「日本語(英語)で考える」とはどのようなことですか
中学校で英語を習い始めてからしばしば耳にする「日本語(英語)で考える」という表現がずっと気になっています。これは以下のような文脈でいわれることです。
- 日本語で考えてしまうと英語を話すときに障害になる
- 訓練次第で英語で考えることができるようになる
しかし、わたしはこれまで自分が「日本語で考えている」と思ったことはありません。もちろん英語で考えるとも思いません。自分が何かを考えるときに日本語で考えていないことは、考えていることを日本語でうまく表現できないことがあることから明らかだと思います。
私が実はおかしくて、ほかのひと(日本語を母語とする人)は当然のように日本語で考えていると感じているのでしょうか?
私はなかなか英語で言葉が出てこないと言うレベルから必要な時は咄嗟に英語で話すことができるようになるまで上達しましたが、その過程で今までいちども「英語で考えることができるようになった」と感じた記憶はありません。
似たような表現として、「自己変革の心理学」と言う本に次のような記述があります。
"「結構です。ではここで怒りと不安のことについて考えてみましょう。あなたの怒りの背景には、たとえば次のような内的文章記述『ハーパーの馬鹿者め、エリスと
言う仲間も同じ愚か者だ。なんて馬鹿らしいことをしゃべっているのだ。こんな高度に科学的たるべき講演会で、こんなつまらないことをしゃべって、われわれをとことん退屈させるなんてもってのほかだ』と言うような内容の文章が浮かんでいたと考えては間違っていますか?」
「いやまったくその通りです。どうしておわかりになりました?」"---自己変革の心理学 伊藤順康 ISBN: 4-06-149011-7 p.74
この「~内容の文章が浮かんでいた」というのは私の感覚だと比喩でしかあり得ないのですが、もしかして本当にそのように文章を浮かべて考えるのでしょうか?
このことについてみなさん自身の感覚や意見をお聞きしたくて投稿しました。