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古墳作りに借り出された人たち
古墳作りには一般の農民も多数動員された様ですが 彼らには給料(の様な物)は支払われたのでしょうか? それとも「大王のために」と言われてタダ働きだったのでしょうか?
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何しろ資料の無い時代の事ですので、考古学的な推察しか出来ません。 前提は「賃労働」か奴隷レベルの「只働き」かのどちらかになるでしょう。 そうして考えてみると、只働きをさせるのに必要な事は「完全な統治」が要求されます。 つまり「完全」な生活の安全の保証を統治者が行えた場合に、その見返りに「奉公」が成立すると考えられます。 ではこの時代に仮にA村とB村があったとして、その両村が境界を接していたとき、何処まで統治者が(一人か複数かは知りませんが)畑の境界の安堵や収入の保証を出来たでしょうか。 統一国家では無かった事は確かな訳ですから、そう考えると労働者にも統一されたルールは無かったのではないでしょうか。 ま、物証の無い状態ではあくまで想像のお遊びになってしまいますが・・・
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- TANUHACHI
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ご質問とは少し時代が異なりますが、9世紀初頭(弘仁14年、823年)に太宰府管内で行われた所謂「公営田」の形式は賃労働とも理解できます。それまでの律令制的徴税システムの発想とは異なり、耕作に対する代価を支払うとの形式ですので、雇用と賃金の関係にも匹敵します。搾取される一方だった律令制的システムとは逆の発想です。 本題に戻りますと、備中を拠点とした吉備氏や北関東の上毛から下野あたりを拠点としていた上毛野氏などといった地方豪族ならばそこに隷属させていた人間の数が少数ではなかったことも容易に想定できます。更に彼等が潤沢な経済基盤の上に地方支配を実現させていたことも踏まえるなら、私有民を陵墓作りに動員したこともほぼ事実といっても過言ではないでしょうね。 ただし、そこに賃労働的な雇用関係があったかどうかは飼料がありませんので、断定は困難かと存じます。
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ありがとうございます
- kuma8ro
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直接労役に駆り出された人夫たちについては、No1の方の言われる通りだと思います。 私は、残された家族はどうしていたのだろう?と思います。 当時はかなりの大家族だったと考えられますので、なんとかなったのでしょうけど。 少しは家族にもご褒美をもらわないと、やってられないよね。甘いかな。
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ありがとうございました
- 1paku
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江戸時代、農民たちに対する負担が、年貢と、労役の二つだったことから想像すれば、古墳時代も、給金はなかったでしょう。 ただ、人は食べなければ死にますから、作業期間、最低限の食事ぐらいは用意されていたのではないでしょうか。 もっとも、怪我や病気で働けなくなっても、同じように食事提供があったかどうかは、、 昔すぎて、具体的な資料はないですね。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます 当時大王と言っても天皇レベルではなく あくまで一国の支配者レベルでしょうから全国からの動員は難しかったでしょうね