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プロイセンになる前の改宗と30年戦争

ブランデンブルク選帝候国は1539年にルター派に改宗しているのに、なぜ1618年の30年戦争では神聖ローマ帝国側についているのでしょうか? 勘違いしている可能性もあります(*_*)違っていたらごめんなさい!

質問者が選んだベストアンサー

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  • ithi
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回答No.2

mamegamesさん、こんばんわ。 表向きはブランデンブルク=プロイセン侯国はルター派プロテスタントだったので、新教同盟に加わっていたようです。しかし、ブランデンブルク=プロイセン侯国の国内事情は複雑なものだったようです。皇帝の臣下としての彼の軍隊は皇帝に忠誠を誓っているものが多かったり、自分の意に沿わない宰相が政治を仕切っていましたし、ポーランド王国も彼の権力に掣肘をかけていたようです。だから、状況次第で同盟の相手を変えていったようです。1630年のワレンシュタインの領内における略奪や1631年のマグデブルグの戦いの残虐さから一時皇帝軍を離脱します。1632年からはスェーデンと同盟を破棄して、1635年にふたたび皇帝軍に復帰します。そのためスェーデンから報復を受けます。、そして1640年にゲオルク・ヴィルヘルムは没します。1641年フリードリヒ・ウィルヘルムが選帝侯になり、に1642年にはスウェーデンと和睦して事実上の中立になったようです。ウェストファリア条約ではポンメルンの東半分の領有など漁夫の利を占めました。この戦争は表向き宗教戦争でしたが、裏では皇帝の地位や神聖ローマ帝国の領土を狙う周辺国や帝国内の領土拡大を狙う領邦国家の野心による戦争でした。 詳細は下記のURLを参照ください。 ゲオルク・ヴィルヘルム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF) 30年戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/30%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89 ブランデンブルク=プロイセン侯国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3 ウェストファリア条約 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84

その他の回答 (1)

  • oignies
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回答No.1

戦争が政治的なもだからではないでしょうか。

mamegames
質問者

お礼

ありがとうございます。 戦争と内情を分けて考えるとわかりやすいですね!

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