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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:三位一体論は そんなに不人気なんですか?)

三位一体論の人気不足とは?

このQ&Aのポイント
  • 三位一体論は無宗教であり、人気の無さは根拠に欠ける可能性がある
  • ヨハネ福音を主な根拠とした神論であり、純然たる神学である
  • 三位一体論はイエスの神性がクリスチャニズムや他の宗教とは異なり、ユダヤ民族の神との関係も断たれている

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

こんばんはです。 キリスト教の三位一体説の説明、ペルソナ説は、 どうも、わたしにはしっくりときません。 考えれば考えるほど、奇妙なものに思えてならない。 ペルソナは、仮面であり、性質や性格、役割でしょ。 ペルソナはあくまで属性であって、本質や実体ではないので、 これでは、 父なる神も神の属性ということになってしまう。 ~~~~~~~~~~    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。 ~~~~~~~~~~ の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。 ですから、 これはペルソナと言えないのではないか? となってしまいます。 ずっとここに引っかかりを覚えています。 もっとも、光源が真なる神の見せる《仮面・ペルソナ》や、人間が直覚、直観する神の現われ(?)であって、それは真なる神ではない、というのならば、話は違ってきますけれども。 bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。 ですから、 わたしは、 ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、 と考えています。 《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。 でないと、 《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、 と思うので。 ───たぶん、こうした《聖霊》観は、真っ当なキリスト教(?)の聖霊観とは違うのかも知れませんが・・・。 ですが、 イザヤ書11:2には、 「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」 とありやす。─── ~~~~~~~~~   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に ~~~~~~~~~ とあり、 bragelonneさんも《ハタラキ》や《機能》、 《機能》はちょっとまずいのかもしれないので、 《ハタラキ》としてとらえているわけですから、 《ハタラキ》としてとらえた方がいいのでは? で、わたしは、さらに進んで、 《聖霊》だけでいいのであろう、 《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、 《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、 と考えます。 三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、 と考えています。 《記憶》や《知解》ですと、オシエに関わるものになってしまいますし、 bragelonneさんの神論や信仰論とは相容れないものになってしまうじゃないですか? もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、 それであったとしても、 それは《聖霊》に含めればいいのではないか、と考えます。 罰当たりなわたしには、 三位一体説のイエスという存在は、どうも中途半端な存在に思えてしょうがない。 ロゴス・言葉なる神・イエスとすると、イエスは福音などの神の言葉そのものになってしまう。 宇宙を統べる何かをロゴスとするならば、イエス=神となってしまうので、 父なる神と子なる神という区別が曖昧になってしまう。 イエスを受肉した神と考えれば、イエスは神の愛そのもの、もしくは神の愛の現われになるのでしょう。であるならば、「言葉・ロゴスによって伝えられる愛」や「父なる神と子なる神の永遠の愛」・聖霊との区別が曖昧になってしまう。 「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、 そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。 「不条理なるが故に、我、信ず」でいいんですよ。 イエスは永遠の《???》でいい(笑い)。 わたしは、キリスト教のオシエには結構、寛容なのですが、 キリスト教の難解な《三位一体説》には厳しい目を向けています。 《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。 この際ですから、 神・イエスには、哲学のために、もう一回、死んでもらいましょう(笑い)。 もう一度、《十字架》にかけちゃいましょう!!

bragelonne
質問者

お礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  (省略)の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。  ですから、  これはペルソナと言えないのではないか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええっとですね。  神は あくまで《非知》です。《その存在ないし非存在について人間がその能力によって知り得るか知り得ないか これが知り得ないというナゾ》です。  概念的な説明としては 《絶対・無限・非経験》です。ナゾは 《霊》です。  さらに内容を むしろ人間がのぞむほどに捉えるなら 《真理・愛・慈悲》です。  擬人化して捉えるなら 一般に《絶対者》であり だいたいは《創造主》を言うものと思います。   ○ 実体・本質 / ペルソナ  これらは あくまで哲学上の概念として もともと あると思います。  《絶対》なら いわゆる《実体》であるとは言えるはずです。でも 《非知》です。  《本質》は 属性としてと言いますか 修飾語としての概念説明だと思います。うつろいゆく現象ではないでしょうから。  ただし 《絶対なる霊》は けっきょく経験世界を越えているという想定ですから むしろこの経験世界における現象にさえ かかわっている。かも知れないとなります。いわゆる《遍在》です。  《ペルソナ:位格》は 《神》が三つの部分に分かれると捉えるとき その部分の名を このペルソナとしたということです。それだけのことです。三つの《貌》でもよいはずです。  あらためて まとめとしては:  《非知》を想定する。(必然的に そういう領域が想定されてくる)。  これが 一般に言葉として使われている《神》のことだと認定する。そうして これについての説明をおぎなう。これは 上に示しました。  ・ 光のタトエにあっては 《光源;その発耀;その明るさ・あたたかさ》は あくまで比喩です。実際にそう有るという意味ではありません。つまり 三つの位格のたがいの関係を説明するのによいということからです。一体性が 光であることにおいて 分かりやすい。  たとえば 神は愛なり。というとき 子の父も 父の子も それぞれすでに聖であり霊であり 聖霊であるからには 愛でもあるのですが とりわけ《明るさやあたたかさ》に譬えられる《父と子との両者から発出する聖霊》こそが 神なる愛であると呼ばれるのにふさわしい。  これは 人間の時間的な差をともなう三一性にあっては 《意志》にあたります。  ひとがいて 精神があり 精神が精神するといったとき これは 具体的には 記憶が記憶するという意味にとって それが 知解になります。記憶がいわば父です。知解が 子です。  そうして 記憶と知解とにもとづき人格全体としての心を決めるのは 意志です。その意志行為や結果は あたかも《父と子とから発出する聖霊なる愛》にたとえられる。ただし 人間の意志行為における愛は 愛情と嫌悪との正負ふたつのの向きを持って分かれて現われる時間的な・移ろいゆかざるを得ない愛です。  ◇ bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。  ☆ この三位一体なる神という説は 神学の中でも特殊中の特殊です。哲学の問い求めに耐えうるかどうか こころもとないところです。  なんで神が 三つの位格に分かれるのか? それは ひとえに イエスが――旧約聖書からのそれとしての伝統にのっとってでしょうが―― 《父なる神》という言葉を使ったし 《神の子》と自称もしたし あるいは《聖霊:パラクレート》を送るなどということをも言った。ゆえです。  この謎解きを人びとは おこなって 三位一体なる神だぞという結論に到りました。根拠は ありません。イエスが 言ったことの内容を 整理し つじつまを合わせたとも言えるでしょうし じつは いわゆる《神の化身》といったような通念をめぐって 哲学ないし神学としてのケリをつけるために虚構を語ったのだとも考えられます。  ここにおいて 哲学としての基礎は 《非知》です。非知として神を想定するという初めの約束事です。あとは 説明のためのガンバリです。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから、  わたしは、  ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、  と考えています。  《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。  でないと、  《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、  と思うので。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですけれど 趣旨説明欄の(3)に記したように 《父と子と聖霊との三つの位格のそれぞれは互いに そして各個は全体(三位一体)と 全体は各個と それぞれ まったくひとしい》のです。  ひとつのペルソナが 《現われ ないし ハタラキ》であるならば ほかのペルソナも 同じくそうであるとなります。  ▲ 主の霊  ☆ とは 父なる神でもあり 子なる神でもあり 聖霊のことでもあり また それら三位一体なる全体のことでもあります。《無限》とは そういうものだと思います。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  で、わたしは、さらに進んで、  《聖霊》だけでいいのであろう、  《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、  《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、  と考えます。  三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、  と考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これまでのやり取りにおいて すでに《これからは――つまり イエス・キリストが去って行ったあとからは―― 聖霊の時代である》と書きました。  神について もうおしえたりすることは 無くなる。神が 人びとの罪をおぼえていることも無くなる。というふうに神みづからがみづからを揚棄しましたから。  《人間の時代である》と言ってもよいのですが その人間なる存在には《非思考の庭》が 感性や理性のほかに あると想定されるので なお神にかかわる言葉として《聖霊》を用います。  三位一体説は 最小限必要だと思われることには カトリックおよびプロテスタントのクリスチャンらの説く神論が この三位一体説であるならば――あるのだから―― あたかもその説にこちらも合わせて議論し あとは いま触れたエレミヤの預言――あたらしい契約によるあたらしい世界――が成就したという世界認識を 共有することが出来るほうが みのりの多い議論になると考えるからです。  ◇ もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、   ☆ 《記憶・知解・意志》は 《かみの似像》としての人間の存在要素です。自然本性においてそなわると見ます。つまり 経験事象としての行為能力です。  これが 《非思考の庭――信仰――》をつうじて 神の霊つまり聖霊にあたかも連なるという見立てです。実際には ヒラメキという現象として そのつながりを捉えます。(文学的には その聖霊と非思考の庭との連絡は 天使の役目だというかたちです)。  ◇ ロゴス・言葉なる神・イエスとすると  ☆ いえ。《ロゴス》は あくまでタトエです。基礎は 《非知》です。あとは 分かりやすいように概念的な説明として 表現をひねくっています。  ◇ 「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、 / そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。  ☆ イエスがほのめかしたのですし アタナシウスとかいうおっちゃんが提唱し皆がみとめたからには それとして受け留め エレミヤ預言の実を取ったほうがよいと考えられます。ということは これは クリスチャン内部での議論におさまることなのかも分かりません。でも 哲学としての妥当性を 外部の者も見届ける必要があります。  ◇ 《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。  ☆ エレミヤ預言が 成就したことが 常識になったなら 不要になります。

その他の回答 (14)

noname#214841
noname#214841
回答No.4

おはやうございます。回答番号1,3のplapotaです。bragelonneさんの他の投稿文を拝見してゐて理解できないことがらも、かうして1対1でお話をうかがふと、鮮明に見えてきます。貴重な機会をありがたうございます。(ボランティア活動として回答してゐる、といふ人がときどきゐますが、私はこのサイトは、質問者も回答者も共に学ぶ場所だと考へてゐます。) *** *** *** *** *** >>という一縷ののぞみがないとも限りません。 私は八方○○ですから、bragelonneさんたちの見解も尊重します。そこから学べるものを、みづからの筋肉にしたいと思つてゐます。 神学を論じる人たちは三位一体を認めるほうが圧倒的に優勢なのではありませんか。Erdbeerkegelsさんや私のやうな言語的アプローチをする者は、認めない立場をとることが多いと思ひます。ただ、あまり聖書になじみのない人たちが、三位一体論を聞かされて、納得できるか、といへば、ほとんど不可能なことだとおもはれます。おもしろい過去Q&Aがありました。 http://questionbox.jp.msn.com/qa7331512.html 昨日kanto-iさんから、最後は収束化して単純に、本質は単純だ、といふお話をうかがひました。私には、その「本質」に到達してゐるやうには見えません。6歳の子供でも神を信じることができますが、三位一体論にはついてゆけないでせう。 ちなみに、ここ哲学カテゴリには笑ひの「本質」があります。意図せずして、笑ひをまきおこす、これこそが単純化された本物です。私には、笑はせようといふ邪念があるので、サイト内ですべりまくつてゐます。しばらくこのカテゴリで修行させてください。 *** *** *** *** *** >>二重性です。 神の三重性のつぎは、マリアの二重性ですか。ますます複雑になつてきました。 >>定冠詞を置くのを《忘れた》と捉えてみては どうですか? この部分の異読はないはずです。シナイ写本をはじめとするどの記録もすべて同じです。また、マタイ福音書のやうなセム語の要素が強い(ある意味不慣れな)ギリシャ語ならばともかく、ヨハネ福音書は正統的なコイネー・ギリシャ語であり、誤りとはおもへません。 >>文学的表現のもんだいであると見ます。 私は、書いてあるとほりに素直に読みます。だまされる読み方がいちばん楽しい。 >>ユダイズムからの大河の流れが見られます。 それはおつしやるとほりです。 「子なる神」ではなく、「神の子」(またはミカエル)としての位置づけは、旧約聖書でも新約聖書でもかはらないと考へます。 >>真理にあっては あたかも《記憶と知解と意志とが >>そのつど同時に決まる》ところ .......... 昨日も書きましたが、三位一体論そのものはおもしろいと感じるのですが、私はそこで思考が終了してしまひます。 >>けっきょくどの神の信仰についても >>あてはまる普遍性を持つ。 かぎりなく広い普遍性です。 「三位一体論は 役に立ちませんか? 」 の問ひかけに対して、 「ラーメン屋の宣伝に役立ちます。」 といふ回答も充分成り立ちます。 ごめんなさい。悪い意味ではありません。ただ判らないだけです。 はやくNemurinekoNyaさんが復帰してくれないのでせうか。

bragelonne
質問者

お礼

 さわやかな朝 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  もしおっしゃるように キリストは《天使ミカエル として神の子》であるとしますと 次の話で《わたしの愛する息子》という場合にも当てはまりますか?  〔あっ。いま 思い浮かびました。だって 《独り子》って書いてありますよね。だったら ほかにも何人かいる天使では 困るのではないですか?〕  ▲ (ルカによる福音書/ 20章 9~18) ~~~~~~~~  9:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。    「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。  10: 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。  11: そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。  12: 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。  13: そこで、ぶどう園の主人は言った。     『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。     この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』  14: 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。     『これは跡取りだ。殺してしまおう。     そうすれば、相続財産は我々のものになる。』  15: そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。  16: 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」  彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。  17: イエスは彼らを見つめて言われた。    「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。     『家を建てる者の捨てた石、      これが隅の親石となった。』(詩編/ 118編 22節 )  18: その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《隅の親石》と呼ばれる家の土台を成す石として――すなわちユダヤにとっての王ないし救世主たるメシアとして―― イエスなる預言者のような者は ふさわしくないと人びとは見なしてこれを捨てた。ところが あとになって分かって じつは 親石となった。  という話だと思うのですが それは 父なる神の《愛する息子》である。つまり イエス・キリストが自分のことを言おうとしているはずですが これに《天使長ミカエル》でも つとまりますか? 《しもべ と呼ばれた人間としての預言者》ではないのでしょうが いかにそれらの長官だと言っても ひとりの天使なのですが?・・・  あとは そうですね。  ☆☆ (趣旨説明欄) 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  ☆ ということでなければ・つまり言いかえると《子なる神》が 天使であったとしたら 《一体性》が どこか不十分なかたちになるかと考えられます。  天使は いかに霊であると言っても 父なる神からそのまま・時を置かずして生まれたという子なる神が 天使であっては 父と同じひとつであるとは言えないでしょうね。  だから 三位一体説は 成り立たないという見方になるのかも知れません。知れませんが それだと おそらくキリスト・イエスが 十字架上に上げられた意味がなくなって来るでしょう。  大いなるウソは 最大限の虚構として描いたほうがよいのではないでしょうか? これ以上の大嘘はないというからこそ 去って行ったイエスが 復活したとさえ 虚構をつづけることが出来ます。  ★ ラーメン屋の宣伝  ☆ にも 天使ミカエルの場合には よわいチカラしか湧かないように思われます。  いまの時点で ねむりねこさんの動向は分かりません。もう日曜日ですから 早まることはなくなりましたが 多少おそくなることはあるかと思います。(どんな仕事かも知らないのですが)。  タガログは 《ひと》ではないでしょうか? 推測ですが。

noname#214841
noname#214841
回答No.3

>>2ちゃん流は やめたとおっしゃっていたのでは? また削除対象になるかもしれません。それから、マッチの件はしつこかつたやうです。お許しください。 >>ん? どなたですか? 仮面ライダー様です。 *** *** *** *** *** >>三位一体の説は  >>神論または人間にとっての信仰としても  >>きわめて特殊な内容を持ちます。 だからこそ、タイトルのとほり「不人気」といふことでせうか。 >>マリアは ヨセフとの間の性交によってイエスを孕み  >>同時に聖霊によってキリストを人間イエスの内に懐胎した 私はこのあたりの超自然の解釈をする勇気がありません。処女懐胎といふわけではないのですか。 >>唯一の神について  >>定冠詞をはぶいている例もあったかと思いますが  >>その程度ではダメということでしょうかね。 ho logos en pros ton theon, kai theos en ho logos. (ヨハネ1:1 ギリシャ文字は表示がブサイクになるので、ローマ字にしました。enは長母音です。) この文の中では、定冠詞のあるなしが、区別されてゐると、私は見ます。そして、冠詞のある前半部分、つまり、ほんとうの「神」と「ロゴス」の間には、en だけでなく、前置詞prosが使用されてゐます。ロゴスは神のそばにゐた、そばにゐただけなら、別別の存在と解するのが自然です。わざわざ「特殊中の特殊」な読み方をする必要はないと思ひます。後半は、ロゴスは「神のかたち」(アダムがさうであつたやうに?うまく訳せません)をしてゐた、と私は解釈します。 >>イエスは キリストとして  >>モーセやアブラハムよりも先に・前にいた >>といった内容を示す文章としてです。 いはゆる「天使長」(ミカエル、マイケル、ミッシェル)としての存在です。 >>イエスは ユダイズムから出たはずですよ。 はい。おつしやることはよく判ります。 だからこそ、ユダヤ教にはない、三位一体がでてくるのが不可解です。 >>《結びつけ》は 人間の―― >>つまりわたしメの――勝手なしわざです。 すみません、質問文を普通に読めばさうですね。私の早とちりです。 >>その中身で勝負のぎろんです。 仮に三位一体を認めたとしても、その先の展開の必然性、論理的な筋道を追ふことができません。3個で1パックなら何でも通用するやうに思へます。卑俗な例で申し訳ございませんが、 ラーメン(麺、タレ、具) 行列をつくるラーメン屋はうまい。 哲学者はなぜそんなことを考へようとするのか、これが本日の私の投稿質問でした。私には無理であることはよくご存じでせう。NemurinekoNyaさんたちと議論してくださいませ。 聖書と向きあふのは、自分への戒めとして、そして文学的楽しみとしてです。書いてあることを、「特殊」にではなく、素直に読む、それが基本方針です。 私は今まで、bragelonneさんのやうな読み方をしたことがありませんでしたので、新鮮な驚きがあります。さらなる御教授をたまはりたく存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 仮面ライダー様です。  ☆ なにしろ 《筋肉》りゅうりゅうですからね。――おっと あらためましてこんばんは。ご回答をありがとうございます。―― あの方ともわたしは もう古いふるい仲間です。何を言っても自由な仲です。いまも言って来ていますが。・・・  ★ だからこそ、タイトルのとほり「不人気」といふことでせうか。  ☆ なのでしょうが それでももし《現実》と切り結びしているとしたら?・・・という一縷ののぞみがないとも限りません。  ★ 私はこのあたりの超自然の解釈をする勇気がありません。処女懐胎といふわけではないのですか。  ☆ いえ。これが――つまり 人と神(霊)との二重性が―― 《処女懐胎》の〔想定としての〕現実性を保証すると考えます。  キリストの母として聖母マリアであり イエスの母として ふつうの母親です。つねに二重性です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ho logos en pros ton theon, kai theos en ho logos.  ・・・  この文の中では、定冠詞のあるなしが、区別されてゐると、私は見ます。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《定冠詞の無いこと》にもとづく場合には おっしゃるとおりだと認めざるを得ません。つまり ロゴスは 《父なる神》と一体だというふうな存在ではなかった。としか読めなくなります。  定冠詞を置くのを《忘れた》と捉えてみては どうですか? 内容からは そのほうが ほかのところとの兼ね合いで かなっていると見られます。と思うのですがねぇ。  ★ いはゆる「天使長」(ミカエル、マイケル、ミッシェル)としての存在です。  ☆ わたし〔だけでしょうか?〕は 《天使・へび・悪魔あるいは 天の国・地獄》のたぐいは すべて文学的表現のもんだいであると見ます。  神と人間とのあいだに 事実認識から自由になったという前提に立つ文学の物語として 《使い》が登場する。    人間の心にあたかも巣食う――自由意志のなせるわざとしての――或る思いとそれへの志向があると考えられますから その《心にさからう究極のウゴキ》を へび・サタンとして登場させた。これのみだという見方です。  天の国は 自由の別名です。《真理は きみたちを自由にする》というときの《自由》を言いかえた言葉です。  それに反する志向性やその状態 これを《地獄》と呼ぶと。  ★ だからこそ、ユダヤ教にはない、三位一体がでてくるのが不可解です。  ☆ これは イエスがエレミヤ書からの直系であるということのほかに イエス・キリストがはりつけの木から去って行ったというときの去り方においても ユダイズムからの大河の流れが見られます。  (1) モーセがさお(棹)の上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が人びとの死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似に注目した一つの見解があります。(《へび》をしりぞけたばかりなのに 出しますが)。  ▲ (ヨハネ福音 3:14,16) ~~~~~~   そして モーセが荒野で蛇を上げたように   人の子(イエス)も上げられねばならない。   それは信じる者が一人も滅びないで   永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (2) むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β) けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりそのあたかも暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。人間の思惟および行動のもんだいにとどまる。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として 人びとのわが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (3) すなわち 前項の事態は それとしてすでに《なぜイエス・キリストは 十字架上に去って行ったか》についての説明であるが 同じくそのことは ペテロや弟子たちが イエスについてはイエスが去って行ったあと初めて 神の子キリストなる人間イエスだと分かった。ことを物語っている。  すなわち生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      ★ 仮に三位一体を認めたとしても、その先の展開の必然性、論理的な筋道を追ふことができません。  ☆ 真理にあっては あたかも《記憶と知解と意志とが そのつど同時に決まる》ところ 人間の相対的な主観真実にあっては みっつの能力行為のあいだに時間差が生じる。中身のマの違いも生じる。わざとマを違えることさえ起きる。  《自由》とは この時間差やマの違いが限りなくゼロに近づいた場合を言い そのときには 有限なる自由意志が その自由を思う存分享受するようになりましょう。  といった哲学の命題を指し示すことができます。  そしてこのようなキリスト信仰は けっきょくどの神の信仰についてもあてはまる普遍性を持つ。こう言い切ってよいでしょう。無神論という信仰についても 同じくです。  そのときには キリストのキの字も言う必要がなくなります。〔文学に片向くならば〕 あたらしい天とあたらしい地の時代です。  これらすべては イエス・キリストが――後世に託しつつ――語った。と思っています。神の揚棄として・その成就のために みづからは神の子であるという大嘘をついた。この虚構が じんるいの生き共生することの鍵でありましょう。  

回答No.2

悟りを開くにあたり、三位一体論は、隣で吠えている犬と同じ程度に、十分役に立ちます。 ただ、このように分析的に物事を細分化して理解しようとしても、貴方はその行き着く末を見通すことなくこの世を去ることでしょう。 もっと「直観」に目を向けてみましょう。 「アンパン」は、幼稚園に入る前の幼児ですらひと目で「アンパン」と判断します。その成分を分析するための大掛かりな計測器を揃えるまでもないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 悟りを開くにあたり、三位一体論は、隣で吠えている犬と同じ程度に、十分役に立ちます。  ☆ ん?  つまり  ★ 隣で吠えている犬と同じ程度に  ☆ ですか? いまひとつ分かりづらいようには思いますが ともかく《十分役に立つ》 ですね。  ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、このように分析的に物事を細分化して理解しようとしても、貴方はその行き着く末を見通すことなくこの世を去ることでしょう。  もっと「直観」に目を向けてみましょう。  「アンパン」は、幼稚園に入る前の幼児ですらひと目で「アンパン」と判断します。その成分を分析するための大掛かりな計測器を揃えるまでもないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アンパンが食べるものだと分かる(直観する)ように 神つまりここでは 三位一体なる神 については おそらく心のパン 精神の糧であると やはりひとは直覚しうるのではないでしょうか?  《天からのパン》だとも言われていますが。・・・  けれども 哲学としては――三位一体は じっさい哲学が扱う範囲に入るかどうか あやしいと言えばあやしいのですが―― ともかく経験事象に例をとって理解できるように説明する。このことも 必要であり 大事であるとは思います。  神秘なるものについては できるだけ実際のものごとに即して理解できるように むしろ哲学の出番である。こうも考えます。  ありがとうございました。

noname#214841
noname#214841
回答No.1

bragelonneさん、こんばんは。私の質問にお越しくださつて、ありがたうございました。ベストアンサーは、○○コンを告白してくださつたkanto-i さんにせざるを得ませんでした。申し訳ございません。画像は、しばしば変更なさるのですね。 >>三位一体論は 役に立ちませんか? はい。 私は、ユダヤ教、イスラム教に見られる、本来の一神教こそがあるべき姿と考へます。 先日、Erdbeerkegelsさんの三位一体の質問に回答しましたので、顔だけは出しておきます。そのうち、NemurinekoNyaさんが、お相手してくださるでせう。私の師も登場してくださるとよいのですけれど。 私は、聖書以外は信用してゐません。(正典問題は別にして) もちろん、アウグスティヌスも。 したがつて、神学についての議論はいたしません。 さて、その聖書ですが、創世記1章27節のことばが、どうして三位一体と結びつくのか、理解できません。 >>三位一体なる神については  >>ヨハネ福音を主なものとして >>聖書記事からみちびき出した神論です。 どの聖書のことばですか。 ヨハネ1章1節ですか。定冠詞に関する、グランビル・シャープの法則を私は、認めません。定冠詞がないものは、ない。私は素直に読みます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 画像は、しばしば変更なさるのですね。  ☆ ええ。このアイコンについては ウワキショウです。何だか しっくり来なかったり 飽きて来たり。・・・  こんばんは ぷらぽたさん。ご回答をありがとうございます。  ★ ○○コンを告白  ☆ 少々触れ過ぎぢゃありませんか? 2ちゃん流は やめたとおっしゃっていたのでは? (例によって 何でも言いたいことを言います)。  ★ 私の師も登場してくださるとよいのですけれど。  ☆ ん? どなたですか?  ★ ・・・したがつて、神学についての議論はいたしません。  ☆ 分かりました。  三位一体の説は 神論または人間にとっての信仰としても きわめて特殊な内容を持ちます。  すなわち 《人間イエスが 神の子でありみづからも神であるところのキリストである》という特殊中の特殊です。  《マリアは ヨセフとの間の性交によってイエスを孕み 同時に聖霊によってキリストを人間イエスの内に懐胎した》というのが わたしの解釈です。(これは 誰のパクリでもありません)。  たぶん 《役に立つ》かどうかとしてみれば むしろ《アラヒトガミ》の理論を批判的に捉えることに寄与するかも分かりません。  ★ 〔三位一体なる神という見方をみちびくくだりは〕 どの聖書のことばですか。  ☆ ヨハネによる福音では いくつかの箇所が挙げられるはずです。  ★ 定冠詞に関する、グランビル・シャープの法則  ☆ この議論は知りませんでした。このヨハネ冒頭の文章には 定冠詞がないことは知っていました。これは ほかの箇所でも 唯一の神について 定冠詞をはぶいている例もあったかと思いますが その程度ではダメということでしょうかね。  ほかの福音書から ひとつ挙げます。イエスの発言として:  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち イエスは キリストとして モーセやアブラハムよりも先に・前にいたといった内容を示す文章としてです。  ★ 私は、ユダヤ教、イスラム教に見られる、本来の一神教こそがあるべき姿と考へます。  ☆ イエスは ユダイズムから出たはずですよ。聖書と言えば ヘブライ語聖書だったはずです。  けっきょくユダヤ以外の人びとにも 福音を告げました(カナンの女)が もともとはユダヤにだけ遣わされているのだと言っています。  ただし すでに旧約において エレミヤ書31:31以降において――そしてこのくだりは へブル書8章に取り上げられています―― 《神は 人びとの罪をもう覚えることはない と 人びとはもう神を知れと言っておしえることはない》と書いてあります。  つまり あたらしい契約のことですが これが イエスの登場によって成就したという見方になります。言ってみれば 神が神みづからによってみづからを揚棄した という預言とその成就です。  イエスが 旧約聖書から出たということを かんたんに述べます(ご存じでしょうが 一般的に示すことが出来ると考えて):    ○ 歴史にあって俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。~~~~  アブラハムは 七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ 行き先も分からずに そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史にまで到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ さて、その聖書ですが、創世記1章27節のことばが、どうして三位一体と結びつくのか、理解できません。  ☆ 《結びつけ》は 人間の――つまりわたしメの――勝手なしわざです。  その中身で勝負のぎろんです。  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  この《記憶‐知解‐意志(愛)》なる――時間差を伴なった――三一性は アウグスティヌスのもたらしたものです。  あとは 勝手な推理です。  ちょっと長くなりすぎましたね。こんなところです。

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