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古墳について

日本以外の国の墳墓の多くには被葬者の墓誌銘というものが見られますが我が国では天皇陵と言われているものでも多くは明確に被葬者が解るものが少ないようです。では何故日本の墳墓には墓誌銘が無いのでしょうか。埋葬当時は誰が埋葬されたかは皆知っていたから墓誌銘が無いという説を聞きました。当時の人達は将来被葬者が判らなくなるという心配が無かったのでしょうか。又死者の甦りの思想は無かったのでしょうか。祟りといったことも影響しているのでしょうか。お教え願います。

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  • oska
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回答No.1

>我が国では天皇陵と言われているものでも多くは明確に被葬者が解るものが少ないようです。 その通りですね。 幕末から明治初期にかけて「大きな古墳は、天皇陵だ!」として管理を始めましたし、方墳・円墳でも「強制的に前方後円墳に作り直し」をしています。 まぁ、誰も墓か?が重要でなく「天皇は古代から長であった」事が重要だったようです。 神武陵=15062両、応神陵=3050両、雄略陵=2386両で、幕末に新たに墳墓を築造しています。我が藩は、勤皇なるぞ!とのアピールですね。 大仙古墳(伝仁徳天皇陵)も、誰の墓か宮内庁でも断定していません。 江戸時代、大仙古墳頂上には「堺町奉行所の離れ(屋敷)」があり、花見で賑わったようです。 >埋葬当時は誰が埋葬されたかは皆知っていたから墓誌銘が無いという説を聞きました。 確か、墓誌銘は複数発見しています。 ですから、墳墓の近く(数キロ内の)神社仏閣には残っていたハズです。 が、既に統治能力が無かった時代ですから、朝廷・幕府としても墳墓を重要視しなかったのでしよう。 戦国時代から江戸幕府初期には、多くの墳墓が「砦・出城」となっています。 また、明治期の廃仏希釈で無くなった寺院も多いですから、墓誌銘も無くなった可能性があります。 >当時の人達は将来被葬者が判らなくなるという心配が無かったのでしょうか。 その通りです。 死んだらお終い!が一般的です。 平城京でも分かる様に、多くの大墳墓(前方後円墳・方墳・円墳)を朝廷自ら壊して都を作っています。 >死者の甦りの思想は無かったのでしょうか。 祟りは、宗教的なものです。 平安時代以降、祟りが一般的になったのです。 徳川将軍家の墓地は(子孫の許可を得て)、学術調査が行なわれています。 が、宮内庁管轄墳墓には「皇族以外立入禁止」ですね。 誰の墳墓なのか? 重要な問題だと思うのですが・・・。

noname#85302
質問者

お礼

地方の民間考古研究者として宮内庁管轄古墳の調査は必要と思いますので運動したいと思います。

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