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武田信玄が天下をとれば?
>父信虎を追放した晴信が採用した体制は、甲斐の権力者の連合体制であった。これ以後、甲斐国では、勝頼が1582年に信長・家康に滅ぼされる直前まで、甲府盆地(国中)を支配する武田氏、富士川流域(河内)を支配する穴山氏、都留郡(郡内)を支配する小山田氏三者による連合支配が続くことになる。「日本歴史館」(小学館) 以上の、支配方法をみても、武田信玄が天下をとっても群雄割拠が解消されるわけでもなさそうで、戦がなくなるという時代の夜明けを感じることができません。 武田信玄は天下をとるべく出発するものの、途中病に倒れ、志を遂げられなかったのですが、彼がもし天下を取っていたら、どんな日本を造ろうとしていたのでしょうか?
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武田信玄が天下を取るべく出発したというのは、信長が成し遂げた結果からみた結論で、実際は京都見物程度の感覚で出発したと考えざるをえないでしょうね。 もし京を制したとしても、すぐに甲斐に戻ってしまうでしょう。 もともと信長が天下を制したのは兵農分離と政教分離を成し遂げた背景がありますが、信玄はそれができていないために川中島で何回も戦う羽目になるし、京都に出ても農繁期には兵隊を戻さざるを得ませんから。 信玄はあくまでも天皇を中心とした旧体制派の名門ですから、日本を造るのではなく、平安時代に戻すくらいしかできないでしょうね。
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- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E8%88%88 大内義隆と同程度かなと思う。 あるいは、上杉謙信の1553年の上洛程度。
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ありがとうございます。 イソップ童話の「田舎のねずみと都会のねずみ」のような感じで、家来たちは京へでたら、カルチュア・ショックをうけ、はやく甲府へ帰ろうと声を揃えて信玄をせかしていたように思います。
- isa-98
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伊能文書では信長を滅亡まで追い込むつもりだったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E6%96%87%E6%9B%B8 私にはここから上洛、天下取りの野望は見えません。 天皇は元より、将軍すら健在である中で彼が何を望んだのか? 私的には、家康と信長の首だけであったのではないでしょうか? (自国の安泰) 行動を起こしたいきさつは足利義昭の討伐令です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6 これと甲陽軍鑑の内容(天下取り)は少々乖離度があります。
お礼
ありがとうございます。 足利義昭の討伐令で信長を討伐したとして、報償として受け取るものがなければ家来に突き上げられるのではないでしょうか。 官位だけで満足するするほど、家来は裕福ではないように思います。戦費に見合うものがなければ、略奪に走るかもしれません。 なんだか木曽義仲の旭将軍のイメージと重なってしまいます。
- k16399638
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天下を取る、というよりは、あまりに革新的なやりかたをする織田信長に物申す、天誅をくわえる、という考えがメインでしょう。南蛮人とうまくやり、比叡山焼くわバテレンよぶわ、と、わからないことをしている。で、天皇はおろそかにし、幕府も同様。信長許すまじ、です。自分のわからないことに不寛容になるのは人の常でしょう。 で、信長を敗北せしめ、天皇に謁見できたらいいなあ、という考えはあったでしょう。そのとき場当たり的になにか役職を賜って、天下に号令するかもしれませんし、それを期待していたかもしれません。 ただそうなったら、信玄に長期ビジョンがあったか? 非常に疑問です。
お礼
ありがとうございます。 雪の降らない土地で、商業が盛んな土地での支配経験がないので、一貫した政策を打ち出せないようにおもいます。 天皇から官位をもらって、うまく丸め込まれるのでしょうね。
- Willyt
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武田信玄は日本をどういう国にしようというビジョンはなかったのではないでしょうか。彼の言動からはそれを窺い知ることはできません。謙信にはありましたけどね。それに諏訪氏をだまし討ちで滅ぼすようなことをしては天下を取ることはできませんよ。ですから信州の半分以上を領有できただけで死ぬことになるのです。本来なら駿河・遠江は武田が取れた筈です。それができなかったのはやはり恐れられはしたけれども人望はなかったのでしょう。
お礼
ありがとうございます。 変に中央政界に出ると、一年中戦争してしなければならず、そんな戦争ができる軍制をしいていないので、崩壊が早まっただけのような気がします。
お礼
ありがとうございます。 連軍体制ということは地盤が不安定ということを意味しますので、現実に勝頼の代になると分裂してしまいますね。 甲府にいてさえ駄目なのに、中央へ出るのは無理ですね。 確かに京に進出しても、見物が終われば帰郷していたことは十分考えられますね。