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武田信玄は信長に勝てたのか?
- 信玄の存命が信長に勝利の可能性を拓くのか疑問が生じる
- 武田信玄は戦国時代でも屈指の強者であった
- しかし、信長の戦略と兵力を考えると勝利は難しい
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他の回答者の方々が指摘していない点について ・織田軍と武田軍の性格の違い 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。 ・武田軍の戦い方について 1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは しなかった。 結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。 2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。 3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。 ・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。 ・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。 ・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。 この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。
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- alphaXXX
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勝てたかは分かりませんが、当時の武田軍は織田に劣らない鉄砲隊がいましたので、鉄砲の威力を知らない勝頼が真っ向から織田の鉄砲隊に突撃して柵で食い止められて三段撃ちで壊滅したというのはフィクションだそうです。 むしろ信玄も勝頼も鉄砲の恐ろしさはよく理解していたそうですね。 ではなぜ信長に負けたかと言えばシンプルに戦略の差ではないかと。
お礼
なるほど! 何時の世も「わかってる」ことと「実行できること」の間には天地の開きがあるということなんでしょうか。 勉強になりました。ありがとうございます。
- tanuki4u
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そもそも武田信玄は長篠に来ない。 理由1 信玄の最大遠征距離は200キロ ※ 下記は最短距離(三河方面では駿府経由)だが信州経由でも+20キロ程度 理由2 1573年から1575年の間に近畿地方は信長の圧倒的優位で情勢が変化している。 ※ 信玄が死んだので信長が動きやすくなったという点もあるが、勝頼も積極的に遠江・三河に攻勢をかけており東からの圧力という意味ではあまり変わっていない。 理由3 長篠の戦いの起因は、武田家による奥三河支配の弱体化(奥平家の離反)となっており、信玄が死んでいなければ、奪回戦としての長篠攻略は発生しない。 甲府 = 小田原 約100キロ 甲府 = 野田城 約200キロ 甲府 = 善光寺 約150キロ 甲府 = 土岐市 約200キロ 春日山 = 小田原 約320キロ 甲府 = 長篠 約200キロ 岐阜 = 長篠 約115キロ 浜松 = 長篠 約35キロ (1573年) 三河野田城、武田信玄に降伏。 武田氏は西上作戦の途上で三河から撤退し甲斐へ帰国。信玄は帰途の信州で死去。 信長、足利義昭を放逐、室町幕府の滅亡。 朝倉義景が織田信長に攻められ自害(一乗谷城の戦い) 浅井長政が小谷城を織田信長に攻められ自害(前日には父の浅井久政も自害)(小谷城の戦い) 松永久秀が織田信長に降伏 1574年) 越前国で一向一揆(越前一向一揆)、守護代桂田長俊が自害 長島一向一揆が鎮圧される 1575年) 三河国長篠城を武田勝頼が攻囲 設楽原で織田信長軍と徳川家康軍が武田勝頼軍と激突、武田軍が敗走(長篠の戦い)
お礼
>そもそも武田信玄は長篠に来ない。 スマホで最初の一行を読み、よくありがちな「歴史にifはありません」的な回答を寄せてきたのかとカチンと来たわけですが。(笑い) その後の地政学的な距離の概念を持ちだしてのお話になるほどなあと感じ入る次第です。 ご回答をお寄せいただいてありがとうございます。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
勝てたでしょ 長篠で武田が負けたのは信長の鉄砲のせいじゃありません 大将が勝頼だったからです 信玄が生きていれば勝てましたよ 当然信長が強化してくれば信玄はそれに合わせた対抗策で来たはずです 上杉謙信や北条氏康と組んででも信長と戦ったはずです それに信長が甲斐に侵攻したのは 内部から武田を崩壊させてから 信玄の娘婿木曽義昌を寝返らせてからと言う下地を作っています そうしなければ崩せないほど信玄が鍛えた甲斐は強かったんです 武田ほどの大勢力と当たるなら信長も総力戦でしょう となると 織田家の諸将はほぼ出陣となります 戦力を甲斐信濃に投入すれば当然 中国の毛利・四国の長宗我部は織田領を狙うでしょう そうなれば西と東から挟み撃ちで戦いどころじゃなくなります そこまでの大きな視野で見ると 織田信長は武田信玄には勝てません
お礼
なるほど。壮大な政戦両面の大戦略ですね。 勉強になります。 ご回答ありがとうございます。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
私は、勝てないだろうと思います。 信長は、戦力が相手の数倍になってから 戦争をしています。 桶狭間だけです。 相手よりも少ない戦力で戦ったのは。 信長ほど段取り八分を徹底している武将は ありません。 戦う前に、勝敗は決している、というのが 信長の戦法です。 そうなる前には、平気で膝を屈することが 出来る人間です。 武田信玄に対しても、親と思う、なんてごますり の手紙を出したり、豪華な贈り物を届けたり、と プライドもあったものではありません。 こういう武将は強いですよ。 武田信玄が上手いのは、戦法だけです。 戦略は信長の方が上です。
お礼
ご回答をお寄せいただいてありがとうございます。 私も同感です。
- jun-tsuboi
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こんにちは。 武田信玄のファンって程ではありませんが…。 武田信玄が生きている時、信長は千挺しか鉄砲を持っていませんでした。 ローテーションを組んで撃つ事にしてはショボいですし、 戦う場所も違ったでしょう。 …って事で武田信玄に軍配が上がるでしょう。
お礼
当時は千挺しか持っていなかったんですか。 勉強になりました。ありがとうございました。
- eroero4649
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氏康ファンです。小田原城を落とせるものなら、落としてみよ。 さて、信玄存命ということであれば、元亀3年から4年にかけて行われた西上作戦を論じなければなりません。一般にはあれは上洛作戦だったといわれています。 青崩峠から信玄本隊が侵攻、三河へは山県隊が入るルートは、東西に長い徳川領を分断する作戦ですし、秋山隊が東美濃に侵攻することで信長への牽制もバッチリです。史実では朝倉義景が兵を引いてしまったので信長に行動の自由ができてしまいましたが、もし朝倉義景が兵を引かなかったら、信長は完全に手詰まりになっていたでしょう。 ・・・確かに手詰まりになったと思うんですよ、信長は。だけど、それが戦略的にどんだけ意味があるのかというとちょっと微妙なんす。信長は完全包囲をされても、清州―岐阜-横山のラインは保持できたんです。この範囲の中では信長本隊は行動自由です。 一方、信玄は伊勢に抜けるにしても少なくとも清州のラインは東西に突破しないと京都には行けません。信玄本隊は1万ちょっとの兵力ですし、何より長期行軍ができないのでどう考えても清州辺りが「攻勢限界点」なんですよ。信玄公がそれに気づかなかったはずがないですから、果たして本当に上洛を考えていたのか? 一方の信長からすれば手詰まりで完全に打つ手はなくなるのですが、手を打たないと破滅するかというとそうでもありません。最低限、美濃と尾張のラインを保持すれば破たんはしないわけです。結局、「時間がかかればかかるほど有利なのは信長」です。 そして信玄公の戦略というのは、信濃平定から西上野進出まで一貫してそうなんですが、負けないこと重視でまあはっきりいってどんくさい。信長や秀吉のような一気呵成にばあっというのはないんですね。まあそれは当時の軍事事情とかを考えれば電撃作戦というのは現実的には無理なんですが、そこから考えると、あの元亀時代の攻勢作戦は、せいぜい「家康を追い詰める」程度の効果しかなかったと思います。家康にとっては悪夢ですけどね。 では、長篠合戦まで行っていたらどうだったのか。 実は長篠合戦のときの双方の兵力は、武田軍1万5千に対し、織田・徳川連合軍は約4万の兵力を用意したといわれています。いくら名将信玄公といえど、倍以上の兵力と野戦をするほどバカじゃありません。ていうか、野戦指揮官としての能力は、私は信玄公より勝頼のほうが上ではなかったかと思っています。 長篠合戦のとき、信長は息子信忠の兵を弾正山の向こうに隠したというんですね。むしろ野戦を望んでいたのは信長で、信長が一番恐れたのは勝頼が決戦を回避して兵を引くことだったんです。 じゃあなんで勝頼は兵力に劣るのにわざわざ決戦に出たのかというと、実はこの頃手詰まりをしていたのは勝頼側で、勝頼としては「乾坤一擲の決戦で一発大逆転でもしないとジリ貧の現状が打開できない」というところだったんです。 熱狂的武田ファンのオヤジなどは「武田の1兵は織田の3兵に相当する」とあり得ないことをいってるのですが、仮にそうだったとしてもさ、「徳川の1兵は武田兵と互角」なのは三方ヶ原合戦で大敗を被りながら主だった武将を誰一人失わなかったことからも明らかです。徳川軍が8千だったとすると、武田軍の差引の兵力を仮に3倍にしても2万程度の数字になるんだからどの道敵わない。 長篠合戦の勝利は、「戦略家信長の勝利」であり、長篠に信長が到着した時点である意味勝利は決まっていて、勝頼には死亡フラグが立っていたのです。そして勝頼は「戦略の敗北を戦術的勝利でなんとかしようとした」わけであり、現実的に勝頼が信長に対して勝利ができるとしたら「野戦に持ち込んで勝つ」しかなかったと思います。 こと戦略家という点に立てば、戦国オールスターズの中での信長の戦略眼というのは他の追随を許さないものがあると思います。磯田道史氏はテレビ番組で「信長ってその場その場で打つ手はメチャクチャに見えるけど、終わってみたら『その手が正解だった』ということが多くて、凄まじい戦略眼だ」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
お礼
里見家フリークを明言する質問者に対し、氏康びいきを語るとはふてえ野郎だ。お礼入力なんてできねえな!(嘘 ……詳細な考察をお聞かせいただいてありがとうございます。
- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
勝頼が惨敗したのは、家臣団からの信頼を失墜していたためです。 その兆しは、信玄存命中から有りました。 嫡子を殺し、妾である諏訪氏の娘との間に出来た勝頼を後継者としたためです。 信長・家康連合軍側は、早くから武田の家臣達を籠絡し、決戦に備えていました。 その証拠に、武田滅亡後に家康の配下となった有力家臣は、1~2に止まりません。 信玄の死も、味方の裏切りかも知れませんし。 武田騎馬軍団は確かに強力でしたが、知略の上では今一歩でしたか?
お礼
非常に興味深いご指摘です。 大変参考になります。 ご回答ありがとうございます。
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
長篠も何も信玄が無事なら三方が原直後に撤退する必要がないわけですから根本的に戦場の想定が違うと思いますが。 あの時期は信長が腹背に敵を迎えていた時代ですから、勝頼が長篠の戦いをした時期より信長がずっと不利ですよ。 信玄が勝っていた可能性も多分にあるとは思いますが、正直信玄がどういう戦略行動をしていたかが全然読めないので何とも言えません。 遠江三河美濃に楔を打ちこんだうえで謙信の小田原侵攻のごとく相手の本拠地を荒らしまくって撤退するつもりだったのか、あるいは浜松を囲み遠江を攻略して制圧するつもりだったのか、それが成功していたのかしなかったのか、正直誰にも予測はつかないと思います。
お礼
誰にも予想がつかないので、伺ってみました。 歴史のロマンという奴でしょうか。(笑 ご意見をお聞かせいただきありがとうございます。
お礼
>他の回答者の方々が指摘していない点について 質問者からしますと、ご回答の内容の確度に加えて、こういう細かなご配慮があること自体とてもうれしく思います。 お寄せいただいた兵站を視点とするご考察もさすがだなと思う次第です。あつく御礼申し上げます。