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イタリア戦争とは?ハプスブルグ家や神聖ローマ帝国との関係も解説
- イタリア戦争は1494年に起こった、フランスと神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルグ家との間の戦争です。戦争の背景や結果、および主権国家の形成との関係について解説します。
- イタリア戦争はフランスと神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルグ家との間に起こった戦争で、フランスがイタリアに進入しました。この戦争は主権国家の形成とも関係があります。
- イタリア戦争は1494年に起こった戦争で、フランスと神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルグ家との間の争いです。この戦争によって主権国家の形成にも影響を与えました。
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詳しいことはNo.1さんが回答していますが、高校の世界史レベルでの理解として、ざっくり説明します。 教科書にはあまり細かいことは書いていないと思いますが、近代以前のヨーロッパでの戦争は、結婚とそれに伴う相続(継承権)が大きく関わってきます。家系図や王位継承権の移り具合を調べると面白いし、ヨーロッパ史がわかりやすくなるのですけど。 まず、当時の「イタリア」は国家ではなく、地理的な用語としてのイタリアです。実際には教皇領、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国などに分かれていました。 「フランスがイタリアに進入した」というのは、フランス王が「自分にはナポリ王国やミラノ公国の継承権がある」と主張してイタリアに攻め入り、支配下に置こうとしたことを指しています。これを阻止しようとする神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家)や他の国との戦争になりました。 神聖ローマ帝国とは、現在でいうドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部のあたりの範囲に存在した国です(範囲は年代によって異なります)。 神聖ローマ皇帝は選挙で選ばれます。イタリア戦争が起こったときの神聖ローマ皇帝はマクシミリアン1世(ハプスブルク家)ですが、彼はオーストリア大公でもあり、選出されて皇帝にもなっていた、ということです。 その後もハプスブルク家の人物が皇帝に選出され続けたので、事実上ハプスブルク家の世襲状態となっていきますが、制度上は世襲ではありません。現に、マクシミリアン1世の死後、マクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主であるスペイン王カルロス1世に対抗して、フランス王フランソワ1世が皇帝の後継者として名乗りを上げています。(結果、カルロス1世が皇帝選挙に勝ち、神聖ローマ皇帝カール5世となりました) ハプスブルク家がオーストリアにもスペインにも登場するのは、結婚による子孫の領土継承の結果です。 マクシミリアン1世はオースリア大公でしたが、ブルゴーニュ公国の女君主であるマリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、二人の子孫はオーストリアとブルゴーニュを相続することになりました。 マクシミリアンとマリーの息子・フィリップはスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の王女ファナと結婚しましたが、スペイン王家ではファナ以外の相続人が亡くなってしまったため、フィリップとファナの間に生まれた子供はオーストリア、ブルゴーニュに加えてスペインも相続することになりました。 そこで、スペインとブルゴーニュ等は長男のカルロス(カール)に、オーストリア等は次男のフェルナンド(フェルディナント)に、と分けて相続することになりました。このときにスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれることになります。 高校の教科書で、主権国家の形成という話題の中でイタリア戦争が出てくるのは、イタリア戦争がきっかけとなって、ヨーロッパでの近代的な主権国家が徐々に形成されていくことになったからです。 中世の封建国家では、封建領主の力は強く、例えばフランス王でもフランスの国土全部を支配していたわけではありませんでした。百年戦争の時に、イングランド王でありフランス王の臣下でもあったプランタジネット家は、フランス王の領地よりも広い領地をフランス国内に持っており、フランス王をしのぐほどの力を持っていたことを思い出してください。 それまでは「王国=国王の支配が及ぶ領土」とは限らなかったのが、イタリア戦争(断続的に何度か起きています)などがきっかけとなって、封建領主の力が弱まり、国王は王権を強めていき、主権と領土が明確になっていって「王国=国王の支配が及ぶ領土」になった、ということです。 主権国家体制の形成は、イタリア戦争だけが原因ではありません。宗教戦争や三十年戦争など、様々な歴史的事件を経て、各国の君主が中央集権的な国家を成立させていったということです。
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- ithi
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earlgrey0101 さん、こんばんは。 ○ハプスブルグ家、神聖ローマ帝国とは何なのか 神聖ローマ帝国というのはカール大帝が作った帝国の中の東フランク王国を基礎に発展した國です。1438年以降は選挙を行って皇帝を選ぶものの、ハプスブルク家の血統が継承します。特にマクシミリアン1世の孫カール5世はスペイン王としてカルロス一世となっており、こうしたことを同君連合といいます。 詳細は下記のURLを参照ください。 ハプスブルク家 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6 神聖ローマ帝国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD ○イタリア戦争と主権国家の形成との関わり イタリア戦争というのはとても長い戦争です。1494年~1559年までかかります。 フランスはこの後、カトリックとプロテスタント(ユグノー)との対立になります。イタリアはほとんどの国土が外国の支配になり、文化や経済面と違い、政治面では大きく後退します。ほとんどがハプスブルク家の支配下もしくは影響下にはいります。 ○イタリア戦争とはどのような戦争なのか(背景、結果など) はっきり言うとフランス国王シャルル8世がナポリ、ルイ12世がミラノを継承したということを口実に、神聖ローマ帝国がイタリア政策によって、得ていたイタリアでの既得権を奪おうとしたのが始まりですね。 だけど、長い戦いの中では勝敗あったものの、やはり、神聖ローマ帝国やスペインのハプスブルク家の力が圧倒的に強く、フランスは結局、イタリアでの権益を獲得できませんでした。 イタリア戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E3.82.A4.E3.82.BF.E3.83.AA.E3.82.A2.E6.88.A6.E4.BA.89.EF.BC.881499.E5.B9.B4_-_1504.E5.B9.B4.EF.BC.89
お礼
なるほど、、! 認識が曖昧だった点をわかりやすく解説してくださり、本当にありがとうございます。 URLも参考になりました!
- moha91
- ベストアンサー率58% (125/212)
「イタリア戦争」が何を表すか、と言う部分は議論が有るのですが、 基本的には15世紀末から16世紀中盤にかけて、フランス王朝のヴァロワ家と、神聖ローマ帝国を実質的に支配していたハプスブルク家両者の領土拡張争いによるイタリア侵攻とそれに伴う両者の戦いを総称してイタリア戦争、と呼ぶと考えます。 で、基本的な用語については、これは学生である質問者様は自分で勉強すべきことですので、各単語については自身で勉強のためにお調べください(ハプスブルク家、ヴァロワ家、神聖ローマ帝国など)。 下記は本件の流れですので、理解の助けになると思います。 前提・「イタリア」は一つの国家を形成していない(教皇領、ナポリ王国、シチリア王国、ヴェネツィア等の都市など多数の国家が存在) ・ナポリ王国はヴァロワ家が支配していたが、15世紀中盤にアラゴン王国(スペイン)に征服される ・1494年ミラノ公国で支配権継承で内紛があり、これにヴァロワ家とハプスブルク家が巻き込まれる。教皇が仲介しヴァロワ家は一時的にミラノの継承権を得たと思われたが、後に教皇が破約し宙に浮いた状態となっていた 1494年 フランスのヴァロワ朝シャルル八世がナポリ及びミラノの支配権を主張してイタリアへ侵攻。一時的にイタリアの一部を支配下に置く 1495-98年 フランスの侵攻に反発したイタリア諸国家がほぼ全面的にこれに対抗。また「イタリアの守護者」を自認する神聖ローマ帝国ハプスブルク家とスペインがこれに協力。これら諸国が神聖同盟を締結し最終的にフランスを完全に包囲してフランスを敗走させることに成功。 1498-1504年 フランスのルイ12世が再度イタリアへ侵攻。スペインが介入し、これを撃退。以後はナポリ王国がスペインの支配下に。 1508年 ヴェネツィアの影響力を嫌った教皇ユリウス2世がルイ12世、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世、アラゴン王国フェルナンド2世と結んで反ヴェネツィアとしてカンブレー同盟を結成。ヴェネツィアの影響力を削ぐことに成功するが、今度はフランスの勢力がイタリア内で強くなる。 1510年 フランス影響下の諸国へ、和解したヴェネツィアと教皇軍が同盟して攻撃を開始。しかし各地で敗退。 1511-12年 ユリウス2世が再度神聖同盟結成を提唱。これに再び神聖ローマ帝国、スペインと更にイタリアでの権益を狙っていたイングランドが参加し包囲網が作られる。最終的にフランスはイタリア全土で敗退を重ね、ほぼイタリアでの権益を全て消失する。 1513-14年 フランスの旧支配下所領を巡って再度各国で対立。特にヴェネツィアと教皇が再び対立し、またハプスブルク家がヴェネツィアの帝国支配権の主張を譲らず、ヴェネツィアが最終的に神聖同盟を離反して、再びフランスと同盟。再びイタリアへ侵攻したフランス軍は再度撃退され、さらにヴェネツィア軍も壊滅的敗北を喫する。ところが、この間にまず教皇ユリウス2世が死に、後任のレオ10世は戦争には関心を示さなかったため教皇軍が終始守勢の体制になり、次にヘンリー8世が求めていた領土拡大がならず神聖同盟から撤退した。これによって神聖同盟側は最終的な勝利を得ることができないまま膠着。 1515-16年 ルイ12世が死に跡を継いだフランソワ1世は再びミラノ奪還を目指して攻勢に。最終的にイタリア内での勝利を重ねて、ミラノ公国領の奪還に成功する。神聖ローマ帝国軍の侵攻も撃破し、神聖ローマ帝国、スペインと和議を結んだフランスは、イタリアでの権益を1508年以前の状態に回復することに成功。 1519年 神聖ローマ帝国の皇帝選出選挙でフランソワ1世がスペイン王カルロス1世に敗れる。カルロス1世が神聖ローマ帝国カール5世として即位。カルロス1世はハプスブルク家出身の為、フランスはハプスブルク家に包囲される形となる。 1521-26年 イタリアでの権益を確保しておきたいフランソワ1世と、イタリアでの権益回復を目論んでいたカール5世が断続的に戦闘を継続。一時フランソワ1世は捕縛されるものの和約によって解放の後、更にイングランドやイタリア諸国、ハプスブルク家の影響を弱めたい教皇クレメンス7世と結んで(コニャック同盟)戦闘を継続。 1527-30年 コニャック同盟に激怒したカール5世がローマへ直接侵攻、略奪、虐殺等徹底的に破壊活動を行う(ローマ略奪)。これによってローマはカトリック史上最悪の壊滅的被害を受け教皇が屈服。その後も帝国軍がイタリア各地で勝利し、貴婦人の和約によってフランスが権益を放棄し、イタリア域内でのハプスブルク家の優位がほぼ確定的状況になる。 1536-38年 ミラノ公国での継承問題から再びフランソワ1世がカール5世と散発的に戦闘を行うが、教皇パウルス3世によって休戦。 1542-46年 今度はオスマン帝国と結んだフランソワ1世が再びカール5世と戦闘を開始。一時的にイタリア国内で勝利を収めるなどしたが、最終的にはクレピーの和約およびアルドレスの和約によってフランス側の敗北が決定。 1551-59年 フランスがシエナと結ぶ。これに対し、ヴェネツィアがシエナを攻撃、ハプスブルク家がフランスと断続的に戦闘。最終的にスペイン王フェリペ2世がフランス側とカトー・カンブレジ条約を締結し、ミラノの支配権をスペインが握ることが確定し、これによって最終的にイタリア戦争が終結。 イタリア戦争の流れについては以上です。 一つ質問内容で良くわからないところは >イタリア戦争と主権国家の形成との関わり この部分です。 イタリアの統一国家としての主権国家形成は19世紀のカルボナリ党の出現まで待たねばならないため、本件とは論点がずれると思います。 イタリアは、イタリア戦争当時の状況として、ローマ教皇領が多くの部分を占めていたこと、この他にナポリ公国、ミラノ公国、シチリア王国などの有力国やヴェネツィア、フィレンツェなどの共和制の有力都市国家があったこと、また有力国家は上記のハプスブルク家、ヴァロワ家などの外国勢力から支配に脅かされていたこと、などがポイントとして挙げられるでしょうか。 以上、参考にしてください。
お礼
なるほど…. じっくり読ませていただき、背景がよくわかりました。 ていねいに説明してくださってありがとうございます。 詳しい解説、勉強になりました。
お礼
イタリア戦争が主権国家の成り立ちで出てきている理由はそういうことなんですね! ハプスブルグ家や神聖ローマ帝国が何なのかもよくわかりました。 高校の世界史に合わせて、わかりやすい解説でイタリア戦争の要点と歴史を教えてくださり、ありがとうございます。