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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:本を読んでも"自分"を保てますか?)

本を読んでも"自分"を保てますか?

このQ&Aのポイント
  • 哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。
  • しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、思考や思想が変わってしまったり、自分らしさが失われるのではないでしょうか?
  • 本を読んで影響されることは避けられないかもしれませんが、自分が最も共感できるものを択一すればオリジナリティを保ちつつ、よりよく生きることができるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • cyototu
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回答No.3

>哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 この文章を読んだだけて、貴方は勉強はして来たが学問をしたことがない方だとすぐに判ります。学問と言うのは、自分への問い掛けであり、また、インスタントに解るようなハウツー物ではないのですよ。過去の人の考えて来たことは単なる参考になるだけで、どのような学問でも最終的には自分自身で一から世界を築き上げ直さなくてはならないのです。 世界を観察し、人々を観察し、過去の人達がそれをどう見て来たかを観察し、自分の中で価値観や世界観を作り上げて来る、これが生きると言うことであり、また大きな意味での学問をすると言うことです。その時に決定的に重要なのが「共鳴」と言うことです。直接自分でする経験や、他の人達から聞いた経験や、あるいは書物の中に提示された他の人達の経験や思索を辿って行くうちに、貴方の中に何が一義的で何は二義的で、、、と世界の見方が胚芽のように出来てきます。胚芽ですからまだ形が曖昧で、その存在すら貴方には気付かないかもしれません。しかし、その胚芽が貴方の心の中に既に出来ているならば、何かの切っ掛けでその胚芽が突然形を成すことがある。それを、「目から鱗が落ちる」と言うのです。この目から鱗が落ちる経験は、前もって自分の心の中に胚芽を作り上げて来なかった人には、起こり得ない現象なのです。私は、そんな経験を、貴方の心と外界の情報との間の共鳴と呼んでいます。貴方の心の中に前もってそれに共鳴できる琴線がなかったら、どんなに決定的な経験をしても、また、どんなに優れた思索をした人の書物を読んでも、貴方は何も感じることが出来ず、貴方には役に立たないのです。 だから、自分自身の経験のみならず、書物からも、もし貴方が目から鱗の落ちるような感覚を手に入れることが出来たら、それは決してその書物を書いた人から何かをコピーしたわけではありません。貴方が自分で既に作り上げて来たものを形にするために、その書物がほんのちょっと手助けをしてくれただけなのです。もし貴方が共鳴できたなら、たとえそのことが先人達の書物の中にそっくりそのまま書いてあったとしても、それはコピーでも何でもなく、貴方自身が作り上げたオリジナルな考え方なのです。 多分貴方は、ソクラテスの産婆説と言うのをご存知だと思います。ソクラテスが言うように、貴方の中に前もって既にその胚芽が存在していない物を、ソクラテスは貴方に教えることは出来ないのです。 だから自分を築き上げて行くためには、自分で直接経験し、自分で直接思索した物事ばかりに限ってしまうのは、余りにも効率が悪いです。その他に、他人の経験や、国や民族の経験、即ち歴史や、書物に書いてある他人の思索の経験など、あらゆることに接して、共鳴の起こる機会を最大限に広げて、自分で独自に作り上げて来た世界観や価値観の胚芽を芽吹かせるような状況を作り上げることが、遥かに得策だと思います。さもないと、折角の胚芽が結局一生形にならないで、あたかも女性の胎内に持っていた卵子が一度も受精しないで、死に絶えてしまうようなことになるかもしれませんから。 因に、書物になった物を読んでそれに共鳴しつつ自分の既に作り上げて来た琴線を啓発して行けば、どこまでも高みに登れる、という立場の学派のことを、「顕教」と言います。一方、書物を通してだけでは啓発し切れない何かがあり、直接、自分の師と仰ぐ方の唾にまみれ、オーラを感じ取らなくては、その人の成長には限界あるという立場の学派のことを、「密教」と言います。密教は、顕密両方を通すことが、自分の作り上げて来た琴線を啓発するのに一番効率が良いとう立場です。 私は、学問の世界で生きて来ましたが、自分の経験から、顕密両方を重要視する密教的立場が、より深みに到達できる方法であると確信するようになりました。だから、自分自身の思索と書物だけを頼りにする顕教的な方法では駄目です。人と人との遭遇を通した密教的な経験も同時することが、貴方独自の世界観や価値観を築きあげる上で決定的です。

その他の回答 (13)

回答No.14

哲学とはその人の考えていることですよね。 人の意見や考えを聞くのは当たり前のことだと思いますけど? 自分が保て無くなるからと他人の考えに耳を貸さない人が、どういう人間か想像できると思います。 あまりいいイメージではないですよね。哲学者というより間違っていても認めない頑固者なだけです。 いくら独自の哲学を見つけても、誰かと共感したり反論することで自分の姿が形成されるんじゃないですか? 現にあなたもここに書き込むことによって自分の考えを聴いてもらって、意見を聞いて誰かに反論してもらって初めて自分は人とは違うと認識できる。 白は誰が見てもシロですが、他者、光がなくては本当にシロか確認出来ません。 オリジナリティが哲学と考えるのは大間違いですよ。 哲学は概念を覆すのではなく真理。物理のように答えを導くものです。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

一行目から"?" >オリジナリティが哲学と考えるのは大間違いですよ せやな 最後の行も"?"

回答No.13

【既存と個性が同居できない理由は無い】 【既出をけなすより斬新をホメればイイ】 てな言葉が【生徒会の一存】にあったヨ

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.12

>もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? 私個人には、そんな感じの人ってのは意外と、お勉強の よくできる優等生か、逆に、劣等生か、その両極で多く見受けるような印象があります。それでも、せいぜいが「レプリカ」気取りと言うか、ウォナビーにしかなれないのだろうとも思います。 >読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? さて、、、身守るほどの「自分」は ありや? 露のごとく儚く消えてしまいそうに心もとない「自分らしさ」でしょうか。 > (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) でも、そういう時代も必要だったのかもしれませんね。 >過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 「汚す」という表現が適切か どうかは ともかく、そういうことは、「過去の本を読む」ことに限らないでしょうね。 >『影響されなかった』 たとえば、 「何かを食べても“自分”を保てますか?」 と言い替えてみます。 …しかし、ともあれ、食べないわけには いかないのだし。 人間の食べるものに、人種や国などによって多少の違いはあるにせよ、概ねは似たり寄ったりですよね。 ところが、個人によっては、他の人々には問題なく食べることができるのに、自分が、それを食すると、毒となって、たちまち命を落とすことも実際あります。 >実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在 俗に、「溶けて流れりゃ皆同じ」と言われるけれど、眼は耳は それぞれ二つ、鼻と口は それぞれ一つであることに違いはないものの、それでいて同じではない。 他者と何ら違いはない、と同時に、違いはあるという「矛盾」が成り立っている。 これらの根本において、自分の選択も自覚もなしに、こまやかな取捨の両方が成り立つのです。 このように、自分の肉体、精神の両面ともにおいて、日々に摂取する食物とは、いかなる存在なのでしょうか。 書物、学ぶこと、その他についても、同様なことが言えるのではないでしょうか。 入り込み、忍び込み、侵され、廃棄しながら、 息吸って吐くように、取り込みつ捨てつしながら生きておりますね。両方しなければ、生きていけない、いたって おおざっぱな、しかも緻密な摂理です。 まあ、三木 清氏が紹介された「streber」なるドイツ語もあります。 >オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 学ぶことは、真似ぶ、つまりパクることであり、それがイノベーションへのステップでもあり、教育の初歩でもあります。ということは、「レプリカ」の対象を気取って、永遠と止まっていては しょうがないとも言えますか。 しかし、なかには、「レプリカ」対象を知らずして、すでに、対象と同レベルに達してしまっている人もいますよ。 ところで、私の周囲で、子を身ごもり、育てた経験のある女性たちの多くは言います。 おなかのなかにいたときから、その子なりの個性は、すでにあった、と。 人間は、全く、他者からの評価基準なしに、自己を認識、評価できるものではないでしょう。 そもそも、そういったものなしには、自己を評価しようとすることすらないでしょう。 場合によっては、自分以外の者による評価のほうが的確なことすらあるかもしれませんよ。 自分が何者であるのかという評価は、ときとして、案外と難しいこともあります。

回答No.11

ご質問の意味からすれば、ここで回答を文字で受けることの方が本を読むことよりもあなたに影響を及ぼしますよ。でも、そんな文字自体ににこだわる必要はないでしょう。 あなたが仰る通り 書斎に隠って哲学書を書く人間よりも 森の中で生まれ育った人間 の方が遙かに豊かです。哲学書なんて所詮は、文字の羅列。 あなたにとって書斎やら図書館やらの外にある実体験の豊かさこそが重要なのではないでしょうか。 つまりは、文字や言語は受けるにしろ発するにしろあなたの実体験が不可欠なわけで、結局、あなたのオリジナリティというのはあなたしか経験していないあなたの実体験ではないでしょうか。  >オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 つまるところその哲学者はあなた自身。あなたの深みそのものだと思います。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

実体験こそオリジナリティ。なるほど…。 本を読んで得た知識…何を読んだか…。 自然で見た物…聞いた物…。 詰まるところ全て自然と…。 流行の自然、哲学、科学ですかね…。

noname#154561
noname#154561
回答No.10

はじめまして、そしてごきげんよう。 あなたと私はこの広大な世界で一瞬交錯している。 多分、二度とめぐり合うことは無い。 他者の思考を得ることに懐疑的である、ということは とりもなおさず自分自身の手応えを持てずにフワフワと 日々を過ごして不安な気持ちを抱いていることの表明。 理解してもらえることを前提に書くが、あなたは元々存在していない。 生後、あなたは人格はおろか、認識自体を持っていない存在だった。 今考えていることの全ては言語やイメージで構築されてきた構造物。 その部品である言葉自体が膨大な他者の思考の遺産で出来ている「」。 更に言えば、「こう見える」「こう聞こえる」という認識自体も周囲の環境から、 言わばプログラムされたもの。決してあなたが自発的意思で獲得した資産ではない。 周りの環境変数をパラメータとして動作する内的なプログラムが発動したに過ぎない。 元々遺伝子に組み込まれていたシステムが、自分が生命体として発生した環境を なぞりながら読み取り、データベースにしていったものを類似パターンとして選択し あなたの目に映る世界の様々な要素を照合認識しながら翻訳している。 思考を形作る言葉も、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚的な感覚も、更には自分の記憶に 触れる時の内的な感覚や情動も同様にあなたが造ったものではない。 元々肉体に備わっていた機能が働いて生み出した自動的な学習経験体。 つまり、あなた自身が、古代から連綿と続く無数の「著書」の一冊である。 オリジナリティ、とか真実、とかいう「概念」は人間が「自分は確固とした、 侵し難い絶対的な存在」という主観から抜け出せず、派生的に生み出した「観念」。 むしろ、哲学的な思考で言えば「個」というものは思考を深める過程で融解し、 他者と地続きの連続体の一部、ある種の情報の分布の偏りに過ぎないという視点が 得られる。 でも、哲学的な純粋思考に遊ぶのではなく、人として生きて死ぬことを是として その立脚点で物事を考えるなら、例えば人から賞賛されるストイックなポリシーを 人生の背骨として携えることは素晴らしいことだと言える。 この次元の異なる二つの目線のいずれでも、「自分の純粋性」にこだわる思考は、 自分が未熟者であることの自覚と、自分を無価値にしてしまいかねない、 途方も無く広大なこの世界への畏怖の裏返しでしかない。 いずれにせよ、それが示す意味は「無知」、ポエムな言い方をすればイノセンス。 この二つは古今東西極めて普遍的で、言わば「青年期」という語彙解釈そのもの。 青年期の思想は「真実」とか「穢れなき」等、自分=唯一無二だという自分が世界の 中心である「天動説」への執着をもたらす。 自分は絶対者であるべきだという「私」を言い換えた一人称に過ぎない。 そして、それはそのまま他者を「自分同様の存在」と認める能力の未発達を意味する。 卑近な表現を取ると、一見難しい言葉を並べても、スタートラインのずっと手前で 虚勢を張りながら歩を踏み出せずに立ち竦んでいる若者が「ウゼえんだよ関係ねーよ」 と悪態をつく言葉と意味的に大差なし。 (誤解無き様に願いたいが、貶しているのではなく、純粋に「思考」としても 「感情」としても、概ね同一のものとして置換しうる「幻想」に過ぎないという考察。 あなたがあなたにこだわる、ということ。 それは、古代から使い古されて尚、飽きもせずに繰り返される「青年期」という 人生の一つの季節に過ぎない。 生命が進化して獲得した「知性」という、偶然を必然に変える特殊なシステム。 自然には偶発的にしか起きない事象を必要に応じて再生できる「科学」。 どんどん変質しながらも「自と他」という一見相容れない別個の、実は連続体を 形成している「人格という海面上の島」に他ならないものの海底に連なる大地である 「記憶」。 識れば識るほど、時間的にも空間的に世界は途方も無く巨大であり、自分と同様の 「存在」が無数に存在すること、自分も無数の空間的・時間的な外界に全て由来する 普遍的な要素で出来ていること、つまり自分が無に等しい存在であること、自己と 他者が実はメビウスの環の様に連続した一体のものであること。 それを識り、一生を学び、新たに歓喜する。 あなたもいずれ、途方も無い巨大な海の泡であることを識る。 遅いか早いかの違いだけ。 だが、この視点を欠けば哲学的な思考だろうが 人間的な言動だろうが、自分に囚われた囚人として生きることになる。 囚われ人であるあなたの目の前には鉄格子が見えるかも知れないが、 後ろを見れば実は壁さえない。 あなたは私同様、経過年数を重ねる裡に、 やがて人生を歩かざる言い訳を放棄する時が来るだろう。 いつかあなたは、あなたを捨てる。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

言葉回しも面白く内容も良かったが質問者の分析に徹してしまったのでベストアンサーならず…。 内容については、確かにその通りです。 それでもこの「自分」という幻想を愚直に信じて守っていきたいれふ。

回答No.9

どんな本を読んでも、読む人が違う人ならその理解は人の数だけ存在するだろうと思います。どんなに自分は先人の哲学を先人の意図した通りに忠実に理解するんだと思っていても、100%同じ理解はできないだろうと思います。読むという行為は自分というフィルタを通すということでしょう。フィルタを通る以上、どうしても自分の見解というものは混じる。無意識に自分の興味あることはクローズアップされるし、興味のないことは看過されるでしょう。その時点で既に、100%他人の影響を受ける可能性は排除されますよね。 作者のレプリカになりたいと望んだところで、そちらの方が難度はむしろ高いだろうと思います。 影響されるのは自分よりも、むしろ読まれる哲学の方なのかもしれません。 勉強不足の己のフィルタによって消化不良に理解されたものを先人の哲学だと誇らしげに語る人がたまにいますが、先人に影響されているから彼らはそうしているのではなく、哲学を道具にして、彼らは衒学趣味を満たしているにすぎないのだろうと思います。汚されているのは自分じゃなく、哲学の方です。 少なくとも、先人の哲学を利用することで、思考段階を省略することができるとはいえるだろうと思います。長い歳月をかけて複数の人が思考し、派生し、構造化し、体系化してきたのが哲学です。体系化を一人で成し遂げることはできません。多くの人が哲学を自らの思考に汚しながらも、より高みへと押し上げてもきたのだろうと思います。 ただ、それは後世の人間にしかできないことでもあります。何故なら、先人は未来を生きることはできないからです。後世に生まれた者だけが知り得る先人の未来がある以上、先人の哲学は読まれ、彼らの未来のフィルタで汚される必要はあるでしょう。そうすることだけが、先人の哲学を後世に伝える唯一の手段となるだろうとも思います。読まれない哲学はただ忘れ去られていくだけです。 人間は必ず自分の生きた時代の影響を受けます。先人のどんな哲学を読んだところで、今という時代の空気をぬぐい去ることはできません。その空気によって変質するのは、むしろ哲学の方で、でも、変質するからこそ、更なる高みを得られるのなら、汚されること、変質せざるを得ないことも甘んじて受ける意味はあるんじゃないでしょうか。 時代の影響下にある人間にとって先人から受ける影響など微々たるものだろうと思いますよ。先人のレプリカになる方がずっと難しいだろうと思います。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

>読む人が違う人ならその理解は人の数だけ存在する 確かにそうですねぇ…。

回答No.8

あなたは、「バ~カ!」と言われると、腹の立つタイプですね? 自己認識を、他人による評価に依存している。 実際、自分の事を一番よく知っているのは、自分自身であり、 「バ~カ」と言われる事で、何も価値が下がる訳ではない。 もし、自分がバカでなければ、そのあなたを「バカ」と評した 相手は、認識力が低い=自分の事をバカだと表明している に他ならない。 誰かが何かを言い、あるいは書いたものを読む場合、それを 鵜呑みにできるほど、正論の流通している社会ではない。 字句の意味だけを追うのではなく、それを言った相手が 『何によってそう思ったか』、『何のためにそう言ったか』を 読み取ることで、そこに含まれる先入観に流されないという だけでなく、それ自身のより深い理解が可能になるのです。 (昔から言われている事です、「眼光紙背に徹する」と。)

R27D19H10Y02
質問者

お礼

>眼光紙背に徹する なるほど、自我を濁すほど本に触発されるなと。メディアリテラシーですね…。

回答No.7

>古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 武道や書道の修行で、守・破・離の三段階が有ると言われます。 まずは、先輩の教えを守る。書道教室や剣道の素振りの段階ですね。 つぎに、先輩の教えを破ることに挑戦するようになる。自分探しですね。 最後の段階で、一派を離れる。自分の派を作ることもあるし、生涯を独歩する人もいる。 古今東西の書を読むのは、守の段階ですね。この段階を飛ばしてはやはり、既存の人類が到達した高みを超える事は難しい。しかし、この段階にあまりに長い時間を費やしていては、教員や哲学学者になってしまいます。 森の中で育った人間がいきなり有意義な本を書くことは無いでしょう。 哲学する者も、守・破・離の段階を経て行くのだと思います。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

>武道や書道の修行で、守・破・離の三段階が有ると言われます。 守・破・離ですか…なるほど…。 でも結局"守"を基点に破ったり離れたりしているだけで、全くのオリジナリティ溢れる到達点には至れない気がします…。 「どう富士を登るか」ばかり考えていたら、永劫エベレストの頂には至れない気がして…。

回答No.6

 ANo.5 未変換の変換と補足:   自己性と民族性の純粋性と継続性のもんだいでしょうね。⇒自己性と民族性の純粋性と継続性の問題でしょうね。  補足:しかし変化していかない生命体や意識体、或いは精神や思想はないと存じます。そして前ご回答が仰せのように、家族や社会、或いは構成社会や歴史が不可抗力的に各人の意識やその基盤の形成の要素となっていることはいうまでもありません。  しかし各人はそれと同時にその人の特有性を担わされて生まれてきています。歴史と社会の中の存在であるが、その中の特有性も否定はできない。そういう自己性の継続性は誠実な生き方でしか維持・成長は難しい。  ということを、ANo.5とそこ紹介している回答でお話したかったのです。

R27D19H10Y02
質問者

お礼

回答No.5

 はい、大事なことだと存じます。  如何にきちんと消化し、読むか。接するか、そして学ぶか、経験するかだと存じます。  個人においても、文化圏においても、異文化とどう接触し、受け入れ、影響されていくか。  自己性と民族性の純粋性と継続性のもんだいでしょうね。しかし変化していかない生命体や意識体、或いは精神や思想はないと存じます。  以上に関連して、質問《あえて悪をなし、対極としての善をきたえる》のANo.9にも投稿しました。  kikitai.teacup.com/qa6538428の前後にhttp://や.htmlを付加してご覧下さい

R27D19H10Y02
質問者

お礼

>ご覧下さい はい

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