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織田信長以外の戦国大名は同じ政策とれなかった?

織田信長が、今日の基準からみて、軍事政策でも、経済政策でも、人事政策でも、合理的な体制をつくったことは、よくわかるのですが、 戦国時代には、織田信長以外にも、優秀な戦国大名も多かったと思います。 武田信玄も上杉謙信も優秀でしたし、朝倉家も昔は優秀な人が多かったと思います。 織田信長が、革新的で合理的な体制をとったので成功したとすれば 他の優秀な戦国大名は、なぜ、信長と同じように、革新的で合理的な体制をとれなかったのでしょうか。

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  • eroero4649
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回答No.2

研究者によると、信長の経済政策というのは世間でいわれているほどに画期的でも独創的でもなかったそうですよ。よくいわれる楽市楽座も領地全域で導入されていたわけではなく、いってみれば経済特区限定の政策でありました。また、各地にある既得権益に手を突っ込めないことも多かったようです。 信長が他の戦国大名に比べて異質だったといえるのは、主に人事面でしょうね。極めて独裁的な大名でした。これは織田家があまり歴史と伝統がある家格ではなかったので家臣団にしがらみがなかったのと、清州という経済都市を中心に土地ではなくお金によって家臣団を把握していたという点があったからだと思います。だから織田家では滝川一益や羽柴秀吉のような身分の低い人もガンガン出世できたのです。実力さえあればガンガン出世できた一方、ハードモードな超実力主義で期待に応えられないと容赦なく二軍落ちです。それゆえに、独裁もできたといえるでしょうね。落ちぶれたくなければ必死で信長の期待に応えないといけませんでしたから。 だから、本能寺の変になってしまったのではないかと思います。家臣は心休まることがないのですよ。信長の機嫌を損ねたらいつ粛清させられるかわからないとビクビクだったのです。それは筆頭家老である柴田勝家や異例の抜擢を受けた羽柴秀吉でさえそうだったのですからね。信長にとって腹心中の腹心であった明智光秀に裏切られたのが逆に信長の宿命的なものを感じます。

yoshida39
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回答No.4

お前みたいのがいるから過疎るんだよ http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9368430.html

回答No.3

武田も上杉も革新的な政策は取ってました 信長の兵農分離は武田信玄がモデルだし 楽市楽座だって上杉謙信がモデルです ただ 信長は彼らより先見の明があった 鉄砲をいち早く取り入れ 堺の商人とのパイプも作りました さらに尾張は京都に遠からず近すぎずでちょうど良かった場所にあった 信長はあらゆる面で武田や上杉とかより恵まれていた

yoshida39
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  • jkpawapuro
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回答No.1

二つの点で信長の真似をできる戦国大名は少なかったと思います。 まず第一に、信長の政策はどれもすごく金がかかります。 信長は伊勢の水運、琵琶湖・淀川の水運、こういったものを掌握してさらに楽市楽座を奨励し広く税を集めました。これは物流の拠点を領有してて且つ商業的な先進地域でないとできません。甲斐や越後じゃ無理です、越前はひょっとしたら可能性あったかもしれません。 第二に織田家は守護代、しかも半国程度の領主から始まった成り上がりものってことです。 よって信長は既得権益層の利権をことごとく没収するし、家臣の領土もいじり放題です、だってそもそも織田家で切り取り家臣に配分しただけですから。 一方守護⇒守護大名⇒戦国大名とエリートの王道を歩んできたような家柄の場合、既得権益を多く抱えた様々な諸勢力の上に乗っかって彼らの支持の元領国を支配しています。こういった大名の場合なかなか既得権益層の利権をぶった切って革新的な政策というのは取れないでしょう。むしろそういったややこしい連中を使いこなして隣国を侵略と考えます。 長尾家は違いますが武田家などは甲斐源氏として名門中の名門、朝倉家も守護に任じられた家柄です。こういった家柄だと下剋上大名と違いしがらみをぶった切るのは難しいです。

yoshida39
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