明などを説いた本を読んだときのほうが、 まだ最近哲学書を読み始めたばかりなので哲学の奥深さを理解していないせいもあるかと思いますが、 哲学書だけを読んでいる時よりも実り多かった気がします。  哲学をやると言っても、人それぞれ好みがあって進む方向が違ってくるのが当然だからどの方向が実り多いものになるかは わかる訳がないし自覚していないので (漠然と難しい数式や化学式よりは文で知ったほうが楽しいと思えるので 大まかには文系嗜好だとは思いますが)どうしたらより実り多く豊かな哲学が育まれるのかわかりません。 そこでご覧の皆さまにお伺いしたいのですが、どうしたら豊かな哲学が作れるでしょうか? 右も左もわからない自分にこんなことを紹介している本があるよ、こんな風に考えて物事に取り組めば良いよ、こんな世界があるよ というようなアドバイスがあったら教えて下さい。一人で興味があることだけを追っていっても それだけでは学習と興味の範囲に限界があると思ったからです。個人的に実り多かった本or体験だったと思うことでも構いません。 教えて下さい。宜しくお願いしますm(__)m

みんなの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.15

テーラワーダ仏教をオススメします。 論理的・理性的・道徳的が売りです。 学べば他に手を伸ばす必要がなくなると僕は感じています。 好みではなくただ事実を確認することを重んじますから。 「テーラワーダ仏教の実践」やスマナサーラ長老の書籍などかなり興味深いと思いますよ。

参考URL:
http://www.j-theravada.net/
cleanair4
質問者

お礼

テーラワーダ仏教、お恥ずかしながら紹介されて初めて存在を知りました。 仏教の心がけ(厳密には普通の人が想像している仏教とは多少異なるみたいですが)を持ちつつも哲学のジャンルのアドバイスをしている回答者様の知的スケールの大きさに脱帽しました。 今の自分には宗教的センス(視野&信仰心)が殆どないので仏教にも足を踏み込んでいる回答者様が羨ましい限りです。 ただ、全く仏教に関心がないわけではないのですが自分はまだ自分の心の中に潜んでいる哲学的な向学心と言いますか、今は哲学の駆け出しの時期だと思っているので、 まだ哲学をもう少し自分の納得のいく哲学を創造できたと思えるくらいになって人間的にも成長しアクが抜けてから、宗教の世界に足を踏みいれていきたいと思っています。 テーラワーダ仏教の全体像がいまいち理解できなかったので、テーラワーダ仏教の、というより今の自分の宗教の信仰心全般への考え方について話してしまいましたが、 スマナサーラ様の法話は宗教のカテゴリでは収まりきれないほど豊かな世界観をお持ちだと自分は判断したので、スマナサーラ様の書籍をいくつか読んで自分の中の信仰心をゆっくり養成し、より深い哲学をもてるようにするためのきっかけづくりに活用させて頂こうという気持ちにさせてくれました。 その宗教への視野を向けるきっかけをつくるアドバイスを頂けたことに感謝します。 返答、ありがとうございました。

回答No.14

ANo.13です。 下記についてはそうではないと呼べるでしょう。 可能性とは普通一般に使われる意味での「可能性」です。 もう少し厳密にいえば「人の可能性」ということです。 譬えどのような「真理」を見つけても、「絶対」なものはなく、 それに捉われるように眼を細めていては、本当の大枠は見えてこない。 また大枠だけ見ていても同じく中身を知ることはできない。 当たり前のことを追求しつつも、それでいて見つけた答えに慢心しない。 そして我々が「人間であること」を知り、言葉さえも人が作り出した「観念」にしか過ぎず、 そこに捉われることを絶対だと納得することは即ち思考の死を意味する。 科学や議論で当り前のことが真実に近いようでも、実は「もしかしたら」という「可能性」を残しておく。それが人たるものの相分。 よく科学で正しいとされていたことが間違いだったという例はあります。 これは詩などではなく、日々移り変わる現実を哲学で生き抜く為の術です。 人は考える生き物である以上、死ぬまで哲学をするものです。 ちなみに私の哲学は仏教哲学と京都学派に関するものに造詣が深いです。

cleanair4
質問者

お礼

注釈ありがとうございます。 自分の解釈と回答者様の回答の主旨が大きくズレていたことがよくわかった上、かなり参考になりました。 回答者様の哲学はアカデミックで自分はなんと言いますか、大きく哲学に対する世界観が広がった気がします。こんな哲学もあるのか、と。 つまり今の科学も、ガリレイやニュートンのような先駆者達が新しい概念を提唱して過去真理だと思われていた考えを刷新したように、 今真実と思われている事実がまた新たな解釈で真実と呼ばれる日が来る「可能性」があることを認め、自分の定義した真理を日々塗りかえていくことが考える。哲学する。生きていく。ということですか。 回答者様の回答を頭の中で整理していたら積読していたアインシュタインの「物理学はいかに創られたか」を読んでみる気になりました。 また機会がありましたら勉強して新しく拵えた哲学に喝を入れて下さい。ありがとうございました。

回答No.13

可能性を認め前に推し進めてみることだと思います。 私にとって哲学は死ぬまで人生そのものです。

cleanair4
質問者

お礼

短い文だとわかりやすくなる分、意訳するときに多義的になるという面があるので、返答して頂いた回答を自分なりに意訳してみたいと思います。 アリストテレス哲学でいうところのデュナミスをエネルゲイアする過程を定めて、質料を形相にしていくということでしょうか。 自分の思ったことを多義的になることなく簡潔に説明するのが苦手なので自分の中にある数少ない哲学用語から引用して解釈しました。 それと、回答者様は詩に携わっていらっしゃる方でしょうか? アリストテレス「詩学」の内容 [詩人は「起こる可能性のあること」を語る] の一節をアドバイス頂いて思い出しました。 簡潔なアドバイスありがとうございました。 ※自分の質問に回答して下さる方々へ 自分は、回答してくださった方へお礼や補足の返答はしますが、良回答や準良回答などの評価はくだしません。 それは頂いた回答、及び自分の返答を全てまたいつか反芻する時に残しておくためです。 (良回答などを定めてしまうと良回答に選ばれなかった回答はある程度時間が経つとログが消滅してしまうため)

noname#52347
noname#52347
回答No.12

>この湧き出る疑問や導き出す答えをある程度コントロールできないかと悩んでいるのですが…それはなかなか難しいですよね? この教えてgoo!に定期的にご自分の考えたことを掲載し、質問形式にしてご自分の考えていることに意見を求め、思索を他人にも通じる形に鍛え上げていけばいいと思いますよ=☆

cleanair4
質問者

お礼

自分の導き出した哲学が自分や他者にとって有意義な哲学になれば問題はないのですが、未だ未熟な自分にとってはなかなか上手く思索もいかないのです… バランス感覚があまりない自分には時々自分の出した意見について批判してもらったほうが良いかもしれませんね。参考になりました。 回答者さま達がアドバイスしてくれた意見を参考にしたり、自分が選んだ本や他者から薦められた本を読んだり、これから社会に出て色々な体験をした中から導き出したりして得た知識を交えながら時間をかけて思索していこうと思います。 自分の中で確かに確立された哲学を見出し、一本立ちしたと思える日がくるまで、お世話になりますm(__)m

noname#177238
noname#177238
回答No.11

質問者様にとって哲学の定義は何ですか?

cleanair4
質問者

補足

「より普遍的で真理な世界観、価値観を確立するための知的活動の根幹をなすもの」 が多少通俗的ですが、今の自分が言葉で定義した場合の「哲学」という言葉の持つ概念の定義です。この定義だと宗教に置きかえることもできそうですね。 ただ、言葉にもできないくらい自分の中で抽象的な部分ではあまり自覚はしていませんが、もう少し生きるということに深く根付いたものな感じはします。漠然とそう感じているだけですが。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

追伸まで [一切の先入観を持たずに色々な種類の本を読む。これは実はかなり大変な努力を要することですよね?」 「本を読む」という意味はいろいろあるのです。一番簡単な読み方は「前書き」と「後書き」と題目だけを読んで本を読んだとする場合、その上、題目のうちから何章かを読む場合、すべてを斜め読みする場合、熟読する場合、など、これら全部ひっくるめて本を読むなんですね。本を読むとは「何が書いてあるのか」「何か主張があるのか」「自分にとって知りたいことがあるのか」に対して行うものですね。特に哲学書は「なにが言いたいのか」がはっきりしてますからそれが何かわかればいいだけですね。哲学者の常でわからないことをわかってるように隠蔽して書くくせがあります。こんなところも読解力だけで見分けられるようになりますね。つまりどのような読み方をしてもあなたが「自分の世界観をより実り多く豊かにしたい」いという思いを持ち続けられるならその網に本物は引っかかってくるということなんですね。釣りと同じですね。飽きずにやらないと魚はつれないということですね。 本の読み方について、参考に

cleanair4
質問者

お礼

本の読み方について教えてくださってありがとうございました。 こうやって色々な方からアドバイスを頂いた言葉があるとき自分に大きな影響を与えたり、ある大きな自分の生き方の転換期になるような 体験をしたりして、自分の予測していた生き方とは180度転換して全く自分の予想外の生き方を歩むことになることもこの先あるかもしれません。 自分はまだあまり長く生きていないので大局的に物事をとらえることができないため、急いで結論を求めがちなところもあるので、 あまりいちどきに過度に熱をあげないでゆっくり感受性を育てたほうがよいかとも思いました。 ただどんな生き方をしても生涯「知りたい」と思う気持ちだけは忘れないようにして生きていきたいと思っています。 わざわざ追伸までしてくださってありがとうございました。本を効率よく読むことについて、色々ともう少し工夫してみます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

[どうしたら豊かな哲学が作れるでしょうか?] 1グラムの金を取り出すには1トンの鉱石を掘り出す必要があるんですね。「1グラムの金」を「豊かな哲学」と置き換えればおのずと答えはでますね。1トンぐらいいろいろな書を読む必要があるということですね。古本屋に行けば哲学書でも宗教でも倫理でも科学でも数十円から書が手に入ります。まずは読むことですね。何か命題をたてて読んでもいいですがまずは一切の先入観を持たずにあらゆるジャンルの本を読むことですね。哲学も宗教も俳句も絵画も音楽も網の目のようになっていることが見えてきますから(ヒントです)。時間はかかりますが生涯学習のつもりで気長にやることですね。その中で良き師に出会えばまた一段と「1グラムの金」に近づくでしょう。いや「1グラムの金」といわず背中いっぱいに金銀財宝を背負うことができるかもしれませんね。すべての答えは本屋にあります。まずは読みつくしましょう。 参考までに

cleanair4
質問者

お礼

一切の先入観を持たずに色々な種類の本を読む。これは実はかなり大変な努力を要することですよね? 読書自体はわりとよくするのですが、やはり自分の興味を持った本しか読んでいてもすなおに頭に入っていかないのです。少なくとも自分は。 そして自分は一度何かに夢中になると周りが見えなくなるという致命的に幼稚なところがあります。 だから周りから冷静に客観的に自分の立ち位置を指摘してもらわないととんでもない方向に考えが及んでしまうことが昔からしばしばありました。 ゴーゴリ「死せる魂」のキーファ・モキエーイチのように もし象が鳥のように卵から生れるとしたら、象の卵の殻の厚さはどれくらいでなければならないか と似たようなことを本気で考えてしまうのです。 きっとかたっぱしから本を読むために選んでいくと、本にもその傾向がでてしまいます。自分の感性ばかりはそう簡単に変わるものではないので、 今の自分が急に変わるわけではないけれど、気づかぬうちにじっくり変わっていくかもしれません。 結局、何をやっても変える(変わる)のは自分自身なんですよね。 人とのであいであれ、読書であれ、何であれ アドバイス、ありがとうございました。

noname#52347
noname#52347
回答No.8

中島義道という哲学者をご存知でしょうか? 勝手に生まれさせれ、もうじき死んでいくことの理不尽をごまかすことなく見つめつづけ、思考しつづけるほか、あなたがあなたらしく生きる方法はない。あなたは「どうせ死んでしまう」。自殺してはいけない理由 生きなくてはならない理由はあっけないほどに「ない」。 著作はたくさんあるのですが 上記のような徹底的に虚無的な視点からあますことなく死について、哲学について氏は論じてゆきます。 彼の本を手に取ったのは、多分高校生のころです。 なんか、世界に一つだけ自分の学校がみつかったような気がしたなぁ。 誰にでも、自分の出自からくる苦しみってあると思うんですよ。苦しみじゃなくて欲望でもいいんだけど、なんで自分はこんな「とんでもない」欲望や悩みを抱えてるんだろう。恐ろしい自分を発見しちゃう時ってありますよね。世界の誰にも問えない問い。そういう時に始まるのが哲学なんじゃないかなぁ。 ところで、中島氏が過去に主宰していた無用塾という哲学塾があるんです。彼の著作の中にその無用塾に通う魅力的な人達が描かれています。 生きることの意味を問い、なぜ死んではいけないのかと中島氏に詰め寄るはかなげな青年、一人の女性に奴隷のようにつかえ人生を遂げることを人生の目標と定めた青年、定年を迎え哲学を始める老人等等。。。 残念ながら無用塾はもう閉鎖されてしまったのですが、私は密かに無用塾に通いたいって思っていました。「人を殺したい」なんていう問いでも、大真面目に話し合うんだそうです。 でも哲学的な体になるってとても大変なことだと思うんですむしろ苦しい。だから私はあんまし哲学的じゃないです。 長くなってしまいましたが、自分自身の出自や心からでてくるものを探ってみると、色々手がつけやすいんじゃないかと思いました。 あっ、そうだ!!世界に踏み出す貴方にこんな一冊を。。 ↓ 「地の糧」アンドレ・ジッド  中島義道氏の本も気が向いたら読んでみて下さい。ただしポイズンに身構えるべし!!

cleanair4
質問者

お礼

中島義道、知っています。 今の日本を代表する哲学者の一人ですね。 氏の書いた本も一冊持っています。自分も高校生の頃「哲学の教科書」が出版されたのでタイトルに惹かれて購入しました。 (哲学することに教科書を求めたあたり自分も単純な高校生だったなぁと思います。今でもそんなに変った気はしませんが) やや、独特に話が展開されていくので、なかなか鵜呑みにし辛いところがあり、アクの強い哲学者だったなぁという読後感でした。 こんな感想しか持てなかったあたり、哲学をしっかり理解していない証拠かもしれまんせんね。 ただ、氏の論はある面ではしっかり筋道がたっているし、別の本でカント哲学の用語の解説もしたりしているので、しっかりと論理的思考もできる一面もあるんだなぁと感心した記憶があります。 初めにできたイメージで人をとらえてしまわないように気付かせてくれた哲学者でした。 紹介していただいた「地の糧」書を捨てよ、町へ出ようの書物ですよね。読んだことがないのでその文しか知らないのに、また何となく その一文で内容をイメージしてしまっていますが、一生のうちに読んでおきたい本の一つです。

cleanair4
質問者

補足

そうそう、自分の中から湧き出た疑問や導き出した答えが一番心の中に残るとは思うのですが、 この湧き出る疑問や導き出す答えをある程度コントロールできないかと悩んでいるのですが…それはなかなか難しいですよね? 回答、ありがとうございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

私には二人の師が居りました。若い頃に遭遇した師匠の言うには「人生どんな分野でも、高みに登るには自分の足で下から登って行っては駄目だ、ヘリコプターを使っていきなり頂上に登らなくてはならない。さもないと自分に与えられた天与に辿り着く前に疲れてしまう」と言うことでした。 その師匠の言葉にしたがって、私が初めの師匠から独立した時に、いきなり世界的に優れた方にぶち当たったら、無名の私をあっさり受け入れてくれました。この方が、私の二人目の師匠でした。その師匠の言うには「人生で一番大切なのは遭遇である。私は何人かと遭遇できて自分の人生が満たされるものになった」そうです。 考えてみたら、私も初めの師匠に遭遇して人生が変わり、二人目の師匠に遭遇して人生がより深いものになりました。 貴方も遭遇の機会を作り出すことによって、より実り多い世界観を手に入れることが出来ると思います。遭遇は「偶然」に支配されており自分ではコントロール出来ませんが、その偶然を逃すまいと意識することによって、可能性を高くすることは出来るはずです。

cleanair4
質問者

お礼

自分もまだそれほど長くは生きていませんが、とても良い友を持った体験があります。 世知辛い面もある人でしたが、友を持つことの重要さを気付かせてくれた良き友達でした。今は連絡をとりあってはいませんが、この友と築いた友情は一生涯の宝物です。 まだ今まで生きてきて人生の師匠と言えるような人とは巡り合ったことはありませんが、まずは出会う相手にみあうだけの自分を磨いていくつもりです。 ブーバーの格言を思い出しました。 「すべての真の生とはであいである」 返答、ありがとうございました。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.6

>ただ何もせず日々思ったことや考えたことを書き連ねるだけでは、あまり世界観が深くなるとは思えない。 >一人で考えてばかりだと煮詰まって妄想同然のような考えになりかねない。 >哲学書だけ読むのではなく、哲学書以外のものを読んだり体験したり したほうが四六時中哲学書に向かい合っているより、より豊かな世界観になるかもしれない 仰るとおりだと思います。 どんな書物でも、読む、ということは人の話を聞くことと同様で、それは、どこまでいっても「人の話」です。そして、取り込んだ「人の話」を、どう消化できるかは結局、その時点で自分のなかに蓄積されているものが左右します。結局は自分自身なのです。 私は若い頃、どんなにいろいろ本を読んでも、涙を流すほど感動したとしても、それでもなお、それは「人の話」なのであって、どこかしら風が吹き過ぎて行ってしまうような、或るむなしさがつきまといました。もちろん理屈抜きで、読むこと自体が楽しいという面も確かにありましたけれど、このむなしさ、たよりのなさってなんなのだろうと、ずっと思いながら読み続けていました。 或る時期からは、興味を持った一人の著作者については、その著作の書かれた或いは出版された年代順に読み込んでいくというやりかたをするようになりました。非常に時間がかかります。それをさせてもらえることの幸せ! そして年齢を重ね、振り返ってみると、どういうわけなのか世間一般の人生レベルからは大きくはずれた、そうとう特異な側面がちりばめられた人生を自分が送ってきたことに気づきました。 やっとそれからです、若い頃には読んでも、私のなかを風が、ただ、すーと吹き抜けて行く感覚しか感じなかったものが、ある重みをもって私に迫ってくるようになったことに気づきました。 また近ごろは、つくづく思います。 本を読んだだけで出来上がっているようではダメなんだな、と。 さんざん難しい書物を読んで読んで読みまくって、それでいて自分自身のすぐ足元のことすらサッパリ分からない、そんな人が呆れるほど多いと感じます。読めば読むほど単純なことから遠ざかっていく。。。 なぜだろうか。そして目の前の現実の問題には手も足も出ない。 本を読むこと、人の話を聞くこと、これらは自分の乏しい実体験、経験を補うためのものです。しかもそれでいて結局は自分の実体験、経験を超えるものではありません。 質問者様は、まだ若い学生さんでいらっしゃいますよね?いまはとにかく、いろいろな経験、実体験をなさってください。親や誰かの庇護の元にあるうちは自分から飛び込んでいくくらいでなければならないでしょう。私のように生まれながらに特異な経験、実体験のほうからワンサカ押し掛けてくるなら別ですが。 本を読む、哲学書を読むというのは、そのなかのごく一部分です。 しかも本を読む、人の話を聞く、それらから、どれほどのことを汲み取れるか、それは他のあらゆる経験、実体験についても言えることです。 「けだし、驚異することによって人間は哲学をはじめた」 (アリストテレス『形而上学』) 「驚くというその感情は特に愛知者(哲学者)のものだ。 そうじゃないか、それより他に愛知=哲学のはじめはないんだ」 (プラトン『テアイテトス』)とプラトンはソクラテスに言わしめたそうです。 「驚異が哲学のはじめをなす。不思議のないところに学問の発展は期待できません」 (田中美知太郎著『古代哲学史』筑摩叢書) 「驚異」というものには自分自身の人生への疑問も含まれてよいでしょう。ですから、そこから哲学の世界に入るきっかけになることが多いのでしょう。 書物というものは、それが優れた内容のものであるほど、読者を試します。 「おまえは、どこにいる?」と。 >できるだけ色々な世界観を自分の中に持って、多角的に物事をとらえる。 そのとおり、とても大事なことです。 そして年を重ねるごとに、経験を実体験を噛み締めるごとに、優れた書物の優れたるゆえんが分かるようになります。そしてそのとき書物は再び訊ねてきます。 「おまえは、どこから来た?何をその背に、その手に携えてきたか?」 御参考に 『本当に哲学することとは、哲学さえなかったはずの場所へ身をおき、その誕生に立ち会うことである、とオルテガは言う。彼はまた弁証法とは考え続ける義務である、とも言う。純粋理性ならぬわれわれ歴史的理性は常に目の前の具体的現実を、一様相を認識するほかにない。われわれが手にする真理が常に部分的な真理であるならば、われわれは考えることをやめることはできない。であればオルテガは「哲学とは存在への問いかけである」という手垢にまみれたフレーズに安寧しない。それではまるで「存在」なるものがわれわれの眼前にあるかのごとくではないか、と彼は言う。むしろ彼はその存在なるものが要請される場へと向かうのである。』ホセ・オルテガ・イ・ガセット 『哲学の起源』

cleanair4
質問者

お礼

自分は、人より並はずれた感受性があるわけでもなく、普通の人では経験しないような体験を積んできたわけでもありません。 やはり大抵の人と同じように普遍的な知識の理解の仕方も個人的な体験の中で得た知識の中からでしか理解できません。 ましてや、観念論を創造、発展させていった思想家達のように抽象的な思考から新たな抽象的な概念を発展、創造できるような 豊かなイマジネーションなども持ち合わせていません。 お察しの通り、自分はまだ若輩者の学生です。「哲学的驚異」は知識だけでまだ経験したことはありませんが、これから先色々学んだり経験したりするなかで体験することができるかもしれません。 人生の先輩からこうしてアドバイスを頂く中でも目には見えませんが得るものがあるはずです。 そしてきっとこれから先、それなりに色々人生経験を重ねて保障はありませんが少しは世界観や想像力も豊かになっているかもしれません。 そしてその中で養われた自分の哲学もきっと既に他の哲学者に よってとおの昔に本に書かれていると思います。 それでも、自分なりに教わったり感じたりしながら養っていった哲学を大事にしていこうと思います。 この世に二つとない「自己」をしっかり生きるために。 アドバイス、参考になりました。ありがとうございました。